幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか
Wikipediaには『ええじゃないか』をこう説明している。
「日本の江戸時代末期の慶応3年(1867年)7月から翌慶応4年(1868年)4月にかけて、東海道、畿内を中心に、江戸から四国に広がった社会現象である。天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ、という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の『ええじゃないか』等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
簡単に、この「社会現象」が起こるまでの歴史を振り返ってみよう。
万延元年(1860)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、江戸幕府は老中安藤信正を中心に朝廷の権威を借りて立て直そうとし公武合体を進めるのだが、文久二年には老中安藤信正が水戸浪士に襲われて失脚してしまう。(坂下門外の変)
その後、攘夷の気運が高まり外国人殺傷事件がしばしば起こり、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したが、英米仏蘭4か国の報復攻撃を受けて攘夷が困難であることを悟り、藩論を攘夷から討幕に転換させていく。また薩摩藩も、西郷隆盛や大久保利通らの下級武士が藩政の実権を握り、反幕府の姿勢を強めていく。
慶応二年(1866)には、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び、長州藩が農民・町人をも加えた奇兵隊などを動員して各地で幕府軍を打ち破る。その最中に、各地で「世直し」をとなえる農民一揆がおこり、江戸や大坂でも、生活に苦しむ貧民の打ちこわしが各地で起こる。その時期にこの『ええじゃないか』を連呼して熱狂的に踊る現象が起こったという。

この『ええじゃないか』騒動の発端は、慶応三年(1867)の夏に東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが始まりだとされ、その後東海道吉田宿(現豊橋市)で伊勢神宮の神符が降り、その後東海道、畿内を中心に30か国で同様な事件があり、人々は、このことを良きことが起こる前触れと考え、「ええじゃないか」とはやし立てながら、集団で狂喜乱舞をはじめたという。
空から降りてきたものは様々で、伊勢神宮、秋葉大権現、春日、八幡、稲荷、水天宮、大黒天などの神仏のお札や、仏像、貨幣のほか生首や手、足までも空から降ったと言われているのだ。
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/eejya.html
このような現象は、誰かがお札を撒くという行為をしない限りあり得ないことは言うまでもない。では、どういう勢力が、何のためにこのような事を仕掛けたのだろうか。
『ええじゃないか』には歌詞があり、それは各地で異なるようだ。最初に紹介したWikipediaの記述に各地の歌詞が掲載されている。
「例えば『今年は世直りええじゃないか』(淡路)、『日本国の世直りはええじゃないか、豊年踊はお目出たい』(阿波)といった世直しの訴えのほか、『御かげでよいじゃないか、何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ、よいじゃないか』(淡路)という性の解放、『長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか』(西宮)、『長州さんの御登り、えじゃないか、長と醍と、えじゃないか』(備後)の政治情勢を語るもの、などがあった。」
とある。
地域により歌詞に違いはあるが、「ええじゃないか」と踊るところは共通していて、地域によっては「長州」の名前が出てくるところが気になるところである。
この『ええじゃないか』が広まって言った背景については、Wikipediaはこうまとめている。「その目的は定かでない。囃子言葉と共に政治情勢が歌われたことから、世直しを訴える民衆運動であったと一般的には解釈されている。これに対し、討幕派が国内を混乱させるために引き起こした陽動作戦だったという説や、江戸のバブル期後の抑圧された世相の打ち壊しを避けるために幕府が仕掛けた『ガス抜き』であったという説もある。本来の意図が何であったにせよ、卑猥な歌詞などもあったところを見ると、多くの者はただブームに乗って楽しく騒いでいただけのようでもある。」
どの説が正しいのか少し気になって、当時の記録で『ええじゃないか』を書いた記録が他にないかネットで探してみた。
あまり検索では引っかからなかったのだが、土佐藩出身の田中光顕が著した『維新風雲回顧録』に、『ええじゃないか』のことを書いた文章が見つかった。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/ishinnfuuunnkakoroku.txt

最初に出てくるのは、京都の情勢を父に報告した内容である。上記URLでも読めるが、ミスタイプもあるようなので、河出文庫の『維新風雲回顧録』を引用する。
「この頃の京都の模様を国もとにいる父に報告した私の書面が残っている。その末節には、次のように記されている。
『薩長は、疑いなく大挙に到り申すべく候、土州もその尾にすがりつき、一挙出来申さずては、汗顔の事に御座候、さて先日以来、京師近辺歌に唱え候には、大神宮の御祓が天より降ると申して、大いに騒ぎ居申候、大国天、蛭子観音等種々のものが降り候趣き、近々はなはだしき事に御座候、切支丹にて御座あるべく存ぜられ候、過日はどこかへ嫁さまが降り候処、江戸の産の由に御座候、何がふり候やら知れ申さず候、ただただ弾丸の降り候を相楽しみ待居申候。』
これは、お札踊(ふだおどり)の流行をさしたもので、京都を中心に、大坂に流行し、果ては、一時関東にも及んだくらいだった。
天下は、今にも、一大風雲をまき起こそうとしている矢先、どこからともなく、お札が舞い下りてくる。
京都市民は、吉兆だというので、お札の下りた家では、酒肴の仕度をして、大盤振舞いをした。そして、『ええじゃないかええじゃないか』をくりかえしながら、屋台を引き出し、太鼓をたたき、鉦をならしながら仮装して、町中をねって歩く。まるでお祭騒ぎである。
そういうから景気のどん底にかくして、薩長は、秘かに討幕の計をめぐらしていた。」(河出文庫:p.313-314)
さらに読み進むと、王政復古の大号令が出た慶応三年十二月九日に討幕派の田中光顕らが高野山に向かう途中で、『ええじゃないか』のお祭り騒ぎのおかげで幕府の警備の中を掻い潜った記録がある。

「具合のいいことには、大坂でも、お札踊りの真最中。
『ええじゃないかええじゃないか』とはやし立てて、踊りくるっていたため、ほとんど市中の往来が出来なかった。
『また、やってるな』
『大変な人出じゃないか』
そういっているうちに、いつの間にか、私どもも、人波に押しかえされていた。
鷲尾卿はじめ、われわれ同志は、この踊りの群れの中にまぎれ入って、そ知らぬ態で、ついうかうかと住吉街道から堺まで出た。
何が幸いになるかわかったものでない。」(河出文庫p.330-331)
鷲尾卿というのは幕末維新期の公家の鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)で、高木俊輔氏『国史大辞典』の説明を読むとこの間の事情がよく解る。
「慶応三年(1867)十二月八日夜、岩倉具視の命令により紀州和歌山藩の動きを牽制する意図で、京都の激論家の一人であった鷲尾を擁し、香川敬三・大橋慎三らと陸援隊士約四十名が京都の白川邸を出発した。すでに鷲尾には朝廷の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(さねなる)・中御門経之らから内勅が下されていた。一行は船に分乗して淀川を下り、大坂からは『ええじゃないか』の踊りに紛れて街道を進み、堺を経て同月十二日に高野山へ着いた。ここで内勅ならびに鷲尾みずからの達書が示され、ひろく同志を募った。」
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/daijiten-washinooke.htm
幕末期は討幕派の動きが幕府に警戒されていたことは当然である。討幕派の集合場所などが洩れてしまえば幕府役人や新撰組などによって一網打尽で捕縛されてしまってもおかしくないし、密書を送るにも場所を移動するにも、幕府役人の警備の目を掻い潜る必要があったはずだ。
京都や大阪など各地で『ええじゃないか』の踊りが行われていたことは、討幕派が幕府に隠密に活動をするには都合が良かったことは間違いがないだろう。
実際、『ええじゃないか』騒動の真っ最中に土佐藩が大政奉還を建白し、その後、大政奉還、王政復古の大号令と、討幕派の思い通りに歴史が展開していったのである。
しかしながら、『ええじゃないか』騒動が討幕派にとって都合がよかったからと言って、これを討幕派が仕掛けたという推論にはかなり無理がある。誰かが、それを仕掛けたという証拠が必要なのだが、あまり証拠らしきものがネットでは見当たらなかった。
そんな事を考えながら、本屋で並木伸一郎氏の『眠れないほど面白い 日本史「意外な話」』(王様文庫)を読んでいると、幕末の幕臣であり明治時代にジャーナリスト・作家となった福地源一郎や、佐賀藩士であり明治期に内閣総理大臣にもなった大隈重信が、この『ええじゃないか』騒動が、討幕派の仕業であると述べていることが書かれていた。
並木氏の本を衝動買いして、該当部分を引用してみたい。
「幕末から明治にかけて活躍した作家でジャーナリストの福地源一郎は、著書『懐往事談』でこう書き記している。
『京都の人々が人心を騒乱せしめるために施したる計略なりと、果たしてしかるや否やを知されども、騒乱を極めたるには辟易したりき』
尊王派として活躍した大隈重信も
『誰かの手の込んだ芸当に違いないが、まだその種明かしがされておらぬ』
という言葉を残している。」(同上書 p.250)
福地の言う『京都の人々』というのは討幕派を意味しているが、幕臣だった福地も討幕派であった大隈も、立場が違いながらも討幕派の仕業であると睨んでいたことは注目していいと思う。
次のURLを読むと、京都における『ええじゃないか』騒動は十月二十日からであり、大阪は十月十五以降のことのようだ。大政奉還があったのが十月十四日であるから、それからの話なのだ。岩倉具視らの陰謀により薩摩と長州に『討幕の密勅』が出されて、両藩はそれにより討幕の大義名分を得て国元から大軍を呼び寄せようとし、使いが京都を出立したのが十七日なのだそうだ。「岩倉具視らの陰謀」と書いたのはこの『討幕の密勅』は勅としての手続きを経ず、文書の形式も異なる文書であり、恐らく偽勅であったと考えられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/minaosu11.htm

上記URLの記事に、岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』にこの頃のことをどう書かれているかが紹介されている。興味深い部分なのでしばらく記事を引用する。
「岩倉具視の伝記である『岩倉公実記』(一九〇六年)によると、王政復古の陰謀を行なっていた時、幕府や京都守護職・所司代の偵吏をくらますことができたのは、「天助アリシニ由ル」と述べている。その「天助」とは「あたかもこの時にあたり、京師に一大怪事あり」というもので、空中より神符がへんぺんと飛び降り、あちこちの人家に落ち、神符の降りたる家は、壇を設けてこえを祭り、酒淆を壇前に供え、来訪するものを接待し、これを吉祥となした。都下の士女は、老少の別なく着飾り、男は女装し、女は男装し、群をなし隊をなす、そして卑猥な歌を歌い、太鼓で囃し立てた「よいじやないか、ゑいじやないか、くさいものに紙をはれ、やぶれたら。またはれ。ゑいじやないか。ゑいじやないか」という。衆みな狂奔醉舞し、一群去ればまた一隊が来る。夜にはいると、明々と照し、踊りつづけた。そのお陰で岩倉らの挙動が、自然と人目にふれることはなかったというのである。」

上記URLに、先ほど紹介した福地源一郎の名前が出てくる。これを読むと、なぜ彼が『ええじゃないか』騒動を討幕派の計略と考えたかが見えてくる。
「幕臣福地源一郎は、公用で海路江戸からやってきて、西宮に上陸したが、『ええじゃないか』の狂乱の渦にまきこまれ、人夫や駕篭を雇うこともできなかったと回想している。」
この騒動は、幕府の支配と交通・情報機能を至る所で麻痺させたのである。
このURLの記事で特に興味深いところは、『ええじゃないか』騒動は長州藩兵の移動と共に動いているという指摘である。再び記事を引用する。
「『ええじゃないか』は大坂から西宮神戸を経て、山陽道を東進した。また淡路島と四国に上陸し、阿波から讃岐、さらに伊予に広がっている。
山陽道の要衝である備後国の尾道の御札降りは、十一月二十九日から始まっているとされるが、「ええじゃないか」が、十二月三日に始まっているとする史料もある。この日付には重要な意味がある。というのはその前日の十二月二日に上京途中の長州藩兵の一部が尾道に上陸し、暫時滞在しているからである。すなわち十月十四日の大政奉還のさいに討幕の密勅を受けた長州藩は、ただちに大軍を上京させる準備に取りかかり、十一月二十八日より三田尻港からぞくぞく出発させた。そして十二月二日にはその一部である鋭武隊、整武隊が尾道に上陸したのであり、その翌日の三日から御札降りが始まり、「ええじゃないか」騒ぎとなっているのである。ここには長州軍の移動を幕府に蔽い隠すためのなんらかの作為があったのではないだろうか。なお薩摩、長州と出兵盟約を結んでいた芸州藩も十二月一日一大隊を尾道に派遣している。尾道の「ええじゃないか」では、「ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、ヱジャナヒカ、長州サンノ御登リ、ヱジャナヒカ、長ト薩ト、ヱジャナヒカ」と歌われ、上陸した長州藩兵も一緒に踊ったという。
やがて長州軍は幕府の情報網をかいくぐって、西宮附近に上陸、大坂を迂回して入京し、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を戦うのである。」
こういう文章を読むと、この『ええじゃないか』騒動が民衆による自然発生だとする説にはかなり無理があるような気がする。
30か国にも拡がったという『ええじゃないか』騒動の一部には政治的背景がなく、踊り狂うという楽しい行為が隣国から流行して各地に拡がっていったという可能性があることは否定しない。しかし、討幕派に仕掛け人がいなければ、長州軍の移動と共に『ええじゃないか』騒動が動いていくことはありえないことは誰でもわかる。少なくとも、大政奉還から王政復古までの狂喜乱舞の多くは討幕派によって仕組まれていたと考えた方が自然なのではないか。
このブログで何度も書いてきたように、いつの時代でもどこの国でも、歴史というものは勝者が都合の良いように編集し、都合の悪いことは正史に書かないものだ。
『ええじゃないか』騒動が、民衆による自然発生説が通説になっているのは、明治維新の勝者である明治政府にとって都合の良い歴史叙述に、未だに縛られているということなのか。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。
- 関連記事
-
-
幕末の孝明天皇暗殺説を追う 2010/09/01
-
「明治天皇すり替え説」を追う 2012/07/01
-
幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか 2012/11/03
-
「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情 2013/03/02
-
生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか 2014/05/01
-
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった 2014/05/05
-
薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった 2014/05/10
-
江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える 2017/10/06
-
攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか 2018/12/13
-