日本軍の真珠湾攻撃で快哉を叫んだ米国黒人が少なからずいた~~米国排日7
そして1941年12月8日の真珠湾攻撃で日米の戦いが始まった。
米国の黒人たちは、この日本人との戦いをどう捉えていたのであろうか。

今まで何度紹介したレジナルド・カーニー氏の著書『20世紀の日本人』にはこう書かれている。
「…日本が真珠湾に奇襲をかけた時、黒人の意見はいくつかに割れた。母国であるアメリカが攻撃を受けたのだから、ひとまず人種問題は置いといて、とにかく戦わねばならない。いやずっと求め続けてきた黒人の権利は主張しながらも、アメリカ人として戦うべきだ。いやいや、黒人を差別するようなアメリカのために戦うなんて、ばかげている。そして、このいずれにも決められないという意見。」(『20世紀の日本人』p.120)

戦争が始まるとなると自国の勝利のために自分の命を賭けて戦ってくれる兵士を集めなければならない。そのためにどこの国のマスコミも政府に協力して戦闘意欲を高める記事を書くものであり、「軍国主義」がわが国だけの専売特許であるわけではないのだ。カーニー氏の著書に、主要黒人メディアの当時の論調が書かれているが、戦前は日本に同情的な記事が多かった黒人メディアも、戦争が始まると全く論調が変わっていることがわかる。アメリカも日本と同様に、「軍国主義」の国になっていたのだ。

たとえば、
【アムステルダム・スター・ニュース紙】
「アメリカがひとつにまとまった国だということを、ジャップとナチに思い知らせてやる。われわれは民主主義のために戦うのだ。しかも勝つために!…肌の色を云々言っている場合ではない。人種の違いなど考えているいとまはないのだ。」
【インディアナポリス・レコーダー紙】
「黒人の忠誠心には何の心配もいらない。われわれは100パーセント以上アメリカ人なのだから。いつでも準備はできている。」
「黒人は『勝利と平和』のために戦い、最後には『完全な人種平等』を勝ち取る」
【シカゴ・ディフェンダー紙】
「われわれ自身の問題を日本に任すわけにはいかない」
「黒人の人種問題の解決を、日本に求めるのは筋違いである」

上の画像は、戦争中に作られたポスターだが、なぜ黒人が描かれるのか。
ここには「ジャップと同じくらい精一杯勉強や仕事に励んでいるのなら、もっと迅速に東京をひねり潰すことができるのに」という意味のことが書いてある。
アメリカでは、黒人がこの戦争の勝利に貢献することによって、念願の公民権を獲得し人種差別問題に打ち勝とうとする「ダブルビクトリー」キャンペーンが大々的に展開されたようなだが、そのような論調を冷ややかに見ていた黒人も少なからずいたようだ。
カーニー氏はこう書いている。
「全米都市同盟(NUL)や全米黒人向上委員会などは、この戦争を機に、いつまでたっても約束通りに生活改善を推し進めようとしない政府に、黒人の低所得者層はうんざりしていることを訴えようとした。エチオピア平和運動をはじめとして、エチオピア和平会議、東洋世界和平会議、イスラム神殿等のメンバーは、たとえアメリカが戦争に勝っても、黒人の状況に前向きな変化はない、という冷ややかな見方をしていた。それどころか、逆に、日本が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んでさえいたのだ。アメリカにいる限り、黒人には明るい未来はないとする彼ら。たとえ、アメリカが日本に負けても、黒人の状況はこれ以上、悪くなりようがない、と彼らは考えていたのだ。
…新聞は彼らを叩いた。FBIも調査に乗り出し、政府機関は彼らを次々に逮捕していった。」(同上書p.123-124)

日本軍が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んだ黒人がいたことが一言だけ書かれているが、ずっと以前に真珠湾での日本軍の快進撃を黒人が喜んだという話を読んだことを思い出した。ブログの読者からもコメントがあったのでその出典を調べたところ、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』に書かれていることがわかった。
終戦後、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄の宿舎に三人の黒人兵が訪ねて来た。そして淵田は彼らのジープに乗せられて丸の内の郵船ビルの裏にあった彼らの働くバーの楽屋裏に案内され、そこで大勢の黒人兵たちに大歓迎されたのだそうだ。

次のURLで淵田美津雄自叙伝の一部の文章が紹介されている。
http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51896032.html
ポイントとなる部分を引用させていただく。
「この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差し伸べて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーをさし出す。
私には、何の為にこの様な歓待を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かって来たことは、彼等のジェスチャーで
『真珠湾空襲を誰が一番喜んだと思うか』
との問いかけであった。そしてその答えは『われわれ黒人だよ』と言うのであった。
私はこのとき初めて身をもって、白と黒の人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされてきた。しかし彼らは、白と黒の差別意識には我慢ならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。それが真珠湾で小気味よく白人の横づらを殴り飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼に今サービスするというのである。しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大っぴらに出来ないから、この様な楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。
私は、この皮膚の色が違うからというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸がふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。(『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』第五部 占領の名の下で 273-274頁)」
カーニー氏によると、彼らのように軍隊に志願した黒人の多くは「とくに国粋主義者でも反戦論者でもない、ごく一般の若者だった。」彼らにすれば、反戦論を貫いて監獄に放り込まれるよりかは軍隊の方がましだったのだ。
マスコミは戦争で勝利に貢献して人種平等を勝ち取ろうと書きたてていたのだが、実際に彼らが目にしたのは、「黒人兵が白人の兵士や市民や警官から差別されるという南部の現実だった」。太平洋戦争中に数多くの黒人差別事件があったようだ。

カーニー氏はこう書いている。
「陸軍の黒人兵を南部のキャンプに入れるという方針は、結局、軍自らの首を絞める結果を招くことになった。ワイリー報告は、北部出身の黒人を南部に送り込むという陸軍省の方針は『まったく相容れないふたつのものを、お互いののど元につき合わせるようなもの』だとしている。…
たとえ黒人の兵士がアメリカ民主主義のために海外で戦う気になったとしても、そのことで、国内の人種差別がなくなるわけではなかった。デトロイトとニューヨークのハーレムを中心に、人種対立はますます激しくなっていった。暴動、リンチ。あまりにも残酷な現実を目のあたりするにつけ、敵であるはずの日本人との距離は少しずつ縮まっていった。…
海外に派兵された黒人兵にとって、いちばん不安だったのは、アメリカ国内の家族や親戚が無事かどうかだった。『アフロ・アメリカン』紙は、社説で、黒人社会が直面していると思われる問題をふたつ取りあげた。『肌の色がちがうというだけで、街角が黒人の血で真っ赤に染まったアメリカ。そんなアメリカが日本の行為を非難できるのか?』『家族や親戚が、敵以上に残酷で無慈悲な味方に脅かされているかもしれないと思うと、海外で戦ってなどいられない!』」(同上書p.137-139)
カーニー氏の著書には黒人に対して兵役拒否を呼びかけた人物が紹介されている。
ミッティ・モード・リーナ・ゴードン女史は40万人もの署名を集めて、すべての黒人をリベリアに移住させるための組織「エチオピア和平会議」を創設し、黒人たちに兵役登録を拒否することを訴えたそうだ。
1942年にFBIの取調べを受けた時に彼女はこう述べたという。
「先の第一次世界大戦で命がけで貢献した黒人に対し、国はいったい何をしてくれたというのか。…『各地では人種暴動』が頻発し、黒人はこのアメリカで『生き抜くために、貧困や差別と闘わねばならなかった』ではないか、と。…アメリカのために戦い、アメリカに裏切られた黒人たち。そんな彼らがもう一度命をかけてまで、星条旗を守ろうなどと思うはずがないではないか、と」(同上書p.125)
このゴードン女史は親日活動のために2年の執行猶予付きではあるが有罪判決を受けたという。
また、レオナード・ロバート・ジョーダンという人物は、兵役への反抗、不忠、反逆、拒否を率先するような演説を行い、政府による兵役への勧誘や登録を妨害したとして、他の3名とともに扇動陰謀罪および扇動防止法違反で有罪となった。
取調べをしたFBIの資料にこのようなジョーダンの言葉が残されているという。
「真珠湾が起きるまでは、白人は日本人をバカにしていた。しかし、シンガポール、ジャワ、ビルマが次々と日本の手にわたっていくのを見て、思っていたほど日本人は愚かではないことにやっと気づきはじめた。日本のアジア侵攻は、アフリカ人がアフリカを統治するように、アジアの原住民自らがアジアを統治するという理想を実現させるものだったということに、白人はやっと気づいたのだ」…「大砲も飛行機も毒ガスも持たない黒人やインド人が、白人に勝つことはできない。同じ有色人種として、日本人だけが頼りなのだ。軍備の整った日本と手を組むことが、インドやアフリカの未来を決めることになる」(同上書p.130-131)
ゴードン女史やジョーダンらの考え方が全米に拡がっていくことを政府は怖れた。
「ハーレムの黒人たちのあいだには、親日感情がはびこりつつある。その証拠に、日本が勝利するたびに、黒人たちは小躍りして喜んでいる」。(同上書p.132)
このような状況に対して軍部がこう結論したというのだ。
「黒人の独特な感情から察するに、約150人の支持者を持つジョーダンをこの町にのさばらせ、ハーレムじゅうに親日感情が蔓延するのを指をくわえて見ているのはきわめて危険なことである。日本の勝利に刺激された黒人どもが、いつ人種暴動に火をつけるとも限らないのだから。」(同上書p.132)
太平洋戦争でわが国は敗れたのだが、その後アジア諸国にもアフリカ諸国にも民族独立運動が広がって次々と白人国家からの独立を果たしていった。しかしながら、肝心のアメリカ国内における有色人種の差別はすぐには解消されなかったのである。

1950年代にマーチン・ルーサー・キングなどが指導者となって、米国黒人をはじめとする被差別民族に法的平等を求める公民権運動が始まったのだが、白人と法的にも平等であるとの市民権法が制定されたのは、なんと終戦から19年経った1964年の7月のことだった。
アメリカでは、差別意識が薄れてきたとはいえKKKのような白人至上主義運動を唱える白人グルーブが未だに存在し、今も黒人に対する差別が続いているようだ。
差別されているのは黒人だけではない。黄色人種の差別も未だに続いており、次のCNNの記事では、中国系と思われるアメリカ人兵士がいじめを苦にして自殺したことが書かれている。この記事によると、アジア系米国人に対するいじめが横行しており、過去10年間で自殺者が急増していることが書かれている。
http://megalodon.jp/2012-0123-0538-38/www.cnn.co.jp/fringe/30005318.html
アメリカは過去、世界第2位の経済大国を叩きながら自らの経済覇権を維持してきた国ではなかったか。アメリカはいずれ中国を包囲し弱体化させる方向に舵を切ると考えるのだが、アジア人に対するいじめが増加していることは、その前触れであるのかもしれない。
アメリカで黄色人種に対するいじめや差別がこれ以上拡大したり、アジア人同士の対立が深刻化しないことを祈りたい。
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米国の黒人たちは、この日本人との戦いをどう捉えていたのであろうか。

今まで何度紹介したレジナルド・カーニー氏の著書『20世紀の日本人』にはこう書かれている。
「…日本が真珠湾に奇襲をかけた時、黒人の意見はいくつかに割れた。母国であるアメリカが攻撃を受けたのだから、ひとまず人種問題は置いといて、とにかく戦わねばならない。いやずっと求め続けてきた黒人の権利は主張しながらも、アメリカ人として戦うべきだ。いやいや、黒人を差別するようなアメリカのために戦うなんて、ばかげている。そして、このいずれにも決められないという意見。」(『20世紀の日本人』p.120)

戦争が始まるとなると自国の勝利のために自分の命を賭けて戦ってくれる兵士を集めなければならない。そのためにどこの国のマスコミも政府に協力して戦闘意欲を高める記事を書くものであり、「軍国主義」がわが国だけの専売特許であるわけではないのだ。カーニー氏の著書に、主要黒人メディアの当時の論調が書かれているが、戦前は日本に同情的な記事が多かった黒人メディアも、戦争が始まると全く論調が変わっていることがわかる。アメリカも日本と同様に、「軍国主義」の国になっていたのだ。

たとえば、
【アムステルダム・スター・ニュース紙】
「アメリカがひとつにまとまった国だということを、ジャップとナチに思い知らせてやる。われわれは民主主義のために戦うのだ。しかも勝つために!…肌の色を云々言っている場合ではない。人種の違いなど考えているいとまはないのだ。」
【インディアナポリス・レコーダー紙】
「黒人の忠誠心には何の心配もいらない。われわれは100パーセント以上アメリカ人なのだから。いつでも準備はできている。」
「黒人は『勝利と平和』のために戦い、最後には『完全な人種平等』を勝ち取る」
【シカゴ・ディフェンダー紙】
「われわれ自身の問題を日本に任すわけにはいかない」
「黒人の人種問題の解決を、日本に求めるのは筋違いである」

上の画像は、戦争中に作られたポスターだが、なぜ黒人が描かれるのか。
ここには「ジャップと同じくらい精一杯勉強や仕事に励んでいるのなら、もっと迅速に東京をひねり潰すことができるのに」という意味のことが書いてある。
アメリカでは、黒人がこの戦争の勝利に貢献することによって、念願の公民権を獲得し人種差別問題に打ち勝とうとする「ダブルビクトリー」キャンペーンが大々的に展開されたようなだが、そのような論調を冷ややかに見ていた黒人も少なからずいたようだ。
カーニー氏はこう書いている。
「全米都市同盟(NUL)や全米黒人向上委員会などは、この戦争を機に、いつまでたっても約束通りに生活改善を推し進めようとしない政府に、黒人の低所得者層はうんざりしていることを訴えようとした。エチオピア平和運動をはじめとして、エチオピア和平会議、東洋世界和平会議、イスラム神殿等のメンバーは、たとえアメリカが戦争に勝っても、黒人の状況に前向きな変化はない、という冷ややかな見方をしていた。それどころか、逆に、日本が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んでさえいたのだ。アメリカにいる限り、黒人には明るい未来はないとする彼ら。たとえ、アメリカが日本に負けても、黒人の状況はこれ以上、悪くなりようがない、と彼らは考えていたのだ。
…新聞は彼らを叩いた。FBIも調査に乗り出し、政府機関は彼らを次々に逮捕していった。」(同上書p.123-124)

日本軍が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んだ黒人がいたことが一言だけ書かれているが、ずっと以前に真珠湾での日本軍の快進撃を黒人が喜んだという話を読んだことを思い出した。ブログの読者からもコメントがあったのでその出典を調べたところ、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』に書かれていることがわかった。
終戦後、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄の宿舎に三人の黒人兵が訪ねて来た。そして淵田は彼らのジープに乗せられて丸の内の郵船ビルの裏にあった彼らの働くバーの楽屋裏に案内され、そこで大勢の黒人兵たちに大歓迎されたのだそうだ。

次のURLで淵田美津雄自叙伝の一部の文章が紹介されている。
http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51896032.html
ポイントとなる部分を引用させていただく。
「この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差し伸べて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーをさし出す。
私には、何の為にこの様な歓待を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かって来たことは、彼等のジェスチャーで
『真珠湾空襲を誰が一番喜んだと思うか』
との問いかけであった。そしてその答えは『われわれ黒人だよ』と言うのであった。
私はこのとき初めて身をもって、白と黒の人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされてきた。しかし彼らは、白と黒の差別意識には我慢ならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。それが真珠湾で小気味よく白人の横づらを殴り飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼に今サービスするというのである。しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大っぴらに出来ないから、この様な楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。
私は、この皮膚の色が違うからというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸がふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。(『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』第五部 占領の名の下で 273-274頁)」
カーニー氏によると、彼らのように軍隊に志願した黒人の多くは「とくに国粋主義者でも反戦論者でもない、ごく一般の若者だった。」彼らにすれば、反戦論を貫いて監獄に放り込まれるよりかは軍隊の方がましだったのだ。
マスコミは戦争で勝利に貢献して人種平等を勝ち取ろうと書きたてていたのだが、実際に彼らが目にしたのは、「黒人兵が白人の兵士や市民や警官から差別されるという南部の現実だった」。太平洋戦争中に数多くの黒人差別事件があったようだ。

カーニー氏はこう書いている。
「陸軍の黒人兵を南部のキャンプに入れるという方針は、結局、軍自らの首を絞める結果を招くことになった。ワイリー報告は、北部出身の黒人を南部に送り込むという陸軍省の方針は『まったく相容れないふたつのものを、お互いののど元につき合わせるようなもの』だとしている。…
たとえ黒人の兵士がアメリカ民主主義のために海外で戦う気になったとしても、そのことで、国内の人種差別がなくなるわけではなかった。デトロイトとニューヨークのハーレムを中心に、人種対立はますます激しくなっていった。暴動、リンチ。あまりにも残酷な現実を目のあたりするにつけ、敵であるはずの日本人との距離は少しずつ縮まっていった。…
海外に派兵された黒人兵にとって、いちばん不安だったのは、アメリカ国内の家族や親戚が無事かどうかだった。『アフロ・アメリカン』紙は、社説で、黒人社会が直面していると思われる問題をふたつ取りあげた。『肌の色がちがうというだけで、街角が黒人の血で真っ赤に染まったアメリカ。そんなアメリカが日本の行為を非難できるのか?』『家族や親戚が、敵以上に残酷で無慈悲な味方に脅かされているかもしれないと思うと、海外で戦ってなどいられない!』」(同上書p.137-139)
カーニー氏の著書には黒人に対して兵役拒否を呼びかけた人物が紹介されている。
ミッティ・モード・リーナ・ゴードン女史は40万人もの署名を集めて、すべての黒人をリベリアに移住させるための組織「エチオピア和平会議」を創設し、黒人たちに兵役登録を拒否することを訴えたそうだ。
1942年にFBIの取調べを受けた時に彼女はこう述べたという。
「先の第一次世界大戦で命がけで貢献した黒人に対し、国はいったい何をしてくれたというのか。…『各地では人種暴動』が頻発し、黒人はこのアメリカで『生き抜くために、貧困や差別と闘わねばならなかった』ではないか、と。…アメリカのために戦い、アメリカに裏切られた黒人たち。そんな彼らがもう一度命をかけてまで、星条旗を守ろうなどと思うはずがないではないか、と」(同上書p.125)
このゴードン女史は親日活動のために2年の執行猶予付きではあるが有罪判決を受けたという。
また、レオナード・ロバート・ジョーダンという人物は、兵役への反抗、不忠、反逆、拒否を率先するような演説を行い、政府による兵役への勧誘や登録を妨害したとして、他の3名とともに扇動陰謀罪および扇動防止法違反で有罪となった。
取調べをしたFBIの資料にこのようなジョーダンの言葉が残されているという。
「真珠湾が起きるまでは、白人は日本人をバカにしていた。しかし、シンガポール、ジャワ、ビルマが次々と日本の手にわたっていくのを見て、思っていたほど日本人は愚かではないことにやっと気づきはじめた。日本のアジア侵攻は、アフリカ人がアフリカを統治するように、アジアの原住民自らがアジアを統治するという理想を実現させるものだったということに、白人はやっと気づいたのだ」…「大砲も飛行機も毒ガスも持たない黒人やインド人が、白人に勝つことはできない。同じ有色人種として、日本人だけが頼りなのだ。軍備の整った日本と手を組むことが、インドやアフリカの未来を決めることになる」(同上書p.130-131)
ゴードン女史やジョーダンらの考え方が全米に拡がっていくことを政府は怖れた。
「ハーレムの黒人たちのあいだには、親日感情がはびこりつつある。その証拠に、日本が勝利するたびに、黒人たちは小躍りして喜んでいる」。(同上書p.132)
このような状況に対して軍部がこう結論したというのだ。
「黒人の独特な感情から察するに、約150人の支持者を持つジョーダンをこの町にのさばらせ、ハーレムじゅうに親日感情が蔓延するのを指をくわえて見ているのはきわめて危険なことである。日本の勝利に刺激された黒人どもが、いつ人種暴動に火をつけるとも限らないのだから。」(同上書p.132)
太平洋戦争でわが国は敗れたのだが、その後アジア諸国にもアフリカ諸国にも民族独立運動が広がって次々と白人国家からの独立を果たしていった。しかしながら、肝心のアメリカ国内における有色人種の差別はすぐには解消されなかったのである。

1950年代にマーチン・ルーサー・キングなどが指導者となって、米国黒人をはじめとする被差別民族に法的平等を求める公民権運動が始まったのだが、白人と法的にも平等であるとの市民権法が制定されたのは、なんと終戦から19年経った1964年の7月のことだった。
アメリカでは、差別意識が薄れてきたとはいえKKKのような白人至上主義運動を唱える白人グルーブが未だに存在し、今も黒人に対する差別が続いているようだ。
差別されているのは黒人だけではない。黄色人種の差別も未だに続いており、次のCNNの記事では、中国系と思われるアメリカ人兵士がいじめを苦にして自殺したことが書かれている。この記事によると、アジア系米国人に対するいじめが横行しており、過去10年間で自殺者が急増していることが書かれている。
http://megalodon.jp/2012-0123-0538-38/www.cnn.co.jp/fringe/30005318.html
アメリカは過去、世界第2位の経済大国を叩きながら自らの経済覇権を維持してきた国ではなかったか。アメリカはいずれ中国を包囲し弱体化させる方向に舵を切ると考えるのだが、アジア人に対するいじめが増加していることは、その前触れであるのかもしれない。
アメリカで黄色人種に対するいじめや差別がこれ以上拡大したり、アジア人同士の対立が深刻化しないことを祈りたい。
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