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葵祭りの由来について

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Categoryお祭り
5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。

都名所図絵葵祭_30

上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。

葵祭御所

平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。)

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。

葵祭
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