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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える

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Category戦争と共産主義
昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、わが国政府はこれを連合国に通知し、翌15日の正午に昭和天皇自らの肉声による『終戦の詔書』が全国に放送された。

終戦の詔書

わが国が敗戦した当時、国外にいた軍人・軍属がおよび民間人はそれぞれ約330万人で、合わせて660万人と見られているのだそうだが、帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、敗戦の翌年までに約500万人が海外から戻ってきたという。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html

上記サイトでは、「ソ連に抑留されたり、中国内戦で留用されたり、帰還が遅れた者もいた」とさらりと書いているのだが、蒋介石配下の中国大陸からの復員と引き揚げは順調に進んだものの、ソ連については多くの日本人を捕虜収容所に入れたまま、なかなか返さなかったし、実態は奴隷同然に扱われて多くの死者が出たのだ。いまだに「抑留」などという生易しい言葉で表現するのはロシア(旧ソ連)に対するわが国の外交的配慮なのか。



前回の記事で紹介したウィロビー回顧録にはこう書かれている。
「1949年4月の時点で、まだ五十万に近い日本軍兵士が未帰還になっていた。このうち三十万名以上がシベリアに連れ去られたままであり、ほぼ十万名が樺太や千島列島で姿を消したままだった。そして約五万名が毛沢東の支配地域で『行方不明』になっていた。…
GHQは1946年から1949年にかけて、どこかに消えてしまったこの50万名の兵士を帰国させるようにと、ことあるごとにソ連に圧力をかけ、必死の努力を払ってきた。…」(『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』p.93-94)

わが国は引揚者のために、呉、佐世保、博多など全国各地に引揚港を設置したのだが、他の引揚港の業務が終了していくなかで、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港だった舞鶴港だけは、ソ連のために昭和33年(1958)まで引揚業務を終えることが出来なかったのである。

その舞鶴港の近くに「舞鶴引揚記念館」という施設がある。
数年前に一度訪問したことがあるのだが、ここにはソ連の捕虜収容所や引揚船の模型、シベリアの収容所内の生活で用いられた食器や衣類などが展示されていた。

丹後半島旅行 003

舞鶴引揚記念館HPの解説では、日本人捕虜は酷寒の中、森林伐採や石炭採掘などの強制労働に従事させられ、食事は「黒パン」が一切と極度に栄養価の低い「カーシャ(水粥)」と呼ばれる粥のみが与えられる悲惨な食糧事情であったことが書かれているが、ソ連が何のために大量のわが国の兵士を捕虜にして、この場所でどれだけ多くの命が失われたかについてはほとんど書かれていないのは残念なことである。なぜ、ソ連の戦争犯罪に触れようとしないのだろうか。
http://m-hikiage-museum.jp/index.html

まずわが国の犠牲者の数について考えてみる。
ウィロビーの回想録には、GHQがシベリアから帰還した日本兵にヒアリングをして、ソ連における日本人捕虜の実態を把握しようとしたことが書かれている。

「ついに故国の土を踏んだ生き残りの引き揚げ者たちが、決してウソは言わぬと誓い、涙ながらに語った証言によれば、100ヶ所以上のソ連収容所にいた209,300名の捕虜のうち、51,332名が栄養失調や伝染病で死亡したという。その死亡率は24.5%に達する。さらにある地域では死亡率は60%にも達していた。
地方病院の墓堀りとして働かされていた引き揚げ者の、次のような報告は典型的なものであろう。
『飢えと疾病のためあまりに多くの人が死んだので、50名からなる屍体処理班は、死者を焼く仕事を遅滞なく果たすことができなかったほどです。軍医の話だと、1945年から1947年にかけての死者の数は、その地域では30%の高率に達したそうです』
その証言者はそう語ると、しばし絶句してしまった。」(同上書p.95-96)

GHQの報告にはバイアスがあって当然だと考える読者もいると思うので、次にわが国の厚生労働省の数字を紹介しよう。
厚生労働省のHPには
a.旧ソ連地域に抑留された者         575千人
b.帰還した者                473千人
c.死亡と認められるもの            55千人
d.病弱の為入ソ後旧満州、北朝鮮に送られた者  47千人
と書かれている。
数字のまとめ方としてはおかしな書き方だが、a=b+c+dの関係になっているので、aが総数で、b,c,dがその内訳だということになるのだが、この数字ならば死亡率は9.6%にすぎない。
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html

しかし、この厚生労働省の数字にはトリックがあり、「行方不明者」が初めから除外されてしまっている。ソ連との戦いで命を失ったものや、ソ連に送られる途中で死んだ者もいるだろうが、終戦後ソ連管轄地域にいたはずの日本人はもっと多かったと思われる。「行方不明者」の数を隠すことで「旧ソ連地域に抑留された者」の総数を意図的に減らされてもわからないし、そうすることによって「(旧ソ連地域で抑留後)死亡と認められる者」の人数を小さく見せることが出来ることは誰でもわかる。
シベリアにおける日本人犠牲者については、次のサイトが良く調べておられて資料も豊富なので、一度目を通されることを薦めたい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

上記サイトを読んでいくと、平成21年(2009)にロシアの国立軍事公文書館で、第2次大戦後に急ソ連で抑留された軍人や民間人が最大で76万人の新資料が発見され、日本政府に提供することで原則合意したという東京新聞の朝刊(2009/7/24)記事が紹介されている。

0724NewShiryou.jpg

それからどうなったのかがさっぱりわからないが、ソ連で捕虜とされた日本人も、捕虜となった後に死亡した日本人も、厚生労働省の数字をはるかに上回る数字になることは間違いがないだろう。

0901Yomiuri37.jpg

また昭和25年(1950)12月11日に外務省は、37万人がソ連から未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べたのだが、それから後にわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だったという。とすると、旧ソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたことになる。(上の画像は1950/12/12読売新聞朝刊)

では、ソ連は何のために大量の日本人を捕虜とし、強制労働をさせたのだろうか。
ウィロビーはこう書いている。
「ソ連の捕虜収容所で、日本軍捕虜たちがいかなる扱いを受けてきたか、…帰還兵たちを尋問したG2(連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部)の情報員たちでさえ、驚くほどの実情だった…。
『われわれは、まるで奴隷のように重労働を課せられ、多くの仲間が栄養失調と病に倒れ、そして死んでいった』
帰ってきた兵士たちの多くは口をそろえた。それでも早い時期に帰れた捕虜たちは恵まれていた。多くは一日、また一日と帰還を延ばされていた。ソ連当局はこれら日本人捕虜のなかから慎重に人選し、これを日本に帰したのち、第五列(国内事情を、特定国または敵軍に通報するいわゆるスパイ行為をする一群の人々を指す)の指導的任務につかせるために『洗脳教育』をしていたのだった。」(同上書p.97)とある。

img20120815192623701.jpg

ではどんな『洗脳教育』がなされていたのだろうか。
簡単に言うと、ソ連は日本人捕虜に対して、搾取者であるアメリカの支配下に置かれた日本での生活に恐怖を抱かせた後、天皇制を崩壊させ日本に共産主義政権を樹立し日本共産党に入党して支援する旨の誓約をさせる。
その上でやがて日本における将来の任務のための特殊訓練を施され、要求するレベルに達しなければ、強制労働の世界に戻されるという仕組みだったそうだ
。日本人たちは、故国に帰るためには、他たとえ表面的にでも、ソ連の言いなりになるしかなかったのだ。
要するにソ連は、わが国を共産主義国家とするための工作員を大量に育てて送り込もうとしたということだろう。

シベリア帰還兵の手記を読んでも、ソ連が洗脳教育を行なったことを確認できる。たとえば、福井県の馬橋正氏は、
「日本の兵士、特に日本で貧困生活を味わった兵士は、資産家育ちの兵士とは別に共産主義を指導して帰還兵を乗船させる前に洗脳して日本へ帰す、そして日本での共産主義を拡大させようと企画したことは間違いなかったと思います」と書いておられる。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13yokuryu/S_13_124_1.pdf

そしていよいよソ連は昭和24年(1949)に、95千名の「教化済み」引揚者を日本に注入する計画を実際に行動に移したのである。

ウィロビーの回顧録に、1949年8月5日付『ジャパン・タイムズ』紙のソ連からの帰還兵の記事が出ており、興味深いので紹介したい。

ソ連がその捕虜収容所から日本へと帰国させてくる連中は、人間なのか、それとも獣なのか
 長い間、息子の帰りを待ちわびていたある母親が、苦悩の色を浮かべながら『あそこでは、息子になんていうことをしてくれたのだろう?』と悲嘆の叫びを上げている。こうした叫び声は、9年になって引き揚げ業務が開始されて以来、何度も何度もこだまとなって響いたものである。
 こういう叫び、こういう疑問を発しなければならなかったのは、引き揚げ者たちが、人間を獣と分かつ、あの感情や感覚を些かも持ち合わせていないことが、ひとたびならずあらわにされたからである。故国を眼の前にして、しかも愛する人が待っているというのに、港について一週間以上も、引き揚げ者たちはかたくなに上陸を拒否した。
 そうかと思うと、温かい歓迎の言葉に野次を飛ばし、心からの同情のうちに差し伸べられた手をむげにはねつけたりしたのである。そのうえ数年もの間、彼らの帰りを待ちわび、ひとつ屋根の下で生活することを切望していた家族を冷たくあしらう連中すらいた。獣の群れのように行動する彼らは、群れのリーダーの言いなりに振る舞ったのである。…
 …いまや日本人は過去においては知らなかったかもしれないが、共産主義が人間をどうしてしまうのかを理解した。自由を愛する国民は人間からその人格と人間としての資質を奪い取ってしまうイデオロギーをまざまざと見せつけられたのである」(同上書 p.101-102)

下山事件

この記事を読む限りでは、ソ連からの引き揚げ者たちが筋金入りの共産主義者になっていたかどうかまでは読み取れないのだが、この年の7月5日に下山事件(国鉄総裁が失踪し遺体で発見)、7月15日に三鷹事件(無人列車暴走で6人死亡、20名負傷)、8月17日に松川事件(列車脱線て転覆で3人死亡)という奇怪な事件が相次いで起こっている。
この3つの事件は「国鉄の三大ミステリー」とされて、共産主義勢力が仕掛けたものなのか、アメリカが共産主義勢力を弱体化させるために共産主義者の仕業のように見せかけたものなのか、今もわかっていない。
いずれにせよこれらの事件が発生して以降、「共産主義者がわが国で革命を起こそうとしている」とか「ソ連からの引き揚げ者は共産主義者だ」という噂が広まっていったようなのである。
そのためにソ連からの引き揚げ者はかなり警戒されて、それぞれの郷里に引き渡すまでは軍事的コントロール下に置かれるようになったという。

埼玉県朝霞市の高橋秀雄氏が『私のシベリア抑留記』という文章をネットで公開しておられるがそれを読むと、舞鶴は「シベリアの収容所そのものだった」と書いていることに誰しも驚いてしまうことだろう。ちなみに高橋氏が引き揚げ船で舞鶴に到着したのは、松川事件が起きた44日後の10月1日であった。しばらく高橋氏の文章を引用する。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

「我々は信じられぬ光景を目にすることとなった。
上陸直後、吾々の宿舎となった舞鶴援護局の周辺には、新しい鉄条網が張り巡らされていた。さらに武装した警官隊が鉄条網の外に、中を監視するように配置していた。

あのシベリアの収容所そのものだった。

出迎えた家族との再会の場は二〇メートルも離れたフェンス越しであった。さらに、帰還者を京都へ運ぶ国鉄当局は、ダイヤまでも組み替えて、乗換駅での滞在時間を短くし、帰還者たちだけが一つに集まらぬよう一般客のあいだに分乗させた。少人数ごとに京都駅まで運び、出向かえた家族に引き渡す方法をとった。
シベリア帰りは共産主義者というこの噂を真に受けたのだろう、親兄姉までが惑わされていたようだ

故郷に帰り着いた後も、警察が、シベリア帰りの者のいる家々に調査に来たこともある。
日本の世情が飲み込めない吾々は、復員した戦友たち同士無事を確認し合うためによく互いの家を行き来した。生きて帰った喜びを吾々は、手拍子を叩きながらシベリアでおぼえた平和の歌を歌い、底抜けに明るくソーラン節を踊った。…」

シベリアで捕虜になり生きて帰ってきた日本兵を、決してわが国は温かく迎えたのではなかったのである。実家に戻ってからも周囲から冷たい視線を浴びて、本人だけでなくご家族の方も、長い間苦しまれたことであったろう。

前回の記事でソ連がわが国の中枢に浸透していて、ソ連主導で戦争を終結させようとしている旨の英国立公文書館所蔵の最高機密文書を紹介したが、その文書によるとソ連はわが国を共産主義勢力に取り込む寸前のところまで来ていたことになる。
アメリカがわが国に原爆を落としたのは、早期に戦争を終結させてソ連の野望を挫き、主導権を掌握しようという意図があったのではないか。
わが国がすぐに敗戦すれば、ソ連は「戦勝国」という立場にはなりえない。慌てて対日参戦するが、千島や樺太の日本軍の抵抗にあい、北海道の領有をも断念することとなる。 わが国の共産国化に失敗したスターリンは、今度は大量の日本兵を捕虜とし共産主義革命の戦士に育て上げ、日本に帰還させた後に内乱を仕掛けて再度わが国を取り込もうとしたのだが、日米が協力してそれを阻止したという流れではなかったか。

スターリン

先程紹介した高橋秀雄氏の『私のシベリア抑留記』には、驚くべきことが書かれている。
スターリンは…強硬に北海道占領を要求した。
が、トルーマンは強引に退けた。スターリンは怒り、北海道占領に代えて日本軍兵士六十三万余のシベリア移送命令を出し、労働現場に配置した。
また「日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す」と宣言した「ポツダム宣言」が有るにも関わらず、日本政府からは、将兵の帰国要求申し入れは全くなかった、という。むしろ「貴軍経営のためどうぞお使いください」と日本人将兵の労務特供給の申し入れをしたのは他ならぬ日本政府・大本営であったという
このことは共同モスクワニュースが詳細に伝えた。
このために、六十三万余の将兵が長年に渡って、酷寒の地シベリアでの強制労働、飢餓を味わうことになった。」

共同モスクワニースの記事をそのまま信用することはできないが、結論めいたことを言うと、シベリアで捕虜にされた人々は、わが国を共産主義陣営に取り込もうとするソ連と、それを許さないアメリカの水面下の駆け引きが続くなかで、その双方の犠牲者であったということだ。
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8Comments

Bruxelles  

シベリア抑留

しばやんへ
「日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す」と宣言した「ポツダム宣言」が有るにも関わらず、日本政府からは、将兵の帰国要求申し入れは全くなかった、という。むしろ「貴軍経営のためどうぞお使いください」と日本人将兵の労務特供給の申し入れをしたのは他ならぬ日本政府・大本営であったという。
なによりここが大事です。瀬島がどうのこうのという説が出ていますが、個人の次元の話ではない。日本が選択したあるいは交渉した?敗戦は歴史始まって以来最低最悪の敗戦処理だったわけです。東京裁判云々の説も、考えてみれば「降伏条件に自国で自国の犯罪者を処分するときちがいじみたことを申し出ています」よく考えるといくらなんでもそんな腐った国はないよと後で気づいて、連合国側につまりはマッカーサーとキーナンに「お任せします」と委ねたのです。全面委託。東條のいる監獄にまで押しかけて「こら、口車をあわさんかい。」と圧力をかけたのは有名な話です。処刑者が誰一人弁明しなかったのはそのためです。

2013/12/30 (Mon) 12:15 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: シベリア抑留

Bruxellesさん、ありがとうございます。
高橋秀雄氏の『私のシベリア抑留記』には驚くような話がいろいろ書かれているのですが、極めつけはその部分ですね。それが事実だすると、大本営の幹部には共産主義者がいたことの根拠の一つにはなるでしょう。

ご指摘の、「こら、口車をあわさんかい。」と圧力をかけた話は初めて知りました。出典を御存知でしたらご教示ください。

2013/12/30 (Mon) 12:44 | EDIT | REPLY |   

Bruxelles  

新年明けましておめでとうございます「

しばやんへ
これでシベリア抑留も東京裁判も腐臭の根源は同じなのだとわかります。
東條に偽証を強いた話は有名だと思うのですが意外と知られていないらしくて、同胞からよく同じような質問を受けます。
映画「プライド」にそのシーンが詳しく出てきます。
http://goodlucktimes.blog50.fc2.com/blog-entry-45.html
さらに詳しくはこちらです
http://blog.goo.ne.jp/namedpast/e/50be674f1f6cdc532fdfc44407e488b8
(抜粋)東條は「心配するなと米内に伝えてくれ。恥を忍んで生き延びているのも、その役割を果たしたいからだ」と答えた。東條は裁判で、先の戦争は自衛のための戦争であり国際法を破るような侵略戦争ではないと、日本の戦争の正当性を主張した。その勢いでふと「臣民は陛下のご意志に逆らうことは断じてしない」と口を滑らせてしまう。これでは天皇陛下は開戦に積極的な意思があったとみなされる可能性がある。再度弁護士に注意され「私の開戦の決断に陛下は渋々同意された」と再度の尋問で前言を翻す。この辺は映画「PRIDE」にも描かれている。

Fellersの文章では「心配するなと米内に伝えてくれ。恥を忍んで生き延びているのも、その役割を果たしたいからだ」と答えた。となっていますが映画「Pride」ではー「この私が将門なのか」と東條がもがき苦しむーのです。実際は将門どころの話ではなく、ナチスドイツと同罪、日本を犯罪国家に仕立てた瞬間です。
阿南が「米内を切れ」と叫んだこともまったく検証されていませんが、同じライン上に解答があると思います。

2014/01/01 (Wed) 13:34 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 新年明けましておめでとうございます「

Bruxelles さん、新年のメッセージありがとうございます。

Bruxelles さんは、現代史の英語史料を相当読み込んでおられるようですね。私は英語が弱いので、ついつい日本語の文献ばかりを探してしまいます。
恥ずかしながら、東條に偽証を強いたという話は知りませんでした。出来れば裏を取りたいところですが、その裏付けとなるよう日本語の史料はあるのでしょうか。東條は天皇を守るために、全責任を負ったという話は聞いたことがありますが…。

『プライド』は封切された1998年に観たのですが、その当時はあまり現代史に関心が低かったので、細かい内容はほとんど忘れてしまっています。最近ようやくDVDが出たようなので取り寄せて観ることにします。



2014/01/01 (Wed) 22:43 | EDIT | REPLY |   

Bruxelles  

東京裁判

しばやんへ
シベリア抑留から東京裁判にテーマが移動してしまいましたが、ここは大事なのでコメント続けます。
「出来れば裏を取りたいところですが」とありますが、これは東京裁判の東條の証言をまともに見れば、先の証言と翻した証言のどちらも実写filmで出てきます。東京裁判関連の書物をみれば、裏は簡単に取れます。太陽は西からではなく東から出る、というくらいに。
wikipediaの東條にも詳しく書かれています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hideki_Tojo
The sustained intensity of this campaign to protect the Emperor was revealed when, in testifying before the tribunal on December 31, 1947, Tōjō momentarily strayed from the agreed-upon line concerning imperial innocence and referred to the Emperor's ultimate authority. The American-led prosecution immediately arranged that he be secretly coached to recant this testimony. Ryūkichi Tanaka, a former general who testified at the trial and had close connections with chief prosecutor Joseph B. Keenan, was used as an intermediary to persuade Tōjō to revise his testimony.
東條に前言を取り消すように指示したのはキーナン側であり、協力したのは、田中隆吉、ここには書いていませんが、米内、清瀬弁護人、Fellers、寺崎、木戸などなど。
ばりばりの保守の方でこれを知らない方が非常に多いのは、ひょっとして日本語資料では隠蔽されているのでしょうか?否東京裁判関連なら、ふつうに出ていると思います。東京裁判はしたがって明らかに日米の協力合作の成果なのです。東京裁判否定に自称保守が一切立ち上がらないのはこのためです。

2014/01/02 (Thu) 12:35 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 東京裁判

Bruxellesさんへ

アメリカにとって不利な事実がアメリカ側の公式記録に残されているという点は重要ですね。
私ももう少し調べてから、東京裁判について書いて見たいと思います。

貴重な情報ありがとうございます。

2014/01/02 (Thu) 17:02 | EDIT | REPLY |   

魔除けに牛島辰熊  

某抑留者の声

義理の叔父が満州の独立工兵二九連隊第六中隊(満州第1894部隊ム隊)で部隊長やってて敗戦後部隊ごとシベリアへ送られたんですが、  
当部隊の抑留体験者達が収容所時代の思い出を語った文集が手元にあるので、ネット上に記録を残すべく一部書いときます↓
 

【随想断片】~佐々木某

(略)シベリアは満州にも増して寒さが痛かった。 昭和二十年冬から三冬すごしたが、体力維持が手一杯であった。(略) 
そんなある日、私の小隊から食うや食わずの労働の連続と粗食のため一人の死者が出た。 
解剖の結果、胃袋の中からスギナの青草が検出された。 それで「お前の監督不行き届きのせいで死んだ」と言われて三日間の営倉に入れられた。 
彼は栄養失調で死んだのであるが、偉大なソ同盟は捕虜に対する食糧の供給も医学的な対策も何も無いものだから、私を営倉に入れる事でウヤムヤにした。 
いつも彼らがやる常套手段でスリ替えたのである。(略)  
日本帰還の際は、「偉大なるソ同盟の今日までの御恩は忘れません。 米帝国主義が支配する祖国へ帰ったら、帝国主義を打破し皆が笑って平等に暮らせる民主主義を打ち樹てるべく決死の勢いでもって祖国へ敵前上陸する事を誓います」  
と挨拶をして帰国の途に着いたが、思えばウソでもいいから早く父母の待つ故郷へ帰りたかったというのが本音だった。 
来る日も来る日もノルマ完遂で、病人が増えるばかりの生き地獄には長居無用と思ったのは私だけではなかったと思う。 
その為か、帰国して少しの間地元警察に監視されたものの“アカ”ではなかったから解除された。(略)    

↑って感じの抑留記が三十人分位載ってました。 
他にも連行中に脱走しようとした仲間達が目の前で銃殺された話とか、一食がオートミルの粉末を油で溶かしたもの湯呑み半分ほどだったため栄養失調によって多い日で十名以上死者が出た収容所の話とか、
栄養不足になると色欲もなくなるとか、過酷な労働の合間に演芸会をやったりした楽しい思い出もあるとか、
帰還の際に船上から馬が草食ってる姿を見て「おい!いま日本は食糧難だと聞いたが草があるぞ!草があれば飢えずに済むわい!」と、一同喜んだ等といった話が載ってました。 
彼らの為にも全部書いときたいとこですが、キリが無いのでホンの一部だけ紹介した次第(;^_^A  
(ちなみに義叔父が書いた分は先日『シベリア抑留死亡者遺児の会』ってブログさんとこに書いときました)

んじゃモウ遅いんで寝るとしますかな♪(-_-)zz

2014/04/08 (Tue) 01:49 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 某抑留者の声

魔除けに牛島辰熊さん、書き込みありがとうございます。

シベリア抑留者の声はほとんど国民に届けられていませんでしたね。というか、マスコミに無視されていたように思います。
他にもあれば、ぜひよろしくお願いします。

いいサイトがあれば、URLを教えていただくとありがたいです。

2014/04/08 (Tue) 07:51 | EDIT | REPLY |   

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