紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて
養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。
名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313座が記されておりWikipediaにそのリストが出ていて、但馬国に「夜夫坐神社」の名を見つけることが出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E7%A4%BE

養父神社の歴史はかなり古く、『正倉院文書』の天平9年(737)但馬国正税帳に名前が出ているのでそれよりも古いことはわかっているのだが、いつごろ創られた神社なのか。
社伝によると第10代天皇である崇神天皇13年の創祀とあるのだが、崇神天皇は学術上、3世紀から4世紀の初めにかけて実在していた可能性が高い天皇であると言われており、神武天皇と同一人物ではないかという説が有力なのだそうだ。社伝が正しいとすれば1700年近い歴史がある神社ということになる。
一方、養父神社から近い養父町大藪には兵庫県下でも代表的な禁裡塚古墳など4基の巨大横穴式石室古墳と、多数の小規模古墳(大藪古墳群)が群在している。考古学の調査から、本古墳群は6世紀後半に築造が開始され、7世紀半ばまでに築かれたものであることが分かっているという。そのことから、6世紀後半以降に養父地域で養父氏(但馬氏)が夜夫坐神を祀り、大藪古墳群を残したという説もある。その説だとこの神社の歴史は1500年近いということになる。ネットで「但馬歴史文化研究書」の「但馬古代の地名」という論文が公開されている。
http://rekibuntajima.web.fc2.com/PDF/chimei.pdf

古い社寺には紅葉の美しいところが多いのだが、この養父神社も但馬地方では紅葉の名所として有名な場所だ。訪れた日はちょうど「やぶ紅葉まつり」の期間中であったが、うまい具合に駐車場が空いて、待ち時間なく楽しむことができた。

朱塗りの橋と本殿の近くに枝ぶりが良く色鮮やかな楓の木が数多くあって、素晴らしい紅葉を見ることが出来た。
何枚か写真を撮ったが、観光客が多いとシャッターを押すタイミングがなかなか難しい。
下から紅葉と橋を狙ったほうがいい写真が撮れたかもしれない。

先ほど養父神社の近くに古墳が多いことを書いたが、いろいろ調べると兵庫県は日本で一番古墳が多い県なのだそうだ。しかも但馬地方にかなり集中している。

養父神社よりももう少し南の朝来市和田山町には5世紀前葉に築造された近畿地方最大規模の円墳である「茶すり山古墳」(直径90メートル)があり、また5世紀半ばに築造された兵庫県下で4番目に大きい池田古墳(全長170メートル)などがある。かつて但馬地方に強い政治勢力が存在したことは確実なのだ。
ではこれらの古墳を築造した政治勢力とはどのようなものであったのか。

翌日立ち寄った道の駅『但馬のまほろば』の敷地内にある『古代あさご館(朝来市埋蔵文化財センター)』の解説では、3世紀後半に但馬地区で、大和の大王と手を結んで力をつけた「但馬王」が誕生し、武力を背景に但馬地域を治めたのだが、大和朝廷は但馬王の影響力を削ぐために、但馬王の下の豪族とのつながりを強めて、武器を送り、寺院を築かせていったという趣旨のことが書かれていた。
ひょっとすると但馬王と何らかの関係があるのではないかと気になっているのが、『日本書紀』巻第六に記されている、垂仁天皇の時代に新羅の王子が但馬の地に移り住んだ天日槍(あめのひほこ)の話。『古事記』『播磨国風土記』などにも天日槍の記述があり、新羅の王子が渡来して、一族郎党とともにこの但馬に移り住んだというようなことが、実際にあったのではなかったか。
『日本書紀』の該当部分の翻訳文を紹介しておこう。
「(垂仁天皇)三年春三月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)がきた。持ってきたのは、羽太の玉一つ・足高の玉一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ(赤く輝く石の玉の意か)・出石の小刀一つ・出石の鉾一つ(出石は但馬の国)・日鏡一つ・熊の神籬一具(ひもろぎひとそなえ)、合わせて七点あった。それを但馬の国におさめて神宝とした。
一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国に来て宍粟邑(しそうむら)にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)とを遣わして、天日槍に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古(ちこ)に授けてやってきました』という。そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠…(略)…合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい』といわれた。天日槍は申し上げるのに『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるのなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許しがあった。そこで天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑(あなむら)に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居所を定めた。…天日槍は但馬国の出石の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ。」(講談社学術文庫『全現代語訳日本書紀(上)p.137-138』)
面白いことに、天日槍が一時住んだ近江国も若狭国もまた但馬国も鉄の産地なのだという。
http://www6.ocn.ne.jp/~kiyond/hiboko.html
また、但馬国一の宮である出石神社の主祭神がこの天日槍で、養父神社の祭神の五座のうちの一つが大己貴命すなわち「オオクニヌシノミコト」だという。
そして『播磨国風土記』では天日槍命は、オオクニヌシノミコトと土地を奪い合った神として描かれているというのが面白い。
http://koujiyama.at.webry.info/201007/article_17.html
養父神社の鮮やかな紅葉を見た後は、宿泊先の香住に向かう。
民宿の近くに帝釈寺(たいしゃくじ)という古そうな寺院があったので立ち寄ってみると、案内を読んで、ここにも聖徳太子が出てくるのに驚いた。案内板にはこう書かれていた。

「この寺の、本尊帝釈天は聖徳太子が自らお刻みになった尊像ですが、仏教排斥派により難波の海(大阪湾)に投げ込まれたものが白鳳4年(676)年に下浜枕ノ崎に漂着しました。地元の漁夫が救いあげ一堂を建立して安置して信仰をしました。午歳(うまのとし)のみに(12年目)開扉される秘仏として伝えられています。
その後、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人がこの地に来られ、自ら一刀三礼の厄除聖観音菩薩像(国指定重要文化財)をお刻みになり帝釈天の脇仏としてお祀りになり一大道場を建立されたのがこの寺の創建とされています。室町初期には七堂伽藍を完備し一山寺院三十三坊を有する名刹となり隆盛をきわめたといわれています。…」
そもそも大阪湾に捨てられた仏像が日本海に漂着するはずがないし、捨てられた仏像をみて聖徳太子の制作によるものだと判断できるはずがないのだが、そういう伝承を残しながらも価値ある仏像を護持してきた歴史のある寺がこの香住にあるということに非常に興味を持った。
拝観には事前の予約が必要なので中に入ることは諦めたが、香美町のホームページに国重文の木造聖観音立像の写真と、県重文の木造帝釈天倚像の写真がでている。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264032293716/index.html
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1264036103392/index.html
香美町教育委員会の解説によれば国重文の木造聖観音立像は平安時代のものとされており、大宝2年(702)に法相宗の開祖道照上人が刻んだ伝承も実際は怪しいのだが、こんなに古くて貴重な仏像がこの寺に残されていることには驚かざるを得ない。
またこの寺院の庭園は香美町の指定文化財で、江戸時代初期の枯山水の名庭なのだそうだ。
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1267663758384/index.html
さらに帝釈寺には、文書にも貴重なものが残されている。
弘安8年(1285) 但馬国守護太田政頼は、蒙古襲来直後の軍事的目的で幕府に報告するために『但馬国大田文(おおたぶみ)』を帝釈寺の僧侶尊阿(そんあ)に書かせたのだそうだ。
帝釈寺にその写本が残っていてそこには13世紀ごろの但馬を知る貴重な史料になっているという。

このような貴重な文化財が、わが国の中心地から離れた香住のお寺に残されているのは意外であった。
翻って今のわが国で、千年以上たってその価値が評価されるような建物や芸術品をどれだけ制作しているのか、と考えさせられてしまう。地方都市をドライブすると、コンクリートのバカでかい店舗と看板にうんざりさせられることが多い。
田園や古民家のある風景が破壊されて地域の魅力を台なしにするような開発を続けられては、古い社寺は残っても観光地としての魅力が失われていくばかりではないか。
ところで私は毎年この季節に紅葉を楽しんだあとで、解禁になった日本海のカニを食べることを楽しみにしている。
数年前に越前ガニを食べに行くつもりで有名なホテルに宿泊した時に、カニの産地を聞くとオホーツク海だと聞いてがっかりしたことがある。その時に、いくら都会人が地方の観光地を旅行しても、パックツアーでは地元の人々はほとんど潤わないことを直感した。
以前は大手旅行会社のバスツアーを良く申し込んでいたのだが、都会資本のホテルで宿泊し、ホテルの売店で買い物をし、観光地から随分離れたドライブインでみやげものをまとめ買いしてしまっては、観光地の地元の人々の収入になるものはわずかでしかないはずだ。
ホテルによっては重要な食材を地元で調達するとはかぎらないので、旅行者が払う旅行代金の大半は旅行業者やホテルが吸い上げて、純利益は地元の人々にではなく旅行会社やホテルの本社のある都市に蓄積されてしまうことになってしまう。
昔は、観光地の宿泊施設は施設の売店で多くの商品を置くことを控えていて、観光客は地元の土産物屋で多くの買い物をすることによって、その店で売る商品の生産・流通にかかわる地元の多くの人々が潤っていたのだが、今は多くの観光地で宿泊施設と地元との共存共栄の関係が崩れてしまっている。そもそも観光地の地元の人々が潤わずして、どうして観光地の歴史的文化や風土を守ることができようか。
そう考えるようになって、ここ数年の旅行は自分の車で好きな所を回り、なるべく地元の方が経営しておられるお店で食事や買い物をし、宿泊先も地元で獲れた海産物や農産物で調理する民宿や旅館などを事前に自分で探すことにしている。旅行する以上は、できるかぎり観光地の地元で頑張っているお店や企業にお金を払いたいからだ。

宿泊先は地元の民宿で、夕食はもちろん松葉カニのフルコース。地元で食べるカニは身がしまり、味噌がたくさん詰まっていて、都会で手に入るカニとは全然違う。カニは、漁場に近い場所で、地場のカニを食べるのが最高だ。
この日は、聖徳太子や恵便にゆかりのある寺院や養父神社などを巡り、また大好きなカニを腹いっぱい食べることが出来て大満足だった。
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