「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
但馬妙見山の三重塔を見た後、途中で昼食をとり、次の目的地の竹田城に向かう。
竹田城は国の史跡に指定され日本百名城の一つにも選ばれているのだが、石垣しか残されていないのでそれほど観光客が多いとは思っていなかったのが甘かった。

到着すると駐車場待ちの車が延々と続いていて、駐車場待ちが50分と言われ、ここから山頂の竹田城までは2.6kmもあるという。車の列の先頭は500メートルほど先の「山城の郷」で、そこからは道路が狭くなるので車は一方通行となっていて、山の中腹にある2つの駐車場に空きが出来たとの連絡により1台ずつ通行が許可されるそうなのだが、50分待って1.9km先の駐車場に着いてからも、さらに目的地まで700mを歩いて15分はかかるということなので、しかたなく路上に車を置いて歩いて登ることにした。
上の地図は朝来市のHPにあるものだがこれを印刷して旅行に持っていけばよかった。今から思えば右折して「山城の郷」の駐車場に入れておけば、少しは時間短縮が出来たと思う。
http://www.city.asago.hyogo.jp/0000001685.html

竹田城は、ネットでこのような雲の上に浮かぶ石垣の写真が紹介されていて、ずっと以前から行ってみたいと思っていた。
秋から冬にかけての良く晴れた早朝に、円山川から朝霧が立ち上って石垣の周りを包み込み、天空に浮かぶ城のような幻想的な風景を見ることが出来る日があるようで、次のURLには竹田城の素晴らしい写真がいくつも紹介されている。
http://www.castlefan.com/data01/takeda/
こんな幻想的な景色は誰でも見たいし写真にも撮りたいと思うところだが、次のサイトによると、いい写真を撮るためには夜明け3時間前からベストスポットに陣取ることが必要だと書かれているのに驚いた。
雲海シーズンの祝祭日の早朝は、それぐらいの時間に行かなければ駐車場が空いていない可能性があるらしいのだが、その時間帯であれば当然のことながらあたりは真っ暗で、懐中電灯は勿論、防寒着も必要だ。この方のサイトはベストアングルからトイレの場所まで懇切丁寧に書かれていて、いい写真を撮るための情報が満載だ。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/takeda/unkai.html
こんな昼過ぎの時間に訪れたのでは、雲海を見ることはとても叶わないことは判っていたが、これだけ歩くことになることは完全に計算外だった。昼食を済ませたばかりの体は随分重たく、アスファルトの坂道の2.6kmは結構厳しかった。
ここで案内板やWikipedia等の記事を参考に、簡単に竹田城の歴史を振り返っておこう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E5%9F%8E
あまり古い記録は残っていないようなのだが、江戸時代末期に書かれた『和田上道氏日記』には、嘉吉年間(1441~1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記されているが、この「安井ノ城」が「竹田城」のことなのだそうだ。
他には史料はなく、永享3年(1431)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承が残っているという。
築城当時の城には石垣はなく曲輪を連ねただけのものだったようだが、永禄12年(1569)に木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)が但馬に攻め入り竹田城を攻略し、天正5年(1577)に再び秀吉軍の攻撃を受けて竹田城は落城したとの記録がある。この戦いにおける秀吉軍の狙いは、但馬諸将の制圧と、生野銀山の確保であったと言われている。当時生野銀山は、竹田城が管轄していたのだそうだ。
『武功夜話』という書物には
「太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり」
また『信長公記』には
「直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ」
とあり、落城後直ちに秀吉は城内の整備を申付け、弟の羽柴秀長を竹田城の城代としたことが書かれている。
天正8年(1580)には桑山重晴が城主となり、天正13年(1585)には四国征伐で戦功のあった赤松広秀を竹田城主に入れている。竹田城が現存の完成された城郭に整備されたのは、この頃のことと推定されているようだ。
最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の役で西軍に属し、関ケ原敗北以後は徳川方として鳥取城を攻め戦功をあげたが、通説では城下に火を放ったことで徳川家康の忌避に触れ、家康に慶長5年(1600)10月28日に鳥取真教寺にて切腹を命じられたとされている。そして、家康はこの竹田城を廃城にしてしまっている。
ところで、家康が赤松広秀に切腹を命じたのは、生野銀山を手に入れるためであったという説があるのだが、私には通説よりもこの説のほうが正しいと思う。先ほども書いたように、当時生野銀山は竹田城の管轄にあった。家康は関ヶ原の戦いの後に篠山城を築いて譜代の松平康重を置き、生野銀山には但馬金銀山奉行を設置して、佐渡金山・石見銀山とならぶ天領とし、幕府の重要な財源としたのである。家康にとっては、赤松広秀を切腹させる理由は何でも良かったのではないのか。

竹田城の石垣の集積は8649㎡。石積みは「穴太(あのう)積み技法」が用いられているという。
「穴太積み」というのは、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が積んだ石垣を言うそうだが、穴太衆の出身地は比叡山の山麓にある穴太(滋賀県大津市坂本穴太)で、古墳製造などを行なってきた石工の末裔だと言われている。
昔は寺院などの石工を任されていたが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が城郭の石垣構築に携わるようになってから、全国の藩に召し抱えられ、彼らの指揮によって各地で石垣造りの城が築かれたと言われている。

形が違う自然石を加工せずにバランスよく積み重ねて、これだけの高さの石垣を造ったという事だけでも凄い事なのだが、四百年以上の長きにわたり地震や風雨などにさらされながらも、今もその形が崩れていないというのは大変な技術である。
次のURLではコンクリートで固めた擁壁が破壊されてしまっているが、このように水圧や土圧に耐え切れなくなって、亀裂の入った擁壁を見ることは決して珍しい事ではない。
http://iisee.kenken.go.jp/staff/tamura/work/break/03walldamage/damage_jp.html
一方、穴太積みの石垣は排水効率が良く、水圧や土圧による破壊を巧くかわすことが出来る。
高度成長期以降わが国で多くの土木工事がなされてはきたが、これから400年以上その価値を失わず、実用に耐える状態で残されるものがどれだけあるのだろうか。
土木工事だけではなく一般建築物についても同様のことが言える。最近建てられた建物で何百年も使われて、将来国宝や重要文化財に指定されるようなものがどこにあるのだろうかと言いたい。
税金でコンクリートの箱モノばかりを建てるのではなく、伝統工法を用いて数百年後にも評価されるようなものもある程度作るべきではないか。あるいは文化財の修復にもっと力を入れて、歴史的風土の保全に力を入れるべきではないのか。そうしなければ、千年以上かけて蓄積されてきたわが国の伝統的な建築技術が途絶えてしまい、わが国の文化価値や観光価値の多くを失ってしまうことを危惧している。官僚の天下りポストのために、コンクリートの箱モノを造ることはそろそろ打ち止めにしてほしいものだ。

あれこれ考えているうちに、ようやく竹田城址に到着した。
竹田城址の縄張りの規模は南北400m、東西100mにも及び、完存する石垣遺構としては全国屈指のものだという。良くこんなものを山上に築いたものだ。

大手門から三の丸、二の丸と進む。上の画像は二の丸から見た南千畳方面を撮ったものである。

天守台の石垣の高さは10.6m。この高さに立つと素晴らしい眺めなのだが、あまり石垣にに寄りすぎると怖くて足がすくんでしまうほどだ。上の画像は天守台からの眺めだが、さすがに天守台から下を覗きこむような人は誰もいなかった。
往復の時間に予定以上にかかってしまったので、次の観光予定先を取りやめることにして、「山城の郷」でしばらく休息をとる。
せっかく但馬牛の本場に来たので、帰る途中で3年前に会社の同僚から教えてもらった和田山の「太田家」に立ち寄ることにしていた。グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、ここしか知らないので今度も来てしまった。ここでは普通の価格で高い品質の牛肉が味わえるのでお勧めだ。
Wikipediaによると但馬牛は明治44年(1911)以降外国種の血統の入った牛が排除され、他地域の品種との交配も行われず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで改良がなされてきたそうだ。但馬牛からとれる牛肉は肉質が良く、松坂牛や近江牛などのブランド牛の素牛となっていて、前沢牛、仙台牛、飛騨牛や佐賀牛なども但馬牛の血統を入れて品種改良が行なわれているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E7%89%9B
予定以上に歩いたのでちょっと疲れたが、天気も悪くなかったし、ずっと前から行きたかった但馬妙見山と竹田城に行くことができたし、丹波の紅葉も楽しむことができて有意義な旅行だった。
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竹田城は国の史跡に指定され日本百名城の一つにも選ばれているのだが、石垣しか残されていないのでそれほど観光客が多いとは思っていなかったのが甘かった。

到着すると駐車場待ちの車が延々と続いていて、駐車場待ちが50分と言われ、ここから山頂の竹田城までは2.6kmもあるという。車の列の先頭は500メートルほど先の「山城の郷」で、そこからは道路が狭くなるので車は一方通行となっていて、山の中腹にある2つの駐車場に空きが出来たとの連絡により1台ずつ通行が許可されるそうなのだが、50分待って1.9km先の駐車場に着いてからも、さらに目的地まで700mを歩いて15分はかかるということなので、しかたなく路上に車を置いて歩いて登ることにした。
上の地図は朝来市のHPにあるものだがこれを印刷して旅行に持っていけばよかった。今から思えば右折して「山城の郷」の駐車場に入れておけば、少しは時間短縮が出来たと思う。
http://www.city.asago.hyogo.jp/0000001685.html

竹田城は、ネットでこのような雲の上に浮かぶ石垣の写真が紹介されていて、ずっと以前から行ってみたいと思っていた。
秋から冬にかけての良く晴れた早朝に、円山川から朝霧が立ち上って石垣の周りを包み込み、天空に浮かぶ城のような幻想的な風景を見ることが出来る日があるようで、次のURLには竹田城の素晴らしい写真がいくつも紹介されている。
http://www.castlefan.com/data01/takeda/
こんな幻想的な景色は誰でも見たいし写真にも撮りたいと思うところだが、次のサイトによると、いい写真を撮るためには夜明け3時間前からベストスポットに陣取ることが必要だと書かれているのに驚いた。
雲海シーズンの祝祭日の早朝は、それぐらいの時間に行かなければ駐車場が空いていない可能性があるらしいのだが、その時間帯であれば当然のことながらあたりは真っ暗で、懐中電灯は勿論、防寒着も必要だ。この方のサイトはベストアングルからトイレの場所まで懇切丁寧に書かれていて、いい写真を撮るための情報が満載だ。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/takeda/unkai.html
こんな昼過ぎの時間に訪れたのでは、雲海を見ることはとても叶わないことは判っていたが、これだけ歩くことになることは完全に計算外だった。昼食を済ませたばかりの体は随分重たく、アスファルトの坂道の2.6kmは結構厳しかった。
ここで案内板やWikipedia等の記事を参考に、簡単に竹田城の歴史を振り返っておこう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E5%9F%8E
あまり古い記録は残っていないようなのだが、江戸時代末期に書かれた『和田上道氏日記』には、嘉吉年間(1441~1443年)に丹波国、播磨国の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記されているが、この「安井ノ城」が「竹田城」のことなのだそうだ。
他には史料はなく、永享3年(1431)但馬国守護山名宗全によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承が残っているという。
築城当時の城には石垣はなく曲輪を連ねただけのものだったようだが、永禄12年(1569)に木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)が但馬に攻め入り竹田城を攻略し、天正5年(1577)に再び秀吉軍の攻撃を受けて竹田城は落城したとの記録がある。この戦いにおける秀吉軍の狙いは、但馬諸将の制圧と、生野銀山の確保であったと言われている。当時生野銀山は、竹田城が管轄していたのだそうだ。
『武功夜話』という書物には
「太田垣土佐守高所に城を築き立ち向かい候。御大将羽柴小一郎殿人馬の息を休めず逃集の一揆輩悉く切り崩し追い打ち在々に火を放ち竹田の城に寄せ懸かり候ところ、高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候。寄せ手の面々物とも為さず山谷を打越え諸手より鉄砲三百挺筒先を相揃え打ち入り候えば、遂に叶わず降参、城を相渡し退き候なり」
また『信長公記』には
「直に但馬国へ相働き、先山口岩州の城を落城し、此競に小田垣楯籠る竹田へ取懸り、是又退散、則、普請申付け、木下小一郎城代として入れ置かれ候キ」
とあり、落城後直ちに秀吉は城内の整備を申付け、弟の羽柴秀長を竹田城の城代としたことが書かれている。
天正8年(1580)には桑山重晴が城主となり、天正13年(1585)には四国征伐で戦功のあった赤松広秀を竹田城主に入れている。竹田城が現存の完成された城郭に整備されたのは、この頃のことと推定されているようだ。
最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の役で西軍に属し、関ケ原敗北以後は徳川方として鳥取城を攻め戦功をあげたが、通説では城下に火を放ったことで徳川家康の忌避に触れ、家康に慶長5年(1600)10月28日に鳥取真教寺にて切腹を命じられたとされている。そして、家康はこの竹田城を廃城にしてしまっている。
ところで、家康が赤松広秀に切腹を命じたのは、生野銀山を手に入れるためであったという説があるのだが、私には通説よりもこの説のほうが正しいと思う。先ほども書いたように、当時生野銀山は竹田城の管轄にあった。家康は関ヶ原の戦いの後に篠山城を築いて譜代の松平康重を置き、生野銀山には但馬金銀山奉行を設置して、佐渡金山・石見銀山とならぶ天領とし、幕府の重要な財源としたのである。家康にとっては、赤松広秀を切腹させる理由は何でも良かったのではないのか。

竹田城の石垣の集積は8649㎡。石積みは「穴太(あのう)積み技法」が用いられているという。
「穴太積み」というのは、「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる石工集団が積んだ石垣を言うそうだが、穴太衆の出身地は比叡山の山麓にある穴太(滋賀県大津市坂本穴太)で、古墳製造などを行なってきた石工の末裔だと言われている。
昔は寺院などの石工を任されていたが、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉が城郭の石垣構築に携わるようになってから、全国の藩に召し抱えられ、彼らの指揮によって各地で石垣造りの城が築かれたと言われている。

形が違う自然石を加工せずにバランスよく積み重ねて、これだけの高さの石垣を造ったという事だけでも凄い事なのだが、四百年以上の長きにわたり地震や風雨などにさらされながらも、今もその形が崩れていないというのは大変な技術である。
次のURLではコンクリートで固めた擁壁が破壊されてしまっているが、このように水圧や土圧に耐え切れなくなって、亀裂の入った擁壁を見ることは決して珍しい事ではない。
http://iisee.kenken.go.jp/staff/tamura/work/break/03walldamage/damage_jp.html
一方、穴太積みの石垣は排水効率が良く、水圧や土圧による破壊を巧くかわすことが出来る。
高度成長期以降わが国で多くの土木工事がなされてはきたが、これから400年以上その価値を失わず、実用に耐える状態で残されるものがどれだけあるのだろうか。
土木工事だけではなく一般建築物についても同様のことが言える。最近建てられた建物で何百年も使われて、将来国宝や重要文化財に指定されるようなものがどこにあるのだろうかと言いたい。
税金でコンクリートの箱モノばかりを建てるのではなく、伝統工法を用いて数百年後にも評価されるようなものもある程度作るべきではないか。あるいは文化財の修復にもっと力を入れて、歴史的風土の保全に力を入れるべきではないのか。そうしなければ、千年以上かけて蓄積されてきたわが国の伝統的な建築技術が途絶えてしまい、わが国の文化価値や観光価値の多くを失ってしまうことを危惧している。官僚の天下りポストのために、コンクリートの箱モノを造ることはそろそろ打ち止めにしてほしいものだ。

あれこれ考えているうちに、ようやく竹田城址に到着した。
竹田城址の縄張りの規模は南北400m、東西100mにも及び、完存する石垣遺構としては全国屈指のものだという。良くこんなものを山上に築いたものだ。

大手門から三の丸、二の丸と進む。上の画像は二の丸から見た南千畳方面を撮ったものである。

天守台の石垣の高さは10.6m。この高さに立つと素晴らしい眺めなのだが、あまり石垣にに寄りすぎると怖くて足がすくんでしまうほどだ。上の画像は天守台からの眺めだが、さすがに天守台から下を覗きこむような人は誰もいなかった。
往復の時間に予定以上にかかってしまったので、次の観光予定先を取りやめることにして、「山城の郷」でしばらく休息をとる。
せっかく但馬牛の本場に来たので、帰る途中で3年前に会社の同僚から教えてもらった和田山の「太田家」に立ち寄ることにしていた。グループで牧場を経営しておられる肉屋さんはこの近くに他にもいくつかあるのだろうが、ここしか知らないので今度も来てしまった。ここでは普通の価格で高い品質の牛肉が味わえるのでお勧めだ。
Wikipediaによると但馬牛は明治44年(1911)以降外国種の血統の入った牛が排除され、他地域の品種との交配も行われず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで改良がなされてきたそうだ。但馬牛からとれる牛肉は肉質が良く、松坂牛や近江牛などのブランド牛の素牛となっていて、前沢牛、仙台牛、飛騨牛や佐賀牛なども但馬牛の血統を入れて品種改良が行なわれているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E7%89%9B
予定以上に歩いたのでちょっと疲れたが、天気も悪くなかったし、ずっと前から行きたかった但馬妙見山と竹田城に行くことができたし、丹波の紅葉も楽しむことができて有意義な旅行だった。
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