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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

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Category織田信長
安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。
下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。

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前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第3巻に、安土城が焼失する前年の1581年に、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノがこの安土城の天守閣を訪問した記録がある。
結構興味深いことが書かれているので、今回はこの内容を紹介したい。

「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それらはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモを超える―それを上回るものも多かった―石垣のほかに、多くの美しい豪華な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。
そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我等ヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。
事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層) の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられる漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている。
この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人面が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物自体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰でつくられているかのようである。」(中公文庫『フロイス日本史3』p.112-113)



「パルモ」というのは掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、ポルトガルでは1パルモは約22cmであるから、石垣の高さが13メートルを超えていたことになる。
フロイスが、安土城をヨーロッパのどこの城と比較して書いているかはよくわからないが、この当時に建築された城を探すと、世界遺産のフランスのユッセ城は1485年から1535年に建築され、ヴァリニャーノ(1539-1606)やフロイス(1532-1597)の時代に近い建築物である。

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今ではこのようなヨーロッパの城に憧れる日本人が多いのだが、フロイスが安土城の天守閣を「これ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄え」と書き「内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営され」「全体が堂々たる豪華で完璧な建造物」と書いていることから、わが国の建築は世界でもかなり高い水準にあったことは間違いないだろう。

フロイスの文章は続く。

「信長は、この城の一つの側に廊下で互いに続いた、自分の邸とは別の宮殿を造営したが、それは彼の邸よりもはるかに入念、かつ華美に造られていた。我らヨーロッパの庭園とは万事において異なるその清浄で広大な庭、数ある広間の財宝、監視所、粋をこらした建築、珍しい材木、清潔さと造作の技巧、それら一つ一つが呈する独特でいとも広々とした眺望は、参加者に格別の驚愕を与えていた。
この城全体が、かの分厚い石垣の上に築かれた砦に囲まれており、そこには物見の鐘が置かれ、各砦ごとに物見が昼夜を分かたずに警戒に当たっている。主要な壁はすべて上から下まで見事な出来栄えの鉄で掩われている。…」(同上書p.113)

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と、本丸御殿、二の丸御殿も素晴らしい出来栄えであったことがわかる。

以前このブログで書いたが、当時の宣教師の役割は単にキリスト教を広めることだけではなかった。彼らは侵略の先兵として派遣されていたことは、彼らが本国に送っている書状をみれば読めば誰でもわかる。
最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で、ポルトガルが日本を占領することは無理だと報告しているし、安土城を訪れたヴァリニャーノも、1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡で「日本は…国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない。」と書き送り、まずシナから征服することを進言しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

宣教師に城の内部を公開することは、今から思えば、敵に軍事機密をオープンにしてしまうようなものであるのだが、信長は秀吉とは異なり宣教師に対しては無警戒に近かった。ヴァリニャーノは別の目的があって安土に来たのだが、信長がヴァリニャーノに安土城の内部を見せたのは、ヴァリニャーノ(下画像)から要請されたわけでもなく、信長からの招待によるものである。

ヴァリニヤーノ

「巡察師(ヴァリニャーノ)が安土山に到着すると、信長は彼に城を見せたいと言って召喚するように命じ、二名の身分ある家臣を派遣して往復とも随伴せしめた。なお信長は、修道院にいるすべての司祭、修道士、同宿たちにも接したいから、いっしょに来るように命じた。彼らが着くと、下にも置かぬように歓待し、城と宮殿を、初めは外から、ついて内部からも見せ、どこを通り何を先に見たらよいか案内するための多くの使者をよこし、彼自らも三度にわたって姿を見せ、司祭と会談し、種々質問を行ない、彼らが城の見事な出来栄えを賞賛するのを聞いて極度に満足の意を示した。事実、同所には、見なくても良いようなものは一つとしてなく、賞賛に値するものばかりであった。…
城から出ると、ようやく通過できるほどの異常な人出であった。キリシタンたちは、彼ら司祭らが、このように名誉ある慰め深い好意と待遇を受けたのを見て、喜びを隠すことができなかった。」(同上書p.115)

信長

読み進んでいくと、信長が宣教師に対して非常に好意的であったことがいろいろ書かれている。
ヴァリニャーノが安土に1か月ほど滞在したのち九州に行くこととなり、信長に別れを告げに来た際に、信長は餞別に安土城を描いた屏風を与えている。

「巡察師がまもなく出発することになったことを知ると、信長は側近の者を司祭の許に派遣し『伴天連殿が予に会うためにはるばる遠方から訪ね来て、当市に長らく滞在し、今や帰途につこうとするに当り、予の思い出となるものを提供したいと思うが、予が何にも増して気に入っているかの屏風を贈与したい。ついては実見した上で、もし気に入れば受理し、気に入らねば返却されたい』と述べさせた。ここにおいても彼は司祭らに抱いている愛情と親愛の念を示したのであった。
 巡察師は自らになされた恩恵を深く感謝し、それは信長の愛好品であるから、また特に安土山に関して言葉では説明しかねることを、絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である、と返答した。」(同上書p.117)

この安土城図は天正遣欧使節とともにヨーロッパに運ばれ、1585年3月にローマ法王グレゴリオ13世に献上されたことまでは分かっているようだが、今ではどこにあるかわからないのだそうだ。

フロイスはただ日本の木造建築技術を絶賛しているだけではない。このような素晴らしい建築物を造りだす大工の仕事を良く観察して、その手際の良さに感心している。

「日本の大工はその仕事にきわめて巧妙で、身分ある人の大きい邸を造る場合には、しばしば見受けられるように、必要に応じて個々に解体し、ある場所から他の場所へ運搬することができる。そのため、最初に材木だけを全部仕上げておき、三、四日間組み立てて打ち上げることにしているので、一年がかりでもむつかしいと思われるような家を、突如としてある平地に造り上げてしまう。もとより彼らは木材の仕上げと配合に必要な時間をかけてはいるが、それをなし終えた後には、実に短期間に組み立てと打ち上げを行なうので、見た目には突然出来上がったように映ずるのである。」(同上書p.114)

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フロイスが絶賛したわが国の木造建築技術は承継され、今もなお世界に誇れるものだと思うのだが、釘もボルトも使わずに頑丈な建築物を組み立てる高度な技術が次世代にうまく承継されているのだろうかと思うと心配になってくる。
大学では近代的な建築技術ばかりが教えられ、伝統的日本建築技術の承継は現場の宮大工に委ねられていて先細りしてはいないか。世界に誇れる日本の技術を次の世代に承継できずして、どうやって、各地に存在する素晴らしい木造建築物の価値を減じることなく未来に残すことが出来ようか。
宮大工ばかりではない。木造住宅の新築が減り、従来工法の大工も仕事が激減してきている。伝統芸能や工芸などの承継者は国や地方からの補助が出ているが、宮大工や大工は仕事がなければ生きていけない。
彼等の仕事がこれからも少なくなるようだと後継者を育てることが出来ず、各地に残っている古い街並みや地域の風情を残すことが次第に難しくなっていくのではないか。

これからのわが国は人口が減少していくのだから、高層マンションばかりを建てては空き地と空き家をあちこちに増やして、地域の景観を悪化させるばかりではなく治安の悪化にもつながっていくことになる。
これからは多くの地域で、土地の効率的利用よりも、空き地を減らしていく施策や、土地を広く使う大きな住宅建設を推進することの方が求められていくのではないだろうか。

富田林寺内町

その流れの中で、土地の価格が下がり庭付き一戸建ての家が増えて、伝統的工法が見直される日が来ないものだろうか。各地に今も残る日本らしい街並みや地域の風情を次世代に残していくためには、昔ながらの大工が忙しくなることが必要なのだと思う。
(上画像:富田林市寺内町)

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