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日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2

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Category米国排日
アメリカの排日は、日露戦争後にアメリカのマスコミが人種差別を国民に煽って急激に広がっていったことを前回の記事で縷々述べてきたが、日露戦争時にはアメリカはわが国では親日国だと見做されていたはずだ。なぜアメリカが、日露戦争後にわが国に対する方針を変えることになったのだろうか。

GHQ焚書図書開封6

前回紹介した西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』に高木陸郎氏の「米国の支那進出運動とその将来」という論文がある。ここにはこう書かれている。(原文を新字・新仮名に改めて引用)

「米国は満州に発展の強い意図を抱いていたため、一方において露国の満州独占を防止しつつ、他方において積極的開放政策をとり、満州を自国の商品市場として確保するに努めたのである。
その結果1903年の通商関係拡張に関する条約によって、新たに奉天(現在の瀋陽)および安東(現在の丹東)の二港を開かしむるに至った。
しかるに露国の満州侵略は依然その矛を収めず、團匪事件(だんぴじけん:義和団の乱)以来いよいよ露骨となり、…

ついに日本と交戦(日露戦争)するに至ったのであるが、米国はこの大戦中日本に対し非常に好意を示し、外債二億六千万円を引受け、あるいは講和条約の斡旋をなすなど反露親日の態度に出たのである。…

しかるに戦後(日露戦争後)日本が満州において優越的地位を占めたるため、米国の対満発展政策は転じて、日本の勢力排除に向けられるにいたった。…

即ち、米国は露国よりも御しやすい日本を利用して、満州に自国の商業的利益を伸長せんとしたのであるが、その期待が外れ満州の形勢は単に日露両国の勢力を入れ替えたにとどまり、戦前と大差なき状態を呈したからである。」(『GHQ焚書図書開封6』p.56-58)

要するにアメリカは、ロシアに満州独占をさせないためにわが国にロシアと戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和条約の斡旋をしてわが国に恩を売り、その後アメリカが我が国に圧力をかけて満州鉄道など満州の権益を手にすると考えていた。しかしながら、そのことはわが国の抵抗にあってうまくいかなかった。そこで、アメリカはわが国の勢力を排除する方向に舵を切ることになったというのだが、この説はなかなか説得力がある。

満州鉄道

1905年9月に米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により日露戦争の講和が成立し、わが国はロシアが敷設した満州鉄道の利権を獲得した。
中国に橋頭保を築きたいアメリカは、鉄道王と呼ばれたハリマンをわが国に特使として派遣し、シベリア鉄道の買収もしくは共同経営の折衝を開始したのだが、ロシアから賠償金が取れなかったことからわが国では反米感情が高まっていたため、満州鉄道までアメリカに譲歩できる状況ではなかったようだ。

わが国はアメリカの要請を断り独自で経営をスタートさせたのだが、アメリカからすれば中国大陸に拠点を持つというアメリカのアジア戦略にわが国が立ちはだかる存在となってしまった。そこで、わが国の勢力を排除するために、1906年にわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したという流れだ。

しかし、アメリカが我が国の勢力を排除するといっても、大義名分もなくいきなり武力を以て排除することはできない。日本人がまじめに働いている限りは通常の方法では排除できないからこそ、カリフォルニアで拡大していた排日の動きを利用し、全米に人種差別を煽って反日感情を拡げてわが国を追い詰めていくという最も卑劣な方法を用いたということではなかったか。

米国の排日大阪朝日新聞

大阪朝日新聞に連載された法学博士末広重雄氏の『米国の排日』という連載を読むと、サンフランシスコ・クロニクル紙がいつから排日キャンペーンを開始したかが明確に書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10027103&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「明治三十六年及び明治三十七年には日本人が太平洋沿岸に於て驚くべく多数になった。それに刺戟さられて明治三十八年(1905)二月二十五日から、米国太平洋沿岸に勢力のある桑港のクロニクル新聞が、連日日本移民に関する論説を掲げて、日本人の多数入国は将来大に危険であると云うことを論じて、日本人排斥の必要を絶叫し、同年労働派を基礎として日韓人排斥協会、後に亜細亜人排斥協会と改称になった会が組織せられて日本人排斥運動が愈組織的になって来たのである。」(1914年3月9日大阪朝日新聞)

1905年1月2日に旅順開城があり、3月1日に奉天会戦、5月27日に日本海海戦があったから、このキャンペーンは日露戦争の帰趨がはっきりしない段階で始まっているので、アメリカの対満発展政策とは無関係に始まったものだと理解できる。

500px-San_francisco_fire_1906.jpg

1906年4月18日にカリフォルニア州サンフランシスコで大地震が起こっている。
その時にわが国は直ちに同市に対して50万円の見舞金を送っているが、当時の50万円は現在の十数億円程度にも相当する金額で、この見舞金は他の国々からの見舞金の総額をも上回っていたという。

サンフランシスコ地震義捐金

こういう日本人の善意を感じて、すこしは対日感情が改善しても良さそうに思うのだが、先ほど紹介した大阪朝日新聞の『米国の排日』という連載記事を読むと、カリフォルニアの状況が具体的に書かれている。興味深いのでいくつか紹介したい。

「街上に於て、日本人に瓦礫やら、腐った玉子やら、噛りかけの果物を投げつけたり、鉄拳を下すが如きことは、曾て桑港(サンフランシスコ)の地震後に甚しく、当時地震研究の為に加州に出張して居った大森博士さえ此の厄に罹ったことがあった。今日は斯る強漢は殆ど其の跡を絶ったけれども、社会上尚種々なる形式に於て日本人排斥が行われて居る。」

「排斥の為先ず第一に日本人の困ることは下宿屋、貸部屋の誠に得難いことである。加州に長逗留をするものが、或は下宿或は貸部屋の必要を感じ、新聞の広告を見て、其の家に出掛け来意を通ずると、主婦が出て来て、日本人であるのを見ると、随分剣もほろろの挨拶をして断ることがある。甚しきに至っては、アイ・ドント・ウォント・ジャップ(日本人には用がない)と言って、頭ごなしに跳ねつけて仕舞う者がある。」

「又昨年(1913)バークレーに於て売出中であった市街宅地には、左の条件を附して居ると云うことである。即ち
 千九百三十年迄は阿弗利加(アフリカ)人、モンゴリア人及び日本人血統のものは此の土地を買い又は借受くることを得ず、若し此の条件に背いて、日本人に地面を売るものある時は売主も買人の日本人も共に、附近の食料品屋及び其の他の商店からボイコットせらる。 」

「桑港(サンフランシスコ)の水泳場、浴場は全く日本人を客としない。其の他劇場寄席活動写真等で、時としては全く日本人の入場を拒絶し、然らざるも上等席を売らざるところが少くない。公衆の出入する場所、例えば芝居で日本人を排斥するのは日本人にも罪があると云うことを認めなければならない。」

「桑港附近に於ては、労働者の勢力極めて強大で、排日感情も亦極めて猛烈であるから種々なる労働組合は日本人に対してボイコットを行う。理髪師の如きは組合規約に基いて、日本人の理髪をしないと云うことになって居る。又日本労働者の組合加入を拒絶して居る。是等労働組合員の日本人排斥は極端なところまで行われて居る。」

「桑港地震後には、日本人洋食店も一時随分迫害を受けた。暴徒連が我が洋食店の店先に群集して、白人客が食事の為店に居るのを引止めて営業に非常なる妨害を加えた。洋食店の主人連は相談の上、直接に、或は領事の手を経て警察の保護を請求した、ところが巡査の派遣はあったけれども、食事時、暴徒が来て邪魔するような時には、巡査は何処へか行って仕舞って居ない。食事時が過ぎ、暴徒が其の目的を達して散じた頃になると巡査連はノコノコ何処からか出て来ると云う有様で、一向何の役にも立たない。洋食店主人連は大に困った結果、労働組合の親分株に六百円の賄賂を贈って漸く迫害を免れることになったそうである。
桑港、オークランド地方に於ける我が洗濯業者に対する迫害に至っては最も甚だしい。凡ゆる手段を講じて我が洗濯業者の営業妨害をして居る。洗濯業に必要なる器具機械類の買入れの邪魔をすることを始めとして、監視員を設けて絶えず日本人洗濯業者の華客先を調べ、或は印刷物を配附し或は人を派して日本人との取引を断絶せんことを請求し其の華客を奪わんことを図り、今日でも尚運動を続けて居る。」

「日本人を劣等視するところの感情は、日本人と白人との結婚を許さざる法律となって現われて居る。加州民法第六十条は白人と黒人及びモンゴリア人との結婚は不法にして無効なるものであると規定して居る。恋愛神聖の白人国の法律としては、誠に不似合千万なことではないか。尤も加州在住日本人と相愛する間柄になった白人は、此非人情な法律の為…斯かる法律のあるのを見ても、如何に人種的偏見が、加州に於て猛烈であるかと云うことが分るのである。」

これらの記事を読むだけで、この当時アメリカにいた日本人が大変な苦労をしたことがよくわかる。

1920年の写真

ネットで当時の写真を容易に見つけることができるが、上の写真は1920年の画像である。

アメリカ人による人種差別は日本人に対してのみなされたのではない。黒人やユダヤ人に対しても同様だったようだ。その点についても大阪朝日新聞の『米国の排日』にこう書かれている。

「米国の東部で黒人及び猶太人(ユダヤ人)に対するのは、恰も西部で日本人に対するが如き有様である。白人の黒人排斥は今更のことでない、白人と黒人との間に屡(しばしば)大葛藤を生じ、流血の惨状を呈することがある。昨年の秋にも亦一騒動が米国の東部で持ち上ったことがある。ボルチモアと云う町で、黒人の一家族が白人街へ引越して行った、ところが近所の白人は彼等白人の独占のものと考えて居る場所へ黒人が侵入して来たのを見て大に憤激し、其の黒人の家に瓦礫を投ずると云う騒ぎになった。黒人の方でも白人の乱暴に立腹し、多数集まって白人の家に投石して復讎(ふくしゅう)をした。其の結果白黒人の大衝突となり、遂に市は市の安全の為、白人と黒人の衝突を避くる為、白黒人の住居を離隔する命令を発したそうである。」

アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれ、多種多様な民族が混在し独特な共通文化を形成していく社会だと言われていた時期があったが、実際はそれぞれの文化が混じりあって融合しているわけではなく、混じりあわない者同士が同じ地域に住んでいるだけのことだ。
アメリカのような多民族国家で、もし全米規模で人種問題が煽られたらどんなに危険なことが起こるかは、はじめからわかっていなければおかしいと思う。
前回の記事で1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、1914年には新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始したことを書いたが、アメリカの大新聞がこのような記事を書くということは世論を対日宣戦に導くためのプロパガンダであり、対日戦争計画書である「オレンジプラン」と無関係ではなかったのだろう。

以前このブログで、第一次大戦以降本格化した中国の排日は、アメリカが我が国の中国におけるマーケットを奪い取る目的で仕掛けたものであることを当時の文章を引用して縷々説明してきた。
アメリカの排日キャンペーンと中国の排日暴動とは繋がっていたのだろう。
アメリカ側は人種問題を煽ることが、急成長していたわが国を追い落とし、中国大陸の権益を手にするために有効な方法だと考えていたのではないのか。
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