アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情
まず、どの程度ソ連に近い人物がGHQにいたのだろうか。このレポートにはこう書かれている。
「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の割合がかなり高い。GHQに雇われている(無国籍者を含む)304人の外国人のうち、最大グループを形成する28%(85名)はソ連またはソ連衛星国の出身である。そのうち42名はソ連の市民権の持ち主である。通常の治安概念からみれば、このグループは事実上の脅威となるはずである。ことに最近ソ連は、元の白系ロシア人の全員、および無国籍者をソ連市民として登録してきているからなおさらである。
GHQ従業員のうち199人は帰化した『アメリカ市民権取得者の第一世代』となってはいるが、もともとはソ連またはその衛星国の背景を持つ者である。
したがって、これらの者のなかですでに左翼主義者として知られていたり、同調者として知られている者の占める割合は決定的なものである。…」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.177)
このレポートによると、当時GHQで働く従業員の内、人種的にソ連またはその衛星国に繋がる人物が284名もいたということになる。さらにアメリカ人スタッフの中にも、出身国や人種的はソ連またはその衛星国と関係がなくとも、思想的に左翼系の人物も少なからずいたであろう。
若しこれらの人物がGHQの中で重要なポストに就いていれば、かなりの影響力を持ちうることは容易に想像できる。

以前このブログで紹介したことがあるが、『ヴェノナ文書』(ソ連情報部暗号文書)の解読によって、アメリカのルーズベルト政権には、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html
終戦直後のGHQには、ルーズベルト政権に匹敵するほど、内部にソ連の工作員がいた可能性があるのだ。
このレポートでは、GHQのスタッフで明らかにソ連に協力した数名の人物の実名を出し、その経歴や考え方、具体的な行動などを調査してかなり具体的に記述されている。個人別の記録内容の多くは細かい部分なので省略することとして、ウィロビーは回顧録の中でこれらの調査結果について総括している部分を紹介したい。
「…これら一連のGHQスタッフに対する調査は私の個人的興味によって行われたものではない。日本占領後の混乱期を過ぎ、ほっとひと息ついたとき、ワシントンの机の前で構想だけを練っている連中は、それまでの“民主的対日政策”とやらがどうやら行き過ぎたものであり、このまま日本の“民主化”が進めばアメリカの占領政策の破綻はいうにおよばず、日本自身が共産主義化してしまう事に気がついたのだ。
それは日本が連合国にギブ・アップした1945年8月15日から、まだ1年も経っていない時期だった。私にすれば徳田球一、野坂参三といった日本共産党幹部の釈放や帰国を、まるで戦後の新生日本を背負う凱旋将軍の帰国のごとく扱った、一部GHQ幹部の感想を拝聴したい気分だった。私は、それら共産党幹部を軽々しく歓迎することには反対だったし、ワシントンが初期の対日占領政策を変更し、行き過ぎつつあった『民主化政策』とやらの是正を打ち出すまでもなく、はっきりと間違いであると思っていたから、調査はごく当たり前のことと受け取ったのである。
事実、占領初期の“対日民主化”に熱心であったホイットニーの民生局(GS)とマッカートの経済科学局(ESS)には明らかに左翼イデオロギーのもとに日本の“民主化”を遂行しようとしていたスタッフが多くみられた。民生局のケーディスのもとで活躍した前記のトーマス・A・ビッソン、アンドリュー・ジョナー・グラジャンツェフ、くわせ者の美人職員で、わがG2*の調査報告完成後の1947年9月に帰国しなければならなくなったミス・エリノア・M・ハドレーといった『ニュー・ディーラー』といわれた連中である。」(同上書 p.201)
*G2:GHQの参謀第二部。日本の治安と情報を担当し、ウィロビーが部長を務めた。

野坂参三というと1946年に1月12日にソ連経由で中国から帰国し、1月26日には日比谷公園で参加者3万人とも言われる帰国歓迎大会が開催され、『英雄還る』という曲がこの日の為に作曲され、声楽家・四家文子が壇上で熱唱したことなどがWikipediaに記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89
その後1955年に日本共産党議長に就任し、1982年に退任して名誉議長となったのだが、100歳になった1992年に日本共産党を除名されている。除名された理由は、ソ連解体後に一部のソ連共産党文書が公開されて、野坂が仲間の情報をソ連に密告していたことが明らかになったことによる。
野坂がソ連の工作員であったことはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の情報将校であったというスリーピン大佐が1949年10月に作成した野坂の「ファイル」に明確に書かれている。
「野坂は、ソ連共産党中央委に対し、日本共産党の基本綱領や戦術問題で頻繁に助言を求めている。野坂はまた、東京にいるわれわれの要員の一人と関係を維持し、彼を通じて日本の内政、経済状況や占領軍の政策、日本共産党を含む各政党の活動についてわれわれに情報提供している。野坂はしばしば、日本共産党政治局を代表して、われわれの日本代表に対し、日本におけるソ連の権威を強化するため、ソ連の対日政策への勧告や要望を提出した。」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/nagosi.htm
野坂という人物は実に謎の多い人物で、米軍将校との面会をしばしば目撃されたことなどから占領米軍のエージェントでもあったとする説もあり、日本の官憲とも繋がっていたという説もある。
野坂が二重三重のスパイであったという可能性を認めることは、アメリカ占領軍も日本共産党を手中に収めようと画策をしていたという見方につながるのだが、この種の話には証拠となるような画像や記録があるわけでもないので、どちらが正しいか判定することは難しい。
話をウィロビーの回顧録に戻そう。
回顧録には不審なメンバーの調査内容が書き連ねてあるのだが、たとえば次のような事を推進したGHQの幹部がいた事実を知らなければ、なぜGHQが方針を転換したかを理解することが出来ないだろう。
「1946年6月14日、読売新聞社においてストライキが発生した。事態は6月25日に収拾されたが、この収拾に関してコーエン(GHQの経済科学局[ESS]課長)とコンスタンチーノは警察官、馬場恒吾読売社長、その他をコーエンの事務所に召喚し、不当にもSCAP(連合国軍最高司令官:マッカーサー)の政策と偽り、ストライキ側を奨励したため、連中はデモを企て、暴力行為に訴えるなど占領政策に不利な行為を公然となすにいたったのである。それ以後、相次いで起こったストライキやデモは、ことごとくコーエンとコンスタンチーノの不当な干渉によってもたらされたものである。」(同上書 p.203)
コンスタンチーノは、わが国の労働組合法や労働関係調整法制定に関わった人物のようだが、「来日までのコンスタンチーノの経歴は、アメリカにおける左翼労働活動の記録で埋まっている。しかも彼には名誉棄損罪、陰謀罪、第三級暴行争乱行為等によって逮捕されたという警察記録すらあるのだ。…
コンスタンチーノは日本共産党員と密接な関係を持っていて、1946年3月10日と15日、大阪の共産党本部を訪れ、志賀義雄と密談していた。…」(同上書 p.204)という。
ウィロビーはこのレポートで他にも数多くのGHQの職員を問題視しているのだが、これらの人物の全てがソ連の工作員であったかどうかはよくわからない。
ウィロビーが纏めさせたレポートを読んでいくと、コンスタンチーノのような前歴のある人物が何人か出てくるのだが、職員採用時になぜこのような人物が排除されなかったのかと誰しも不思議に思うだろう。
ひょっとするとアメリカは、共産主義者をコントロールできることを前提に、意図的にこのような人物をGHQの要職に就けて、「民主化」政策という呼び方でわが国を「弱体化」させる施策を推進しようとしたのではないかと考えてみたりもする。
そもそも占領初期においては、アメリカがわが国を二度と自国に立ち向かわないようにさせることが最重要課題であったはずだ。そのために共産主義者を使って労使の対立を煽り、わが国民の力を分散させてわが国の「弱体化」をはかろうと考えた人物がいてもおかしくはない。
ウィロビーの報告が何度か握りつぶされたのは、アメリカの上層部にそのような考えがあったのか、或いはアメリカが想定していた以上に共産主義勢力がGHQで広がっていてコントロールできるような状況ではなかったか、そのいずれかなのだと思う。
前回の記事で書いたが、占領開始直後に日本共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と呼んだ背景を考えると、後者の可能性が高かったのではないか。
しかしウィロビーが作成させたレポートなどが次第にGHQやワシントンで支持されるようになって、わが国の「民主化」を強引に推し進めていった「ニュー・ディーラー」達が相次いで職を追われていく。ウィロビーのいる保守派のG2(参謀第二部)の発言力が増して、占領直後より「ニュー・ディーラー」達の牙城でわが国の「民主化」を推進していたGS(民生局)は力を失っていく。

1948年12月、GSのケーディス次長は占領政策の大転換を阻止するために、ホワイトハウスの翻意を促すべく出張でアメリカに帰国している。
その時のワシントンの反応をウィロビーはこう記している。
「そうでなくても当時のワシントンはマッカーサーの対日政策に批判的になっていた折であり、加えてケーディスを中心とした若手リベラル派の“独走”に顔をしかめていただけに、彼ケーディスにプラスするはずはなかった。おかげでペンタゴンに続いて国務省、上下両院などを訪問する予定のケーディスの計画は完全に狂い、逆に自分を弁解しなければならないハメに陥ってしまった。」(同上書 p.170-171)

ケーディスが自己弁解しなければならなかった事とは何か。
ウィロビー率いるG2はケーディスの思想から素行に至るまで調べあげて、報告書にまとめてワシントンに送っていたのである。上の画像の女性は子爵・鳥尾敬光の妻の鶴代(多江)である。この女性がGHQの民生局(GS)の大物・ケーディス次長と恋に落ちたという。 ウィロビーはこう解説する。
「当時、憲法改正にあたって天皇制に関する条項が皇室に不利にならないよう、ときの楢橋官房長官はたびたびGS局員を招いてパーティーを開いていた。その席によく鳥尾元子爵夫人**が顔を出していた。夫人はたちまちケーディスの心をとらえ、ふたりは深い仲になったらしい。この鳥尾夫人の“サービス”が、日本の皇室の安泰にどれだけ貢献したかは推測の域をでないが、ケーディスは彼女には禁制品を売る店をやらせたりしていたものである。」(同上書 p.171)
*鳥尾子爵は1949年6月に死亡したが、夫人とケーディスが交際していた時は存命していた。
ケーディスは日本には単身で来ていたのだが、ケーディスがワシントンに滞在している数ヶ月の間にケーディス夫人は夫と鳥尾鶴代との関係を知り、離婚するに至る。
その後ケーディスは、アメリカに出張したまま1949年5月に民政局次長を辞任し、再び東京に戻ることはなかったという。
かくしてGHQの中にいたニュー・ディーラーは一掃され、マッカーサーは同年の7月に「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明を発表するところとなる。

そしてマッカーサー声明の3カ月後の10月には中華人民共和国が誕生した。
さらに朝鮮半島やインドシナ半島などで共産主義勢力が台頭し、アメリカはアジアでの優越的な地位を失っていたのである。そのまま放置しては、アジアの大半を共産主義陣営に奪われてしまう事をアメリカは怖れた。
そこでアメリカは国益を守るために、日本・韓国・フィリピンを反共国家として共産主義の防波堤を作る戦略を立てた。そのために日本の経済再建に取り組まざるを得なくなったのである。
そこでウィロビーの回顧録の冒頭の言葉に戻ろう。
「私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html
ウィロビーが言いたいのは、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということなのだ。
一方ソ連は、次に韓国に狙いを定めることになる。
上記のマッカーサーの「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明からわずか11ヶ月後の1950年6月25日に朝鮮半島で戦争が始まったのだが、この戦争のことを書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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