特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党
前回記事の最後に、昭和8年(1933)の12月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件で日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の2名がリンチに遭い、翌日に小畑が死亡したのだが、この二人が仲間から暴行を受けた理由は「特高のスパイ行為を働いた」というものであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html
『特高の回想』を著した宮下弘氏はこの事件の担当ではなかったが、当時の日本共産党では仲間をリンチにかける事件が結構多かったようだ。宮下氏はこんな事件のことを述べておられる。
「わたしが直接調べたリンチ事件は、小畑達夫のもとで党中央財政部員だった全協*出身の大沢武男がリンチされた事件です。
昭和8年(1933)暮の宮本・袴田たちによるリンチ査問のあと、翌年1月から2月にかけて、大沢はひどい目にあわされています。査問されても、頑強にスパイであることを否認するので、査問する側は党中央にお伺いをたてたら、スパイであるという印をつけて釈放しろ、と。それで、大沢の額に焼きごてをあて、硫酸を流し込んで、スパイの烙印をつけて釈放したんです。
同じころ査問された江東地区委員だった波多然のばあいも、やっぱり同じようにして烙印をつけられている。この大沢や波多然にたいするリンチを木島(日本共産党委員、江東地区責任者)らがやっています。
大沢がスパイ容疑で査問されているらしいという情報があって、内偵しているうちに、大沢のハウスキーパーをしていた女性の実家で女中をしていた女の口から、大沢の居場所を訊いた。そこは引っ越して空き家だったが、運送屋を調べたりして隠れ家を突きとめたら、真夏だというのに昼でも雨戸を閉めきりにしている。額に烙印をおされて、戸外に出られないで、部屋の中に閉じこもって、新聞の碁の欄を見ては一日じゅう碁盤に石を並べていた。それを逮捕したのです。」(『特高の回想』p.130-131)
*全協:日本労働組合全国協議会の略。昭和3年に左翼が再結集し発足。日本共産党の指導下にあった。

「日本共産党スパイ査問事件」でリンチに遭い、生き延びた大泉兼蔵は六本木の隠れ家に監禁されていた。大泉を援けたのも警官だった。宮下氏はこう述べている。
「あれは六本木署の巡査が通りかかったら、家の中でわめいているのが聞こえて、入ったら大泉が転がり出て来たんです。ピストルをもった木俣鈴子を突きとばすようにしてね。
大泉がどこかに監禁されていることはわかっていたけれども、どこかはわからない。どうもおかしい、どこかでやられているとはわかっていた。」(同上書 p.131)
ではなぜ日本共産党はこの時期にメンバー内でリンチ事件を繰り返していたのだろうか。
宮下氏の解説によると、昭和7年(1932)の10月に武装闘争のための拳銃と銃弾購入資金を
得るために起こした「赤色ギャング事件」以降大衆の支持を失い離反者が増え、さらに闘争の情報などが漏れて幹部が疑心暗鬼となり、犯人探しに躍起になったようだ。
この頃の日本共産党の状況を宮下氏はこう述べている。

「…銀行ギャング事件以後は、大量転向、スパイ除名処分といった、もうほとんど壊滅に近い状態のなかで、ひとにぎりの共産党と警察だけが対抗していました。共産党はいったいどこを向いて、何をやっているのだろう、という気がしたことは事実です。
とにかくわれわれの側の対策が効果をあげていくにしたがって、共産党のほうでは、おかしいぞ、おかしいぞというので、スパイ容疑で組織から活動家をどんどん処分してゆく。で、ほとんどなんにも動けない状態になっていったわけで、その果てがリンチ事件ですね。
スパイ容疑で除名される者のほとんどがスパイでもなんでもない。当時の『赤旗』に発表されたスパイの氏名や部署などを今日の冷静な目でみれば、いかになんでもそんなにスパイがいるはずないと、誰しも思うでしょうが、当時の党の疑心暗鬼は狂気じみていました。」(同上書 p.133)
Wikipediaに、小畑・大泉の両名がリンチを受けた翌日(昭和8年12月24日)に『赤旗』に掲載された、日本共産党が出した党声明が紹介されている。
「中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「極刑をもって断罪する」の意味するところは、リンチによる死刑ということのようだ。
また、生き残った大泉が監禁されているところを警察により救出された翌々日の昭和9年1月17日の『赤旗』には、「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載され、「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であったという。
ところが殺された小畑の方は、特高のスパイではなかったのだ。宮下氏はこう述べている。(Sは、スパイのこと)
「リンチ事件があったあと、わたしは労働係の訊ねたのですが、小畑はぜんぜんSなんかじゃないと言っていました。リンチ共産党事件当時では、わたしももうベテランの部類にはいっていたし、労働係が嘘を言うことはない。それに本人が殺されているのですから、事実を隠す必要もないわけです。
とにかく、労働係が小畑を当方の協力者として利用していた形跡はぜんぜんなく、わたしたちも彼をSにしたことはない。
スパイでもないのにスパイとして除名された共産党員や共青同盟員はいっぱいいるわけですが、小畑などは、スパイの濡れ衣を着せられたまま殺されて放置されているんだから、可哀そうですよ。
…
小畑に対するスパイという断定の根拠は、小畑が昭和6年(1931)年の夏、万世橋警察署に検挙されたさい、党員なのに40日の拘留で帰された、ということだけのようなんですね。これはまったく滑稽な話で、昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放しているんですよ。…
昭和7年の夏から秋にかけて、村上多喜雄が尹基協をスパイとして射殺したり、城南地区委員の平安名常孝がスパイ容疑で刺されたりしています。この尹基協も平安名も無実だったのを、共産党自身否定できないんじゃないでしょうか。そのほかにも表面に出なかったリンチ事件はかなりあったんじゃないかとおもいます。」(同上書 p.134-135)

このように、当時の日本共産党は無実の党員を何人もリンチにかけ、死亡者も出していたのであるが、日本共産党幹部をここまで疑心暗鬼にさせたのは、特高が日本共産党にスパイを送り込んだことによるのだ。
では、特高はいかにして日本共産党にスパイを送り込んだのか。宮下氏はこう書いている。
「わたしたちはS(スパイの頭文字)といっていたが、Sを養成して組織に送り込むという事はしていない。しかし活動していて一定の部署をもった者が没落する、あるいは転向する、それから検挙されて考えが変わった、というようなのが、Sになるんですね。
…
だいたい共産党や共産青年同盟が、前衛党としてガッチリした共産主義者ばかりを組織していれば、スパイというような問題は起こらない。すくなくともひじょうにすくないでしょう。ところが、党員や同盟員は、学生あるいは学生あがりのインテリが大部分だ、と。それで労働者をなるべく獲得したい、それを主要な部署に配置するようにせねばならない、という要請がつよい。で、労働者党員あるいは労働者は、労働者だからというので、ルーズに加入させてしまうというような傾向があったのでしょう。
…
そんなふうにして入ったもののなかには、共産主義運動を命がけでやるという心構えのない者もある。だから検挙されて取調べを受けると、誰彼に誘われてイヤと断れずに入っちゃった、ほんとうはやる気なんぞないんだ、などという。それくらいひどいのも、なかにはいるわけです。それから運動に入っていって失業してしまって、ずるずると、いった格好の者もいる。」(『特高の回想』p.108-109)
インテリは、スターリンは絶対正しくコミンテルンは無謬であるとの考えが固く特高のSには不向きで、Sになったのは主に労働者であったという。そして情報入手の際には金銭がからむことが多かったようだ。平均的には交通費の名目で10円から20円だったようだが、非合法の共産党員として活動している連中には生活をみてやらねばならず、月に100円以上渡していたという。
また、特高は情報を誰から入手したかが相手に分からないように重々配慮し、相手がSをやめてからも一切名前を明かすようなことをしなかったそうだ。
そのため、共産党側では、情報が漏れていることは分かってもどこから漏れているかがわからない。そこで、多くの党員をスパイ、挑発者として除名していくのだが、特高からすれば、スパイでも何でもない人間が処分されていたという。
宮下氏はこういう事例を述べている。
「『赤旗』でも、配布ルートのどこかで入手できたし、のちには印刷直後に入手できるようになりました。
だから、印刷局の大串雅美が西沢隆二らにリンチされたりした。あれは宮本や袴田の事件*のちょっと前じゃありませんか。大串が監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきてわかったのですが。しかし大串はスパイじゃありませんよ。われわれが簡単に『赤旗』を入手するし、つぎつぎに印刷所を手入れするしで、彼らがスパイ摘発をあせった、ということです。」(同上書 p.116)
*日本共産党スパイ査問事件のこと
このように当時の日本共産党はかなり多くのメンバーをリンチにかけているのである。そして、前回話題にした小林多喜二の事件もこのような時期に起こっているのだ。

日本共産党幹部からすれば、スパイ分子を組織から排除することが重要であることはもちろんだが、新たな特高のスパイが生まれないようにしなければならないことは言うまでもない。
そのためには、特高がとんでもなく怖ろしい場所であるとメンバーを洗脳することが不可欠であったはずだ。
そのことは、メンバーに特高を怖れていない場合のことを考えればわかる。特高が怖くないと認識されていたら、幹部からリンチを受けそうな気配を感じた場合に、実家などに逃げるよりも特高に逃げることが一番安全となってしまうだろう。それではこれから革命を起こそうとする組織の秘密が守りえない。
だから日本共産党幹部は特高の怖ろしい拷問シーンをプロレタリア作家に書かせたのだと思う。
宮下氏によると、プロレタリア作家らが書いた特高の拷問に関する記述には、特高に実在しない人物が出てきたり、宮下氏が担当していない人物の取調べで宮下氏の名前が出てきたり、特高では存在しなかった電気椅子が登場したりしているのだそうだ。
要するに、特高でとんでもない拷問が行なわれたというプロレタリア作家の記述の多くはフィクションであり、これらの文章がそのまま真実の記録であるかのように考えてこの時代を理解しようとする姿勢は誤りなのだと思う。
実際にひどいリンチを行なっていたのは日本共産党の幹部の方ではなかったか。
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『特高の回想』を著した宮下弘氏はこの事件の担当ではなかったが、当時の日本共産党では仲間をリンチにかける事件が結構多かったようだ。宮下氏はこんな事件のことを述べておられる。
「わたしが直接調べたリンチ事件は、小畑達夫のもとで党中央財政部員だった全協*出身の大沢武男がリンチされた事件です。
昭和8年(1933)暮の宮本・袴田たちによるリンチ査問のあと、翌年1月から2月にかけて、大沢はひどい目にあわされています。査問されても、頑強にスパイであることを否認するので、査問する側は党中央にお伺いをたてたら、スパイであるという印をつけて釈放しろ、と。それで、大沢の額に焼きごてをあて、硫酸を流し込んで、スパイの烙印をつけて釈放したんです。
同じころ査問された江東地区委員だった波多然のばあいも、やっぱり同じようにして烙印をつけられている。この大沢や波多然にたいするリンチを木島(日本共産党委員、江東地区責任者)らがやっています。
大沢がスパイ容疑で査問されているらしいという情報があって、内偵しているうちに、大沢のハウスキーパーをしていた女性の実家で女中をしていた女の口から、大沢の居場所を訊いた。そこは引っ越して空き家だったが、運送屋を調べたりして隠れ家を突きとめたら、真夏だというのに昼でも雨戸を閉めきりにしている。額に烙印をおされて、戸外に出られないで、部屋の中に閉じこもって、新聞の碁の欄を見ては一日じゅう碁盤に石を並べていた。それを逮捕したのです。」(『特高の回想』p.130-131)
*全協:日本労働組合全国協議会の略。昭和3年に左翼が再結集し発足。日本共産党の指導下にあった。

「日本共産党スパイ査問事件」でリンチに遭い、生き延びた大泉兼蔵は六本木の隠れ家に監禁されていた。大泉を援けたのも警官だった。宮下氏はこう述べている。
「あれは六本木署の巡査が通りかかったら、家の中でわめいているのが聞こえて、入ったら大泉が転がり出て来たんです。ピストルをもった木俣鈴子を突きとばすようにしてね。
大泉がどこかに監禁されていることはわかっていたけれども、どこかはわからない。どうもおかしい、どこかでやられているとはわかっていた。」(同上書 p.131)
ではなぜ日本共産党はこの時期にメンバー内でリンチ事件を繰り返していたのだろうか。
宮下氏の解説によると、昭和7年(1932)の10月に武装闘争のための拳銃と銃弾購入資金を
得るために起こした「赤色ギャング事件」以降大衆の支持を失い離反者が増え、さらに闘争の情報などが漏れて幹部が疑心暗鬼となり、犯人探しに躍起になったようだ。
この頃の日本共産党の状況を宮下氏はこう述べている。

「…銀行ギャング事件以後は、大量転向、スパイ除名処分といった、もうほとんど壊滅に近い状態のなかで、ひとにぎりの共産党と警察だけが対抗していました。共産党はいったいどこを向いて、何をやっているのだろう、という気がしたことは事実です。
とにかくわれわれの側の対策が効果をあげていくにしたがって、共産党のほうでは、おかしいぞ、おかしいぞというので、スパイ容疑で組織から活動家をどんどん処分してゆく。で、ほとんどなんにも動けない状態になっていったわけで、その果てがリンチ事件ですね。
スパイ容疑で除名される者のほとんどがスパイでもなんでもない。当時の『赤旗』に発表されたスパイの氏名や部署などを今日の冷静な目でみれば、いかになんでもそんなにスパイがいるはずないと、誰しも思うでしょうが、当時の党の疑心暗鬼は狂気じみていました。」(同上書 p.133)
Wikipediaに、小畑・大泉の両名がリンチを受けた翌日(昭和8年12月24日)に『赤旗』に掲載された、日本共産党が出した党声明が紹介されている。
「中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「極刑をもって断罪する」の意味するところは、リンチによる死刑ということのようだ。
また、生き残った大泉が監禁されているところを警察により救出された翌々日の昭和9年1月17日の『赤旗』には、「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載され、「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であったという。
ところが殺された小畑の方は、特高のスパイではなかったのだ。宮下氏はこう述べている。(Sは、スパイのこと)
「リンチ事件があったあと、わたしは労働係の訊ねたのですが、小畑はぜんぜんSなんかじゃないと言っていました。リンチ共産党事件当時では、わたしももうベテランの部類にはいっていたし、労働係が嘘を言うことはない。それに本人が殺されているのですから、事実を隠す必要もないわけです。
とにかく、労働係が小畑を当方の協力者として利用していた形跡はぜんぜんなく、わたしたちも彼をSにしたことはない。
スパイでもないのにスパイとして除名された共産党員や共青同盟員はいっぱいいるわけですが、小畑などは、スパイの濡れ衣を着せられたまま殺されて放置されているんだから、可哀そうですよ。
…
小畑に対するスパイという断定の根拠は、小畑が昭和6年(1931)年の夏、万世橋警察署に検挙されたさい、党員なのに40日の拘留で帰された、ということだけのようなんですね。これはまったく滑稽な話で、昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放しているんですよ。…
昭和7年の夏から秋にかけて、村上多喜雄が尹基協をスパイとして射殺したり、城南地区委員の平安名常孝がスパイ容疑で刺されたりしています。この尹基協も平安名も無実だったのを、共産党自身否定できないんじゃないでしょうか。そのほかにも表面に出なかったリンチ事件はかなりあったんじゃないかとおもいます。」(同上書 p.134-135)

このように、当時の日本共産党は無実の党員を何人もリンチにかけ、死亡者も出していたのであるが、日本共産党幹部をここまで疑心暗鬼にさせたのは、特高が日本共産党にスパイを送り込んだことによるのだ。
では、特高はいかにして日本共産党にスパイを送り込んだのか。宮下氏はこう書いている。
「わたしたちはS(スパイの頭文字)といっていたが、Sを養成して組織に送り込むという事はしていない。しかし活動していて一定の部署をもった者が没落する、あるいは転向する、それから検挙されて考えが変わった、というようなのが、Sになるんですね。
…
だいたい共産党や共産青年同盟が、前衛党としてガッチリした共産主義者ばかりを組織していれば、スパイというような問題は起こらない。すくなくともひじょうにすくないでしょう。ところが、党員や同盟員は、学生あるいは学生あがりのインテリが大部分だ、と。それで労働者をなるべく獲得したい、それを主要な部署に配置するようにせねばならない、という要請がつよい。で、労働者党員あるいは労働者は、労働者だからというので、ルーズに加入させてしまうというような傾向があったのでしょう。
…
そんなふうにして入ったもののなかには、共産主義運動を命がけでやるという心構えのない者もある。だから検挙されて取調べを受けると、誰彼に誘われてイヤと断れずに入っちゃった、ほんとうはやる気なんぞないんだ、などという。それくらいひどいのも、なかにはいるわけです。それから運動に入っていって失業してしまって、ずるずると、いった格好の者もいる。」(『特高の回想』p.108-109)
インテリは、スターリンは絶対正しくコミンテルンは無謬であるとの考えが固く特高のSには不向きで、Sになったのは主に労働者であったという。そして情報入手の際には金銭がからむことが多かったようだ。平均的には交通費の名目で10円から20円だったようだが、非合法の共産党員として活動している連中には生活をみてやらねばならず、月に100円以上渡していたという。
また、特高は情報を誰から入手したかが相手に分からないように重々配慮し、相手がSをやめてからも一切名前を明かすようなことをしなかったそうだ。
そのため、共産党側では、情報が漏れていることは分かってもどこから漏れているかがわからない。そこで、多くの党員をスパイ、挑発者として除名していくのだが、特高からすれば、スパイでも何でもない人間が処分されていたという。
宮下氏はこういう事例を述べている。
「『赤旗』でも、配布ルートのどこかで入手できたし、のちには印刷直後に入手できるようになりました。
だから、印刷局の大串雅美が西沢隆二らにリンチされたりした。あれは宮本や袴田の事件*のちょっと前じゃありませんか。大串が監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきてわかったのですが。しかし大串はスパイじゃありませんよ。われわれが簡単に『赤旗』を入手するし、つぎつぎに印刷所を手入れするしで、彼らがスパイ摘発をあせった、ということです。」(同上書 p.116)
*日本共産党スパイ査問事件のこと
このように当時の日本共産党はかなり多くのメンバーをリンチにかけているのである。そして、前回話題にした小林多喜二の事件もこのような時期に起こっているのだ。

日本共産党幹部からすれば、スパイ分子を組織から排除することが重要であることはもちろんだが、新たな特高のスパイが生まれないようにしなければならないことは言うまでもない。
そのためには、特高がとんでもなく怖ろしい場所であるとメンバーを洗脳することが不可欠であったはずだ。
そのことは、メンバーに特高を怖れていない場合のことを考えればわかる。特高が怖くないと認識されていたら、幹部からリンチを受けそうな気配を感じた場合に、実家などに逃げるよりも特高に逃げることが一番安全となってしまうだろう。それではこれから革命を起こそうとする組織の秘密が守りえない。
だから日本共産党幹部は特高の怖ろしい拷問シーンをプロレタリア作家に書かせたのだと思う。
宮下氏によると、プロレタリア作家らが書いた特高の拷問に関する記述には、特高に実在しない人物が出てきたり、宮下氏が担当していない人物の取調べで宮下氏の名前が出てきたり、特高では存在しなかった電気椅子が登場したりしているのだそうだ。
要するに、特高でとんでもない拷問が行なわれたというプロレタリア作家の記述の多くはフィクションであり、これらの文章がそのまま真実の記録であるかのように考えてこの時代を理解しようとする姿勢は誤りなのだと思う。
実際にひどいリンチを行なっていたのは日本共産党の幹部の方ではなかったか。
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