強制収容所の日系人が米軍を志願した理由は何だったのか~~米国排日9
前回の記事で、日系人強制収容所の写真が沢山掲載されているサイトを紹介した。
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/
上記サイトの中に若い男性が順番に並んでいる写真が掲載されている。

英文の解説を読むと、この写真は1944年2月22日に撮影されたもので、コロラド州グラナダ強制収容所(通称:アマチ強制収容所)に送られた日系人のうち米軍入隊を希望した男性が、入隊前の身体検査の為に並んでいるところである。
強制収容所に隔離されていた日系人の多くが入隊を志願したことは聞いたことがあったが、彼らが米軍の中でも特筆すべき活躍をしたことを知ったのは比較的最近の事である。今回は、日系人部隊がどういう経緯で集められ、どのような活躍をしたのか。ロサンゼルスにある日系メディアの『ライトハウス』が特集記事を出しているので、その記事やWikipediaなどを参考にして纏めてみることにする。
http://www.us-lighthouse.com/specialla/e-587.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9
前回の記事で、12万人を超える日系人が強制収容所に送られたことを書いたが、実は収容所に送られたのは殆んどがアメリカ本土在住の日系人で、ハワイの日系人が収容所に送られたということは殆んどなかったのだそうだ。その理由は、ハワイの日系人がハワイ人口の約半分にもなっており、日本人を隔離してしまっては社会混乱が避けられず、かつ膨大な経費と土地が必要になるためだったと考えられている。
しかし、太平洋戦争の緒戦は日本軍の快進撃が続き、アメリカ政府ならびに軍は、日本軍のハワイ進攻が近いうちに行われることを予想し、その対策を進めることとなった。
現実問題として、もし日本兵が米軍の軍服を着て紛れ込んだりすると見分けることは極めて困難である。そこで米軍が出した対策が、ハワイの日系兵士を集めてアメリカ本土へ送ることだった。
こうしてハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」が生まれ、極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られた。そこで日系兵は抜群の成績を挙げたという。彼らは、真珠湾攻撃を目の当たりにしたからこそ、訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出てアメリカに対して忠誠心を示すことこそが、ハワイで日系人が生き残る唯一の道だと考えていたのだった。
しかしこの時点では日系兵が戦場に送られる可能性は殆んどなかった。というのは、米軍は開戦後日系人の志願を禁止していたし、また軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていたのだそうだ。
『ライトハウス』日本語版にはこう書かれている。
「この不信感を覆したのが、…(第100歩兵大隊の)優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。…彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも2世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。43年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて『アメリカのために死ねる権利』を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。」
そこで日系人志願兵募集が始まる。ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、アメリカ本土では兵役年齢にある2世男子の5%が志願した程度に過ぎなかったという。記事の冒頭で紹介した写真が、その志願者の列なのだ。
「日系」という理由で敵性外国人と見做され、特に米国本土ではそのために生活基盤が壊され、財産が没収され、強制収容所にまで送り込んだアメリカという国家に忠誠を誓い、自らの命を捧げられるかと随分悩んだことだと思う。しかし、国家に反抗したところでいいことは何もない。収容所にいる家族を一日も早く解放させ、将来にわたって日系人がアメリカで生きていくためには、結局のところ、この機会に国家に忠誠を尽くして、日系人に対する偏見を除去する以外にないと彼らは考えたようなのだ。
『ライトハウス』日本語版には、アメリカ本土から442連隊に入隊したケン・アクネ氏が入隊時に友人とこのような議論したことが記されている。
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここ(収容所)にいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」。
かくして、日系人で編成された第100歩兵大隊と及び442連隊はヨーロッパ戦線で決死の覚悟で戦うこととなる。Wikipediaで442連隊の戦歴が書かれているが、読んでいくとその凄まじい戦いぶりに驚いてしまう。「死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字」は尋常な数字ではない。一人の兵隊が平均3回以上負傷するか死んだということである。そしてアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊がこの442部隊なのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3

例えば1944年10月24日に連合軍の第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊)がドイツ軍に包囲されてしまった。翌日ルーズベルト大統領自身の救出命令により、442連隊がドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることになる。
Wikipediaの解説によると、
「10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重症を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった」と記されている。

またWikipediaには、442連隊は「ドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった」と書かれているが、この出来事に興味を覚えたのでネットで調べると、ユダヤ人のソリー・ガノール氏が日系人部隊によって救出された体験を手記に書いていて、『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)としてわが国で翻訳されていることが分かった。
次のURLで上記書籍の一部が紹介・引用されている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb804.html

ソリー・ガノール氏は、助けてくれた日系二世兵士の名前を記している。
「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」
「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。」
ダッハウ強制収容所にはユダヤ人や政治犯などが20万人も送り込まれたと言われているが、この時に解放された囚人は32千人だったという。ここで多くの囚人が虐殺され、チフスなどの伝染病などで病死したのだが、家族がアメリカの強制収容所に隔離されている日系兵がナチスの強制収容所の解放に関与したことに歴史の運命を感じてしまう。
この史実は1992年まで公表されなかったというのだが、これは何故なのか。

渡辺正清氏が著した『ゴー・フォー・ブローク 日系二世兵士たちの戦場』(光人社NF文庫)にはこう書かれている。
「米軍事史の研究家エリック・ソウル氏によると、日系二世兵は米陸軍によってダッハウ解放をけっして口外してはならないと命令されていた。その理由として、米政府は日系兵の栄誉が認められることを好まなかったからではないかと推察し、
『もし日系兵が口外すれば軍法会議にかけると脅したため、彼らは口をつぐんでいた』と述べている。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.240)
エリック・ソウル氏の推察は表面的なレベルにとどまっている。ではなぜ、米政府は日系兵の栄誉を認めたくなかったのだろうか。
もしこの史実が美談として世界に広まれば、アメリカにも日系人の強制収容所があり、日系人の国家に対する忠誠心を試す目的で志願兵を募集し、激戦のヨーロッパ戦線の最前線に送り込んだアメリカが非難されることにつながることを怖れたということではないのか。
日系兵士は、家族と日系人の未来のために決死の覚悟で戦場に赴いたが、アメリカはただその勇敢さを、白人兵の犠牲を少なくするために利用しただけではなかったか。
ヨーロッパ戦線からアメリカ本土に帰ってきた422部隊を迎えた式典で、トルーマン大統領は彼らの栄誉をたたえて、こう述べたという。
「諸君は今度の戦争で二つの敵と戦った。
一つは戦場における敵であり、もう一つは米国内の偏見との戦いである。
諸君はいずれの戦いにも勝利を収めた。」
日系人兵士がヨーロッパ戦線で大活躍し、この様な大統領の言葉があったのであれば、日系人の名誉が回復されていかなければ筋が通らないと思うのだが、戦後もアメリカ白人による日系人差別は変わらず、その後もアメリカの国民ではあってもアメリカの市民権は剥奪されたままだったのである。
偏見や差別の中で、仕事や家を失いその他の財産のほとんどを放棄させられて長年に渡って強制収容された日系人が、戦後のアメリカで社会復帰することは容易ではなかったようなのだ。
「事実、終戦後のアメリカでは、戦前からの排日の風潮は少しも衰えていなかった。本土に帰った二世が、両親のいる収容所に向かうとき、駅で、食堂で、散髪屋で、
『ジャップ』
は追い出された。かれらが、米陸軍の制服を着ていてもである。
ダニエル・イノウエ中尉がハワイに帰るとき、サンフランシスコで散髪屋の主人に、
『ジャップの髪は刈らない、出ていけ』
と言われた実話は、あまりにも有名である。
このとき、イノウエ中尉の制服には、右腕を失った代償としての勲章がひかっていた。
トルーマン大統領の言葉とは裏腹に、米軍の制服を着た日系人を見る眼は、一般のアメリカ人にかぎらず、米陸軍省においてさえ偏見と差別にあふれていたのである。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.249)

ここに出てくるダニエル・イノウエ中尉は昨年末に亡くなられたが、1963年に米国上院議に選出され、上院の最古参議員となり上院仮議長にまで登りつめた人物である。戦時中は442連隊に所属し、ヨーロッパ戦線で右腕を失い、米国陸軍では「英雄」と讃えられたというのだが、戦場から帰国した彼らが見たアメリカは、相変わらず日系人・日本人が差別される社会であったのだ。
そこで日系人の新しい戦いがはじまった。新しい敵は日本人の土地所有を禁止している「排日土地法」と、日本からの労働移民を禁止している「排日移民法」であった。
日系人たちはヨーロッパ戦線での犠牲と武功を武器にして、アメリカ議会と法廷と世論を相手に戦ったのである。

そして7年の歳月をかけて、1952年に「排日土地法」「排日移民法」を葬り去ることに成功し、その後もダニエル・イノウエを始めとする日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動により、1976年にはフォード大統領から、日系人を強制収容したことは「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」という公式発言を引き出している。
続いて1978年には日系アメリカ人市民同盟は謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年にはレーガン大統領が「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 と述べて強制収容された日系アメリカ人に公式に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行ったという流れだ。
ところで、もし日系人が兵役を志願しなかったり、兵役を志願してもヨーロッパ戦線でほとんど活躍しなかったとしたら、戦後の日系人や移民した日本人の扱いはどうなっていたであろうか。
日系人が、終戦後にこれだけ苦労して「排日土地法」「排日移民法」を葬り、アメリカ政府から正式な謝罪と賠償を勝ち取った歴史を知ると、プロパガンダで意図的に広められた人種的偏見を除去することは容易でないことが誰でも分かる。第二次大戦でもし日系人部隊の活躍がなかったとしたら、今もアメリカで日系人・日本人が人種的に差別される状態が続いていても、決して不思議なことではないように思えるのだ。
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上記サイトの中に若い男性が順番に並んでいる写真が掲載されている。

英文の解説を読むと、この写真は1944年2月22日に撮影されたもので、コロラド州グラナダ強制収容所(通称:アマチ強制収容所)に送られた日系人のうち米軍入隊を希望した男性が、入隊前の身体検査の為に並んでいるところである。
強制収容所に隔離されていた日系人の多くが入隊を志願したことは聞いたことがあったが、彼らが米軍の中でも特筆すべき活躍をしたことを知ったのは比較的最近の事である。今回は、日系人部隊がどういう経緯で集められ、どのような活躍をしたのか。ロサンゼルスにある日系メディアの『ライトハウス』が特集記事を出しているので、その記事やWikipediaなどを参考にして纏めてみることにする。
http://www.us-lighthouse.com/specialla/e-587.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9
前回の記事で、12万人を超える日系人が強制収容所に送られたことを書いたが、実は収容所に送られたのは殆んどがアメリカ本土在住の日系人で、ハワイの日系人が収容所に送られたということは殆んどなかったのだそうだ。その理由は、ハワイの日系人がハワイ人口の約半分にもなっており、日本人を隔離してしまっては社会混乱が避けられず、かつ膨大な経費と土地が必要になるためだったと考えられている。
しかし、太平洋戦争の緒戦は日本軍の快進撃が続き、アメリカ政府ならびに軍は、日本軍のハワイ進攻が近いうちに行われることを予想し、その対策を進めることとなった。
現実問題として、もし日本兵が米軍の軍服を着て紛れ込んだりすると見分けることは極めて困難である。そこで米軍が出した対策が、ハワイの日系兵士を集めてアメリカ本土へ送ることだった。
こうしてハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」が生まれ、極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られた。そこで日系兵は抜群の成績を挙げたという。彼らは、真珠湾攻撃を目の当たりにしたからこそ、訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出てアメリカに対して忠誠心を示すことこそが、ハワイで日系人が生き残る唯一の道だと考えていたのだった。
しかしこの時点では日系兵が戦場に送られる可能性は殆んどなかった。というのは、米軍は開戦後日系人の志願を禁止していたし、また軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていたのだそうだ。
『ライトハウス』日本語版にはこう書かれている。
「この不信感を覆したのが、…(第100歩兵大隊の)優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。…彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも2世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。43年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて『アメリカのために死ねる権利』を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。」
そこで日系人志願兵募集が始まる。ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、アメリカ本土では兵役年齢にある2世男子の5%が志願した程度に過ぎなかったという。記事の冒頭で紹介した写真が、その志願者の列なのだ。
「日系」という理由で敵性外国人と見做され、特に米国本土ではそのために生活基盤が壊され、財産が没収され、強制収容所にまで送り込んだアメリカという国家に忠誠を誓い、自らの命を捧げられるかと随分悩んだことだと思う。しかし、国家に反抗したところでいいことは何もない。収容所にいる家族を一日も早く解放させ、将来にわたって日系人がアメリカで生きていくためには、結局のところ、この機会に国家に忠誠を尽くして、日系人に対する偏見を除去する以外にないと彼らは考えたようなのだ。
『ライトハウス』日本語版には、アメリカ本土から442連隊に入隊したケン・アクネ氏が入隊時に友人とこのような議論したことが記されている。
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここ(収容所)にいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」。
かくして、日系人で編成された第100歩兵大隊と及び442連隊はヨーロッパ戦線で決死の覚悟で戦うこととなる。Wikipediaで442連隊の戦歴が書かれているが、読んでいくとその凄まじい戦いぶりに驚いてしまう。「死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字」は尋常な数字ではない。一人の兵隊が平均3回以上負傷するか死んだということである。そしてアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊がこの442部隊なのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3

例えば1944年10月24日に連合軍の第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊)がドイツ軍に包囲されてしまった。翌日ルーズベルト大統領自身の救出命令により、442連隊がドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることになる。
Wikipediaの解説によると、
「10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重症を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった」と記されている。

またWikipediaには、442連隊は「ドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった」と書かれているが、この出来事に興味を覚えたのでネットで調べると、ユダヤ人のソリー・ガノール氏が日系人部隊によって救出された体験を手記に書いていて、『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)としてわが国で翻訳されていることが分かった。
次のURLで上記書籍の一部が紹介・引用されている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb804.html

ソリー・ガノール氏は、助けてくれた日系二世兵士の名前を記している。
「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」
「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。」
ダッハウ強制収容所にはユダヤ人や政治犯などが20万人も送り込まれたと言われているが、この時に解放された囚人は32千人だったという。ここで多くの囚人が虐殺され、チフスなどの伝染病などで病死したのだが、家族がアメリカの強制収容所に隔離されている日系兵がナチスの強制収容所の解放に関与したことに歴史の運命を感じてしまう。
この史実は1992年まで公表されなかったというのだが、これは何故なのか。

渡辺正清氏が著した『ゴー・フォー・ブローク 日系二世兵士たちの戦場』(光人社NF文庫)にはこう書かれている。
「米軍事史の研究家エリック・ソウル氏によると、日系二世兵は米陸軍によってダッハウ解放をけっして口外してはならないと命令されていた。その理由として、米政府は日系兵の栄誉が認められることを好まなかったからではないかと推察し、
『もし日系兵が口外すれば軍法会議にかけると脅したため、彼らは口をつぐんでいた』と述べている。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.240)
エリック・ソウル氏の推察は表面的なレベルにとどまっている。ではなぜ、米政府は日系兵の栄誉を認めたくなかったのだろうか。
もしこの史実が美談として世界に広まれば、アメリカにも日系人の強制収容所があり、日系人の国家に対する忠誠心を試す目的で志願兵を募集し、激戦のヨーロッパ戦線の最前線に送り込んだアメリカが非難されることにつながることを怖れたということではないのか。
日系兵士は、家族と日系人の未来のために決死の覚悟で戦場に赴いたが、アメリカはただその勇敢さを、白人兵の犠牲を少なくするために利用しただけではなかったか。
ヨーロッパ戦線からアメリカ本土に帰ってきた422部隊を迎えた式典で、トルーマン大統領は彼らの栄誉をたたえて、こう述べたという。
「諸君は今度の戦争で二つの敵と戦った。
一つは戦場における敵であり、もう一つは米国内の偏見との戦いである。
諸君はいずれの戦いにも勝利を収めた。」
日系人兵士がヨーロッパ戦線で大活躍し、この様な大統領の言葉があったのであれば、日系人の名誉が回復されていかなければ筋が通らないと思うのだが、戦後もアメリカ白人による日系人差別は変わらず、その後もアメリカの国民ではあってもアメリカの市民権は剥奪されたままだったのである。
偏見や差別の中で、仕事や家を失いその他の財産のほとんどを放棄させられて長年に渡って強制収容された日系人が、戦後のアメリカで社会復帰することは容易ではなかったようなのだ。
「事実、終戦後のアメリカでは、戦前からの排日の風潮は少しも衰えていなかった。本土に帰った二世が、両親のいる収容所に向かうとき、駅で、食堂で、散髪屋で、
『ジャップ』
は追い出された。かれらが、米陸軍の制服を着ていてもである。
ダニエル・イノウエ中尉がハワイに帰るとき、サンフランシスコで散髪屋の主人に、
『ジャップの髪は刈らない、出ていけ』
と言われた実話は、あまりにも有名である。
このとき、イノウエ中尉の制服には、右腕を失った代償としての勲章がひかっていた。
トルーマン大統領の言葉とは裏腹に、米軍の制服を着た日系人を見る眼は、一般のアメリカ人にかぎらず、米陸軍省においてさえ偏見と差別にあふれていたのである。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.249)

ここに出てくるダニエル・イノウエ中尉は昨年末に亡くなられたが、1963年に米国上院議に選出され、上院の最古参議員となり上院仮議長にまで登りつめた人物である。戦時中は442連隊に所属し、ヨーロッパ戦線で右腕を失い、米国陸軍では「英雄」と讃えられたというのだが、戦場から帰国した彼らが見たアメリカは、相変わらず日系人・日本人が差別される社会であったのだ。
そこで日系人の新しい戦いがはじまった。新しい敵は日本人の土地所有を禁止している「排日土地法」と、日本からの労働移民を禁止している「排日移民法」であった。
日系人たちはヨーロッパ戦線での犠牲と武功を武器にして、アメリカ議会と法廷と世論を相手に戦ったのである。

そして7年の歳月をかけて、1952年に「排日土地法」「排日移民法」を葬り去ることに成功し、その後もダニエル・イノウエを始めとする日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動により、1976年にはフォード大統領から、日系人を強制収容したことは「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」という公式発言を引き出している。
続いて1978年には日系アメリカ人市民同盟は謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年にはレーガン大統領が「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 と述べて強制収容された日系アメリカ人に公式に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行ったという流れだ。
ところで、もし日系人が兵役を志願しなかったり、兵役を志願してもヨーロッパ戦線でほとんど活躍しなかったとしたら、戦後の日系人や移民した日本人の扱いはどうなっていたであろうか。
日系人が、終戦後にこれだけ苦労して「排日土地法」「排日移民法」を葬り、アメリカ政府から正式な謝罪と賠償を勝ち取った歴史を知ると、プロパガンダで意図的に広められた人種的偏見を除去することは容易でないことが誰でも分かる。第二次大戦でもし日系人部隊の活躍がなかったとしたら、今もアメリカで日系人・日本人が人種的に差別される状態が続いていても、決して不思議なことではないように思えるのだ。
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