GHQの中にもソ連の工作があったのではないか
ウィロビーの回顧録を読み進むと、わが国の「公職追放」に関するニューズウィーク紙(1947年1月27日付)の「日本の公職追放の裏側――米国軍人の対立」という論文の一部が引用されている。そこにはこう書かれている。

「公職追放を財界へも及ぼしたため、日本の財界人は5千人から2万5千人がその職を追われ、その上三親等までその職に就けないから、犠牲者は約25万名にのぼる。これによって日本の全経済機構の知能が取り除かれてしまった。
当然の結果として、有能で経験と教養をもった階層、いつもアメリカと協力しようとしていた階層が切り離されてしまう。多くの占領軍将校は日本人と同様当惑しており、ある者は米国の資本主義原則が、どうして米占領軍当局の手でぶちこわされようとしているのか調査すべきだと考えている。
GSには限られた分野での理論的専門家は大勢いたが、専門以外のことについては無知で、自分たちのもっている巨大な力に少しも気づかず、結果がどうなるかについてもまったく気にとめないありさまである。」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.160-161)
「GS」というのはGHQの内部組織で「民生局」と訳されることが多いが、このGS がGHQの中でわが国の占領政策の中心を担っていて、この「公職追放令」はGSのホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられたという。
ニューズウィーク紙のこの記事では追放の範囲が拡げられて、財界人までが追放されたことを中心に記されているが、実際にはわが国の政治家、官吏、教員、財界、教員などの主要人物を中心に20万人以上の人々が短期間の間に強制的に職を追われたという大事件なのである。
ニューズウィーク紙によるGS批判はその後も続き、こんな記事もウィロビーの回想録に引用されている。
「大多数の占領軍関係者は、親米的な日本人をなぜ次から次へと追放するのか疑問を抱いている。GSは、追放は日本政府によって行われているのだと主張しているが、実際はGSが指導し、ときには直接命令を下している。
追放は、たとえば日本共産党の台頭などより、はるかに強い打撃をアメリカに与えた。マッカーサー元帥はGS局長ホイットニーに追放の件をゆだねたが、ホイットニーの事務室は最高司令官の部屋の真下にあった。そして誰よりも自由に元帥に近づけた。

追放は、ホイットニーの性格から、あのようになったものと思う。ホイットニーは怒りっぽい弁護士で、GSでも人気がなく、日本人は彼を狐つきだと思っている。追放のやり方にはどこか左翼や反資本主義者の色がある。
東京にいる多くのアメリカ人たちは、GSのなかにいる共産党シンパや、もっと悪質な者が、そのイデオロギーを追放のなかに注ぎ込んでいると信じている。」(同上書 p.161-162)
また1948年7月と1950年5月に『ニューヨーク・タイムズ』に、日本人のこんな投書が掲載されたという。
「公職追放はポツダム宣言第6項*を根拠にしているというが、多くの無罪の人々が追放に処せられている。GS次長のケーディス大佐は『あいつは追放にしろ、あいつは助けろ』と指示し、ホイットニー局長も口やかましく命令している。
追放令によれば、日本人の公職追放は『委員会の審議に基づき内閣総理大臣がこれを決定する』となっているのに、GSは委員会の審議を無視し、独断的に采配をふるっていいものか。GSの横暴は、誰が見ても目にあまるものがある。収賄さえ行われている。」(同上書p.169)
*ポツダム宣言第6項:日本を世界征服に導いた軍国主義勢力の除去に関する内容
訳文はhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm
一般的な教科書である『もういちど読む山川日本史』ではこの公職追放について、「(1946年1月)GHQは軍国主義者・超国家主義者とみなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令した」とわずか1行で書かれているだけで、この文章を普通に読めば、公職追放で職を追われたのは軍国主義や超国家主義に凝り固まった少数の人物だけだと考えるだろう。
しかし、実際には政官財の重要人物の多くが巻き込まれて、空前の規模で行われたのである。ではどのような人物が職を追われたのだろうか。

Wikipediaに公職追放で職を追われた著名人のリストが掲載されているが、追放解除後に政財界から教育界やマスコミ・言論界の重鎮となった人物の名前が目白押しである。
軍部に批判的だった石橋湛山や経済人では三井物産の石田礼助や松下幸之助や阪急の小林一三など、どう考えても軍国主義とはあまり関係なさそうな人物がかなり存在する。
では、必ずしも明確でない基準で20万人以上が職を追われた後に、どのような思想の人物がポストに就いたのか。こちらもかなり重要な問題である。
Wikipediaにはこう解説されている。
「公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる『左派』勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE
戦前に左派系の学者が大学から追放されたことがあったが、敗戦後の公職追放令によりこのような人物が多数戻ってきて、ぽっかり空いたポストに就いたというケースが多かったという話を聞いたことがある。
同様なことが他のマスコミ・出版界や教育機関などでもおこり、戦後の長い間にわたり一般世論よりも左寄りの人々が言論界や教育界の主導権を握り続けることができたのは、占領期に行われた公職追放令の影響が大であると指摘する人もいる。

例えば教職員の追放について調べていくと、渡部昇一氏はこう解説しておられる。
「昭和21年(1946)3月にアメリカの教育使節団がやってきて、5月には教職員追放令が公布された。そして教職員適格審査というものがはじまった。
当時の教職員は70万人くらいいたが、密告が増え、その結果、5200人が追放になった。そして、それを見ていて密告されるのを嫌がった人たちなど、約116千人が教職を去った。
戦前から教育を担っていたまともな教師が70万人のうち、12万人もいなくなったのである。この教職を去った人たちは、だいたいが師範学校の卒業生だった。…
…12万人がいなくなった後を埋めたのが左翼だった。教職を左翼が埋めて、日本がよくなるわけがない。
しかもその時、教育界に影響を及ぼすような教授や知識人はコミンテルン、共産党に関係し、戦前は帝国大学から追放されたよう人たちだ。彼らがカムバックしてきて『戦前は悪かった』と唱えた。自分たちにとって悪い状況だったからそういうのは当然だろう。そして現在の左派の先生たちは、彼らから徹底的に教育を受け、反日思想をよく勉強したのである。…」(『戦後混迷の時代に』 渡部昇一日本の歴史7戦後編P.100-101)
「師範学校」というのは、戦前に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関で、師範学校出身者には良質な先生が沢山おられたという。
渡部氏は公職追放のおかげで指導的地位に就いた人々を「敗戦利得者」と呼んで解説しておられるが、くわしくは渡部氏の著書を読んで頂ければと思う。
終戦直後にGHQが矢継ぎ早に実施した施策には、「公職追放」以外にも、ソ連や共産主義者が喜ぶようなことが多いのである。
CIC(対敵防諜部隊)のキャップであったエリオット・ソープ准将は、特高(特別警察)を全面的に解散させ、日本共産党の幹部やゾルゲ諜報団の一味を含む政治犯を、ちゃんとした監視体制もとらないまま、いきなり釈放してしまっている。
またGS(民生局)はホイットニー局長やケーディス次長が、新憲法の起草から、財閥解体、農地改革、選挙法改正、警察法改正にいたるまで手を伸ばしていった。GSのこれらの施策がG2(参謀第二部)のウィロビー部長を激怒させ、後にワシントンでも問題視されるようになる。
渡部昇一氏もウィロビーも、どちらかというと反共主義者なので、バイアスがかかっている事を疑う読者もおられるに違いない。そこで、わが国の共産主義者が当時の占領軍の施策をどう評価していたかを紹介したい。

当時の日本共産党の徳田球一、志賀義雄らが終戦直後に執筆し、党のその後の運動を決定づけたという論文『人民に訴う』を紹介するが、多くの方が次の文章を読んで驚かれるのではないだろうか。論文の冒頭にはこう書かれている。
「ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する」
http://www.mcg-j.org/mcgtext/undousi/undousi.htm
また昭和20年(1945)11月7日付の赤旗再刊2号にはこう書かれている。
「連合国軍が軍国主義、専制主義から我々人民を解放し、民主主義革命の端緒を開きつつあることは我々が今眼前に見るところである。我々自身が獄から解放されたのも、天皇とその政府によってではない。連合国と最高司令部からの命令によってである。我々は天皇制を打倒し、人民共和国を樹立する為に、この連合国解放軍と協力することができる」
また昭和21年2月に行われた第5回日本共産党大会で、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の綱領的方針として採択されている。
このように日本共産党は終戦直後は占領軍を「解放軍」と考え、GHQの施策を歓迎していたのである。今では左派系の人々は、終戦直後には日本共産党が、アメリカが主導権を握っていた占領軍を熱烈に支持していたことを「馬鹿げたこと」と一笑に付すのだが、わが国でこれから革命を起こそうとする勢力が、敵と味方を間違えたと評することの方が不自然ではないのか。
その当時に、日本共産党が占領軍を「解放軍」と考えただけの理由があったはずだ。すなわち共産主義者にとって都合の良い施策を推進してくれると確信できるだけのメンバーがGHQの中枢に多数存在し主導権を握っていたことがその理由ではなかったか。
当時GHQのGSにはニューディーラーと呼ばれる左派系の人物がかなりいた。

例えば「公職追放」を推進した中心人物といわれるハーバート・ノーマンは、ソ連のスパイであった可能性がかなり濃厚だと言われている。
ウィロビーはGSの繰り出す施策に疑問を持ち、GHQ内部の左派系の人物を摘発していくことになるのだが、この事を書き出すとまた長くなるので、次回以降に記すことにしたい。
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当然の結果として、有能で経験と教養をもった階層、いつもアメリカと協力しようとしていた階層が切り離されてしまう。多くの占領軍将校は日本人と同様当惑しており、ある者は米国の資本主義原則が、どうして米占領軍当局の手でぶちこわされようとしているのか調査すべきだと考えている。
GSには限られた分野での理論的専門家は大勢いたが、専門以外のことについては無知で、自分たちのもっている巨大な力に少しも気づかず、結果がどうなるかについてもまったく気にとめないありさまである。」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.160-161)
「GS」というのはGHQの内部組織で「民生局」と訳されることが多いが、このGS がGHQの中でわが国の占領政策の中心を担っていて、この「公職追放令」はGSのホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられたという。
ニューズウィーク紙のこの記事では追放の範囲が拡げられて、財界人までが追放されたことを中心に記されているが、実際にはわが国の政治家、官吏、教員、財界、教員などの主要人物を中心に20万人以上の人々が短期間の間に強制的に職を追われたという大事件なのである。
ニューズウィーク紙によるGS批判はその後も続き、こんな記事もウィロビーの回想録に引用されている。
「大多数の占領軍関係者は、親米的な日本人をなぜ次から次へと追放するのか疑問を抱いている。GSは、追放は日本政府によって行われているのだと主張しているが、実際はGSが指導し、ときには直接命令を下している。
追放は、たとえば日本共産党の台頭などより、はるかに強い打撃をアメリカに与えた。マッカーサー元帥はGS局長ホイットニーに追放の件をゆだねたが、ホイットニーの事務室は最高司令官の部屋の真下にあった。そして誰よりも自由に元帥に近づけた。

追放は、ホイットニーの性格から、あのようになったものと思う。ホイットニーは怒りっぽい弁護士で、GSでも人気がなく、日本人は彼を狐つきだと思っている。追放のやり方にはどこか左翼や反資本主義者の色がある。
東京にいる多くのアメリカ人たちは、GSのなかにいる共産党シンパや、もっと悪質な者が、そのイデオロギーを追放のなかに注ぎ込んでいると信じている。」(同上書 p.161-162)
また1948年7月と1950年5月に『ニューヨーク・タイムズ』に、日本人のこんな投書が掲載されたという。
「公職追放はポツダム宣言第6項*を根拠にしているというが、多くの無罪の人々が追放に処せられている。GS次長のケーディス大佐は『あいつは追放にしろ、あいつは助けろ』と指示し、ホイットニー局長も口やかましく命令している。
追放令によれば、日本人の公職追放は『委員会の審議に基づき内閣総理大臣がこれを決定する』となっているのに、GSは委員会の審議を無視し、独断的に采配をふるっていいものか。GSの横暴は、誰が見ても目にあまるものがある。収賄さえ行われている。」(同上書p.169)
*ポツダム宣言第6項:日本を世界征服に導いた軍国主義勢力の除去に関する内容
訳文はhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm
一般的な教科書である『もういちど読む山川日本史』ではこの公職追放について、「(1946年1月)GHQは軍国主義者・超国家主義者とみなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令した」とわずか1行で書かれているだけで、この文章を普通に読めば、公職追放で職を追われたのは軍国主義や超国家主義に凝り固まった少数の人物だけだと考えるだろう。
しかし、実際には政官財の重要人物の多くが巻き込まれて、空前の規模で行われたのである。ではどのような人物が職を追われたのだろうか。

Wikipediaに公職追放で職を追われた著名人のリストが掲載されているが、追放解除後に政財界から教育界やマスコミ・言論界の重鎮となった人物の名前が目白押しである。
軍部に批判的だった石橋湛山や経済人では三井物産の石田礼助や松下幸之助や阪急の小林一三など、どう考えても軍国主義とはあまり関係なさそうな人物がかなり存在する。
では、必ずしも明確でない基準で20万人以上が職を追われた後に、どのような思想の人物がポストに就いたのか。こちらもかなり重要な問題である。
Wikipediaにはこう解説されている。
「公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる『左派』勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE
戦前に左派系の学者が大学から追放されたことがあったが、敗戦後の公職追放令によりこのような人物が多数戻ってきて、ぽっかり空いたポストに就いたというケースが多かったという話を聞いたことがある。
同様なことが他のマスコミ・出版界や教育機関などでもおこり、戦後の長い間にわたり一般世論よりも左寄りの人々が言論界や教育界の主導権を握り続けることができたのは、占領期に行われた公職追放令の影響が大であると指摘する人もいる。

例えば教職員の追放について調べていくと、渡部昇一氏はこう解説しておられる。
「昭和21年(1946)3月にアメリカの教育使節団がやってきて、5月には教職員追放令が公布された。そして教職員適格審査というものがはじまった。
当時の教職員は70万人くらいいたが、密告が増え、その結果、5200人が追放になった。そして、それを見ていて密告されるのを嫌がった人たちなど、約116千人が教職を去った。
戦前から教育を担っていたまともな教師が70万人のうち、12万人もいなくなったのである。この教職を去った人たちは、だいたいが師範学校の卒業生だった。…
…12万人がいなくなった後を埋めたのが左翼だった。教職を左翼が埋めて、日本がよくなるわけがない。
しかもその時、教育界に影響を及ぼすような教授や知識人はコミンテルン、共産党に関係し、戦前は帝国大学から追放されたよう人たちだ。彼らがカムバックしてきて『戦前は悪かった』と唱えた。自分たちにとって悪い状況だったからそういうのは当然だろう。そして現在の左派の先生たちは、彼らから徹底的に教育を受け、反日思想をよく勉強したのである。…」(『戦後混迷の時代に』 渡部昇一日本の歴史7戦後編P.100-101)
「師範学校」というのは、戦前に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関で、師範学校出身者には良質な先生が沢山おられたという。
渡部氏は公職追放のおかげで指導的地位に就いた人々を「敗戦利得者」と呼んで解説しておられるが、くわしくは渡部氏の著書を読んで頂ければと思う。
終戦直後にGHQが矢継ぎ早に実施した施策には、「公職追放」以外にも、ソ連や共産主義者が喜ぶようなことが多いのである。
CIC(対敵防諜部隊)のキャップであったエリオット・ソープ准将は、特高(特別警察)を全面的に解散させ、日本共産党の幹部やゾルゲ諜報団の一味を含む政治犯を、ちゃんとした監視体制もとらないまま、いきなり釈放してしまっている。
またGS(民生局)はホイットニー局長やケーディス次長が、新憲法の起草から、財閥解体、農地改革、選挙法改正、警察法改正にいたるまで手を伸ばしていった。GSのこれらの施策がG2(参謀第二部)のウィロビー部長を激怒させ、後にワシントンでも問題視されるようになる。
渡部昇一氏もウィロビーも、どちらかというと反共主義者なので、バイアスがかかっている事を疑う読者もおられるに違いない。そこで、わが国の共産主義者が当時の占領軍の施策をどう評価していたかを紹介したい。

当時の日本共産党の徳田球一、志賀義雄らが終戦直後に執筆し、党のその後の運動を決定づけたという論文『人民に訴う』を紹介するが、多くの方が次の文章を読んで驚かれるのではないだろうか。論文の冒頭にはこう書かれている。
「ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する」
http://www.mcg-j.org/mcgtext/undousi/undousi.htm
また昭和20年(1945)11月7日付の赤旗再刊2号にはこう書かれている。
「連合国軍が軍国主義、専制主義から我々人民を解放し、民主主義革命の端緒を開きつつあることは我々が今眼前に見るところである。我々自身が獄から解放されたのも、天皇とその政府によってではない。連合国と最高司令部からの命令によってである。我々は天皇制を打倒し、人民共和国を樹立する為に、この連合国解放軍と協力することができる」
また昭和21年2月に行われた第5回日本共産党大会で、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の綱領的方針として採択されている。
このように日本共産党は終戦直後は占領軍を「解放軍」と考え、GHQの施策を歓迎していたのである。今では左派系の人々は、終戦直後には日本共産党が、アメリカが主導権を握っていた占領軍を熱烈に支持していたことを「馬鹿げたこと」と一笑に付すのだが、わが国でこれから革命を起こそうとする勢力が、敵と味方を間違えたと評することの方が不自然ではないのか。
その当時に、日本共産党が占領軍を「解放軍」と考えただけの理由があったはずだ。すなわち共産主義者にとって都合の良い施策を推進してくれると確信できるだけのメンバーがGHQの中枢に多数存在し主導権を握っていたことがその理由ではなかったか。
当時GHQのGSにはニューディーラーと呼ばれる左派系の人物がかなりいた。

例えば「公職追放」を推進した中心人物といわれるハーバート・ノーマンは、ソ連のスパイであった可能性がかなり濃厚だと言われている。
ウィロビーはGSの繰り出す施策に疑問を持ち、GHQ内部の左派系の人物を摘発していくことになるのだが、この事を書き出すとまた長くなるので、次回以降に記すことにしたい。
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