なぜ日系人だけが強制収容所に送られたのか~~米国排日8
「カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1」でアメリカの新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが1914年(大正3)から排日キャンペーンを開始したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

ハーストが米国大衆に危機感を煽って新聞が売れることを狙ったのか、権力がマスコミを使って反日に世論を誘導したかどちらかはよくわからないが、ハースト系のメディアはその後も一貫して反日記事を流し続けていた。
以前このブログで紹介した米人弁護士マックウィリアムス氏が太平洋戦争中の1944年に著した『日米開戦の人種的側面 アメリカ人の反省1944』に、1940年2月21日のロサンゼルス・イグザミナー紙上でハーストが力説した言葉が紹介されている。

「ちびの日本人がそこらじゅうで果物や野菜や花の栽培をしている。いかにも牧歌的である。しかし奴らは『おいらは日本の軍隊待っている。いつか必ずやって来る。そうなりゃここにあるもの何もかも、みんなおいらがとってやる。そんな時が来るまでは、はいはいわかった、ありがとう。静かにへつらい面従さ』なんて歌っていやがるんだ。…
太平洋に目を向ければ、そこには何百という漁船が並走に漁をしている。漁師は日本人ばかりだ。奴らは魚を追いながら、沿岸部の写真を撮っているのだからたちが悪い」(『日米開戦の人種的側面』p.161-162)
とハーストは言っているのだが、事実でない事を述べて大衆を反日に煽っているとしか思えない。後で記すが、日本人移民の中で日本政府のエージェントであるとかスパイ容疑で逮捕された者は一人もいなかったのだ。
このように無責任なマスコミの論調に煽られて反日思想がアメリカ社会の奥底に根を張っていった。そして彼らは、もし日米が開戦すれば何をするかをかなり早い時点から決めていたようだ。
在郷軍人会第278支部国防委員会会長の職にあったライル・ケインという人物は1939年9月30日のサタディ・イブニング・ポスト紙でこう語ったという。
「日本との戦争が始まったら最初にすべきことは奴ら(日系移民)を一人残らず(everyone of them)強制収容することである。」(同上書 p.162)
そして予定通りに、日米開戦後に日系人は強制収容されたのである。
アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスに全米日系人博物館があり、その日本語サイトに日系人強制収容のあらましが書かれている。しばらくこの解説を引用させていただく。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/index_jp.html
「第二次世界大戦中、12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に送られた。かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられた。
日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域にすむ日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいた。
日系アメリカ人が国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領行政命令9066号に署名し、陸軍省に、地域を指定しその地域内のいかなる人にも強制立ち退きを命じる権限をあたえてしまったのである。」
では、なぜアメリカ政府は日系人を強制収容所に送り込んだのか。上記サイトのQ&Aでこう解説している。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accfact_jp.html
「1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑いました。実際には、日系アメリカ人は真珠湾攻撃にまったく関係しておらず、スパイ行為や軍事、生産への妨害行為なども、当時もいまも、まったく発見されなかったにもかかわらずです。
強制収容された日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていましたし、のこりの3割の一世たちも、市民権を取ることは禁じられていましたが、すでに永住権をもち、20年から40年もアメリカで暮らしていた人たちでした。
1982年、アメリカ議会に任命された調査委員会は、日系アメリカ人強制収容が、適当な国防上の理由で行なわれたものではなく、その真の理由は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった、と結論をくだしています。 」
「ロナルド・レーガン大統領によって署名された「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」で、アメリカ政府は強制収容が重大な基本的人権の侵害であったと認めました。『日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、議会は国を代表して謝罪する』」
このように戦後、アメリカは強制収容された日系人に対して正式に謝罪しているのであるが、なぜこの事実が教科書などで書かれないのだろうかと思う。

上記の画像はツールレイクの収容所だが、日系人たちは、これまで培ってきた生活の全てが奪われて、このような人里離れた荒野の、有刺鉄線に囲まれ武装兵が銃口を構えて監視する場所に、強制移住させられたのだ。

強制立ち退きを強いられた日系アメリカ人たちは、収容所に送られるまでのあいだ、16ヶ所の集合センターに拘留されていたのだが、上の写真はサンタアニタ集合所に到着した日系アメリカ人である。わずかな手荷物しか持つことを許されず、ほとんど着の身着のままで大人しく列にならんで米兵に従っている姿が写っているが、日本人は誰ひとりとして抵抗することなく、むしろ協力的で、各地でスムーズに強制移住が進んだのだという。
次のURLに強制収容所の写真がいくつか出ているが、このような場所で12万人以上の日系人が集団生活することを余儀なくされたのだ。
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/
なぜ日系人だけがこんな目にあわされたのだろうか。日系人が強制収容されたのであれば、わが国の同盟国であったドイツ系やイタリア系も同様な措置がなされなければ筋が通らないのだが、日系人だけが強制収容されたのである。
先程のマックウィリアムス氏の著書を読むと、日系人をこのような強制収容所に送り込んだ理由について、太平洋岸を担当する責任者に任命されたJ.L.デウィット中将は、破壊行為及びスパイ行為という二点の心配があったと述べたのだそうだが、実際には日系人には破壊行為もスパイ行為も何もなく、その理由で逮捕された日本人は一人もいなかったという。
「デウィット中将は奇妙な論理を持ち出している。破壊行為が見られないのはむしろ怪しい徴候であり、そうした行為は必ず近いうちに実行されるだろう、というのだ。言葉を換えていうなら、日本人が誰一人として破壊行為など行っていないという事実こそが、彼らがこれから破壊行為に走ることを示しているという主張である。
これは実に奇妙なロジックであった。もう一つ解せないのが、こうした論理を適用した対象が日本人だけであったことだ。むしろドイツ系やイタリア系の移民の方が破壊行為の実行は容易であったのは誰の目にも明らかであった。
西海岸でスパイ行為があることはほぼ間違いのないことだった。…
要するに日本政府は真珠湾攻撃前に必要であった情報は、すべて非日本人を通じて入手していたのだった。理由は説明するまでもないだろう。目をつけられやすい日本人移民にスパイ行為など任すわけはないのだ。わが国を裏切ったのは日本人移民ではなかった。白人アメリカ人だったのだ。
日本人移民は誰一人として日本政府の秘密エージェントであるとかスパイ行為をしたという理由で逮捕されていないのである。」(同上書 p.165-167)
1942年1月以降各種メディアで反日アジテーションが始められた影響が大きかったのだろうが、実際には日本人移民は、アメリカ人にとって決して危険な存在ではなかった。隔離問題の真の原因は人種問題と経済問題にあったという。
責任者であるデウィット中将自身が1943年4月13日の下院海軍問題小委員会でこのような人種差別的な発言をしている。
「ジャッブはどこまでいってもジャッブである。彼らがわが国への忠誠をみせていようがいまいが、危険な人種であることは間違いのない事なのだ。日本人の中で誰がわが国に忠誠を誓っていて、誰がそうでないかなどわかるはずがない。アメリカ国籍を持っていようがいまいが、日本人の性質は変えられはしない。アメリカ市民であるとの証明書1枚で彼らが変わったと考えるのは甘いのである」(同上書 p.172)

また、日本人移民を強制的に海岸部から追い出すことで利益を狙っているグループがいたという。
「カリフォルニア全体でみると、州内の野菜や果樹の生産者のグループは概ね(日本人の)強制隔離に賛成で、その理由は彼ら自身も認めているように経済的利益であった。サリナス市の生産者組合はオースチン・E・アンソンという人物をワシントンに送り込み、強制隔離に向けたロビー活動を行っている。彼は次のように主張した。開き直ったかのような強弁だった。
『われわれは、日本人追い出しの動機がこずるい金儲けにある、と非難されている。そのとおりである。奴らはこの一帯にやってきた。そして今やその土地を乗っ取ろうとしている。要するに太平洋沿岸部に住むのはわれわれ白人なのか、それとも肌の黄色い奴らなのか、という問題なのである』
花や苗を生産する白人のグループも、日本人生産者との競争がなくなれば、それはそれで望むところだった。…
白人は日本人生産者との今後の競争も恐れていた。彼らが生産を拡大することを嫌った。一世は土地を借りて生産していたが、これからは二世が進出してくる。彼らはアメリカ市民であり、かつ高い教育を受けている者が多い。二世が土地を購入して生産を拡大する。白人たちは、日本人が必ずや許容範囲を超えてくるだろうと恐れた。白人生産者は日本人すべて、つまりアメリカ市民である二世も含めて排除できれば、近い将来起こるはずの彼らの競争を回避できると考えた。…
彼らは日本人を太平洋沿岸地域から永久に隔離するよう主張した。日本人移民の生産量はかなり高かった。カリフォルニア全体での果樹や野菜の生産額は3千5百万ドル[現在価値400億円]程度と推定される。ロサンゼルス近郊の生花の生産に限ってみても400万ドル[現在価値50億円]にのぼっている。」(同上書 p.184-185)
たとえば農業に関して言うと1940年の統計によると、カリフォルニア州では5135箇所の日本人経営の農場があり耕作地は92千ヘクタールあったという。
「1941年には、毎日トラックで運ばれる生鮮作物の42%が日本人の農場からやって来た。彼らはカリフォルニアのわずか3.9%の土地を使い、穀物では全体のわずか2.7%しか生産していなかったが、特定の野菜類では極めて高い出荷量があった。セロリ、ペッパー、イチゴ、キュウリ、アーティチョーク、カリフラワー、ほうれん草、トマトといった野菜は、カリフォルニア生産量の50%から90%が日本人農家によって供給されていた。」(同上書 p.135)
要するに、日本人が長年かかって西海岸で苦労して開拓した土地や市場を、人種問題を奇貨として二束三文で日本人から手に入れようと考えたずるい連中が、少なからずアメリカにいたのである。
カリフォルニアを白人だけの土地にしようと主張する人々は、日本人の強制退去と隔離を喜んだのだが、そこで皮肉な現象が起こる。日本人の抜けた後に15万人にのぼる黒人が南部諸州から仕事を求めて引き寄せられてきたのだ。この頃軍事産業は好況で人手不足の状態であったからだ。
日本人が消えたリトルトーキョーに黒人たちが住み着いて、カリフォルニアは新たな人種問題で悩まされることとなったのである。
さらに、生鮮野菜の野菜が買い占められて価格が吊り上り、野菜の品質も明らかに低下したのだという。日本人は良い作物を作って適正な価格で販売し、家主には家賃を払い、銀行にはきちんと約条通り返済してしっかり地元経済に根を張っていたのだが、日本人を追い出したことにより、別のあらたなる難問を次々に惹起していったのである。

日系人の強制収容の事を調べていくと、つくづく日本人は我慢強いものだと感心してしまう。マックウィリアムス氏も、こう書いている。
「…普通のアメリカ人十万人を収容しなければならないとしたら、どれほどの混乱が生じることか火を見るよりも明らかである。おそらく陸軍の数個師団の出動が必要であろう。それでも十五分おきに叛乱が起きたに違いない。
日本人という人種以外であったら、あのような退去隔離の作業を進めることは不可能であった。彼らの精神的苦痛、恐怖、混乱、将来への不安。こうしたことをも考慮すると彼らのみせた態度は驚くべきことと言わねばならない。…彼らがみせた行動は、彼らのわが国への忠誠心そのものなのである。」(同上書 p.195-196)
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以前このブログで紹介した米人弁護士マックウィリアムス氏が太平洋戦争中の1944年に著した『日米開戦の人種的側面 アメリカ人の反省1944』に、1940年2月21日のロサンゼルス・イグザミナー紙上でハーストが力説した言葉が紹介されている。

「ちびの日本人がそこらじゅうで果物や野菜や花の栽培をしている。いかにも牧歌的である。しかし奴らは『おいらは日本の軍隊待っている。いつか必ずやって来る。そうなりゃここにあるもの何もかも、みんなおいらがとってやる。そんな時が来るまでは、はいはいわかった、ありがとう。静かにへつらい面従さ』なんて歌っていやがるんだ。…
太平洋に目を向ければ、そこには何百という漁船が並走に漁をしている。漁師は日本人ばかりだ。奴らは魚を追いながら、沿岸部の写真を撮っているのだからたちが悪い」(『日米開戦の人種的側面』p.161-162)
とハーストは言っているのだが、事実でない事を述べて大衆を反日に煽っているとしか思えない。後で記すが、日本人移民の中で日本政府のエージェントであるとかスパイ容疑で逮捕された者は一人もいなかったのだ。
このように無責任なマスコミの論調に煽られて反日思想がアメリカ社会の奥底に根を張っていった。そして彼らは、もし日米が開戦すれば何をするかをかなり早い時点から決めていたようだ。
在郷軍人会第278支部国防委員会会長の職にあったライル・ケインという人物は1939年9月30日のサタディ・イブニング・ポスト紙でこう語ったという。
「日本との戦争が始まったら最初にすべきことは奴ら(日系移民)を一人残らず(everyone of them)強制収容することである。」(同上書 p.162)
そして予定通りに、日米開戦後に日系人は強制収容されたのである。
アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスに全米日系人博物館があり、その日本語サイトに日系人強制収容のあらましが書かれている。しばらくこの解説を引用させていただく。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/index_jp.html
「第二次世界大戦中、12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に送られた。かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられた。
日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域にすむ日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいた。
日系アメリカ人が国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領行政命令9066号に署名し、陸軍省に、地域を指定しその地域内のいかなる人にも強制立ち退きを命じる権限をあたえてしまったのである。」
では、なぜアメリカ政府は日系人を強制収容所に送り込んだのか。上記サイトのQ&Aでこう解説している。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accfact_jp.html
「1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑いました。実際には、日系アメリカ人は真珠湾攻撃にまったく関係しておらず、スパイ行為や軍事、生産への妨害行為なども、当時もいまも、まったく発見されなかったにもかかわらずです。
強制収容された日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていましたし、のこりの3割の一世たちも、市民権を取ることは禁じられていましたが、すでに永住権をもち、20年から40年もアメリカで暮らしていた人たちでした。
1982年、アメリカ議会に任命された調査委員会は、日系アメリカ人強制収容が、適当な国防上の理由で行なわれたものではなく、その真の理由は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった、と結論をくだしています。 」
「ロナルド・レーガン大統領によって署名された「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」で、アメリカ政府は強制収容が重大な基本的人権の侵害であったと認めました。『日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、議会は国を代表して謝罪する』」
このように戦後、アメリカは強制収容された日系人に対して正式に謝罪しているのであるが、なぜこの事実が教科書などで書かれないのだろうかと思う。

上記の画像はツールレイクの収容所だが、日系人たちは、これまで培ってきた生活の全てが奪われて、このような人里離れた荒野の、有刺鉄線に囲まれ武装兵が銃口を構えて監視する場所に、強制移住させられたのだ。

強制立ち退きを強いられた日系アメリカ人たちは、収容所に送られるまでのあいだ、16ヶ所の集合センターに拘留されていたのだが、上の写真はサンタアニタ集合所に到着した日系アメリカ人である。わずかな手荷物しか持つことを許されず、ほとんど着の身着のままで大人しく列にならんで米兵に従っている姿が写っているが、日本人は誰ひとりとして抵抗することなく、むしろ協力的で、各地でスムーズに強制移住が進んだのだという。
次のURLに強制収容所の写真がいくつか出ているが、このような場所で12万人以上の日系人が集団生活することを余儀なくされたのだ。
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/
なぜ日系人だけがこんな目にあわされたのだろうか。日系人が強制収容されたのであれば、わが国の同盟国であったドイツ系やイタリア系も同様な措置がなされなければ筋が通らないのだが、日系人だけが強制収容されたのである。
先程のマックウィリアムス氏の著書を読むと、日系人をこのような強制収容所に送り込んだ理由について、太平洋岸を担当する責任者に任命されたJ.L.デウィット中将は、破壊行為及びスパイ行為という二点の心配があったと述べたのだそうだが、実際には日系人には破壊行為もスパイ行為も何もなく、その理由で逮捕された日本人は一人もいなかったという。
「デウィット中将は奇妙な論理を持ち出している。破壊行為が見られないのはむしろ怪しい徴候であり、そうした行為は必ず近いうちに実行されるだろう、というのだ。言葉を換えていうなら、日本人が誰一人として破壊行為など行っていないという事実こそが、彼らがこれから破壊行為に走ることを示しているという主張である。
これは実に奇妙なロジックであった。もう一つ解せないのが、こうした論理を適用した対象が日本人だけであったことだ。むしろドイツ系やイタリア系の移民の方が破壊行為の実行は容易であったのは誰の目にも明らかであった。
西海岸でスパイ行為があることはほぼ間違いのないことだった。…
要するに日本政府は真珠湾攻撃前に必要であった情報は、すべて非日本人を通じて入手していたのだった。理由は説明するまでもないだろう。目をつけられやすい日本人移民にスパイ行為など任すわけはないのだ。わが国を裏切ったのは日本人移民ではなかった。白人アメリカ人だったのだ。
日本人移民は誰一人として日本政府の秘密エージェントであるとかスパイ行為をしたという理由で逮捕されていないのである。」(同上書 p.165-167)
1942年1月以降各種メディアで反日アジテーションが始められた影響が大きかったのだろうが、実際には日本人移民は、アメリカ人にとって決して危険な存在ではなかった。隔離問題の真の原因は人種問題と経済問題にあったという。
責任者であるデウィット中将自身が1943年4月13日の下院海軍問題小委員会でこのような人種差別的な発言をしている。
「ジャッブはどこまでいってもジャッブである。彼らがわが国への忠誠をみせていようがいまいが、危険な人種であることは間違いのない事なのだ。日本人の中で誰がわが国に忠誠を誓っていて、誰がそうでないかなどわかるはずがない。アメリカ国籍を持っていようがいまいが、日本人の性質は変えられはしない。アメリカ市民であるとの証明書1枚で彼らが変わったと考えるのは甘いのである」(同上書 p.172)

また、日本人移民を強制的に海岸部から追い出すことで利益を狙っているグループがいたという。
「カリフォルニア全体でみると、州内の野菜や果樹の生産者のグループは概ね(日本人の)強制隔離に賛成で、その理由は彼ら自身も認めているように経済的利益であった。サリナス市の生産者組合はオースチン・E・アンソンという人物をワシントンに送り込み、強制隔離に向けたロビー活動を行っている。彼は次のように主張した。開き直ったかのような強弁だった。
『われわれは、日本人追い出しの動機がこずるい金儲けにある、と非難されている。そのとおりである。奴らはこの一帯にやってきた。そして今やその土地を乗っ取ろうとしている。要するに太平洋沿岸部に住むのはわれわれ白人なのか、それとも肌の黄色い奴らなのか、という問題なのである』
花や苗を生産する白人のグループも、日本人生産者との競争がなくなれば、それはそれで望むところだった。…
白人は日本人生産者との今後の競争も恐れていた。彼らが生産を拡大することを嫌った。一世は土地を借りて生産していたが、これからは二世が進出してくる。彼らはアメリカ市民であり、かつ高い教育を受けている者が多い。二世が土地を購入して生産を拡大する。白人たちは、日本人が必ずや許容範囲を超えてくるだろうと恐れた。白人生産者は日本人すべて、つまりアメリカ市民である二世も含めて排除できれば、近い将来起こるはずの彼らの競争を回避できると考えた。…
彼らは日本人を太平洋沿岸地域から永久に隔離するよう主張した。日本人移民の生産量はかなり高かった。カリフォルニア全体での果樹や野菜の生産額は3千5百万ドル[現在価値400億円]程度と推定される。ロサンゼルス近郊の生花の生産に限ってみても400万ドル[現在価値50億円]にのぼっている。」(同上書 p.184-185)
たとえば農業に関して言うと1940年の統計によると、カリフォルニア州では5135箇所の日本人経営の農場があり耕作地は92千ヘクタールあったという。
「1941年には、毎日トラックで運ばれる生鮮作物の42%が日本人の農場からやって来た。彼らはカリフォルニアのわずか3.9%の土地を使い、穀物では全体のわずか2.7%しか生産していなかったが、特定の野菜類では極めて高い出荷量があった。セロリ、ペッパー、イチゴ、キュウリ、アーティチョーク、カリフラワー、ほうれん草、トマトといった野菜は、カリフォルニア生産量の50%から90%が日本人農家によって供給されていた。」(同上書 p.135)
要するに、日本人が長年かかって西海岸で苦労して開拓した土地や市場を、人種問題を奇貨として二束三文で日本人から手に入れようと考えたずるい連中が、少なからずアメリカにいたのである。
カリフォルニアを白人だけの土地にしようと主張する人々は、日本人の強制退去と隔離を喜んだのだが、そこで皮肉な現象が起こる。日本人の抜けた後に15万人にのぼる黒人が南部諸州から仕事を求めて引き寄せられてきたのだ。この頃軍事産業は好況で人手不足の状態であったからだ。
日本人が消えたリトルトーキョーに黒人たちが住み着いて、カリフォルニアは新たな人種問題で悩まされることとなったのである。
さらに、生鮮野菜の野菜が買い占められて価格が吊り上り、野菜の品質も明らかに低下したのだという。日本人は良い作物を作って適正な価格で販売し、家主には家賃を払い、銀行にはきちんと約条通り返済してしっかり地元経済に根を張っていたのだが、日本人を追い出したことにより、別のあらたなる難問を次々に惹起していったのである。

日系人の強制収容の事を調べていくと、つくづく日本人は我慢強いものだと感心してしまう。マックウィリアムス氏も、こう書いている。
「…普通のアメリカ人十万人を収容しなければならないとしたら、どれほどの混乱が生じることか火を見るよりも明らかである。おそらく陸軍の数個師団の出動が必要であろう。それでも十五分おきに叛乱が起きたに違いない。
日本人という人種以外であったら、あのような退去隔離の作業を進めることは不可能であった。彼らの精神的苦痛、恐怖、混乱、将来への不安。こうしたことをも考慮すると彼らのみせた態度は驚くべきことと言わねばならない。…彼らがみせた行動は、彼らのわが国への忠誠心そのものなのである。」(同上書 p.195-196)
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