『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2
しばらく鳥居民氏の解説を引用する。

「ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた。つぎのくだりである。
『ソノ政府が侵略ノ野心ヲ二度ト抱カナイコトヲ世界ニ完全ニ納得サセルニイタッタ場合ニハ、現在ノ天皇家ノモトデ立憲君主制ヲ維持スルコトガデキルモノトスル』
これをつくったのは国務長官代行のジョゼフ・グルーと言われているが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官の部下が作成したのであり、スティムソンの案だった。グルーの考えそのものだったから、グルーは『われわれの案』だと言い、ジェームズ・フォレスタル海軍長官もその第12節後半の文章に賛成した。
陸軍省がつくり、国務省と海軍省の首脳が支持した対日宣言案がそのまま公表となれば、鈴木貫太郎首相から阿南惟幾陸相まで、だれひとり反対せず、その宣言を受け入れ、原爆投下前に日本は降伏することになる。
ところでハリー・トルーマン大統領の唯一の相談相手になっていたジェームズ・バーンズは、ソ連を脅かそうとして、どうあっても日本の都市に原爆を落とすつもりでいた。自分に代わって、第12節の後半を削ってくれる人物を探した。ポツダムへ向う前日、かれは元国務長官のコーデル・ハルにその宣言案を送り、第12節の是非を問うた。…ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆の製造を知らなかった。もちろん、投下の計画を知るはずはなく、アメリカが直面する国際情勢にも無知だった。第12節後半を削除し、ソ連の対日参戦を待つべきだと元国務長官は新国務長官バーンズに打電した。
バーンズは自分の手を汚すことなく、原爆投下のお膳立てをつくったのである。」(文春文庫『日本よ、「歴史力」を磨け』p.232-233)

少し補足すると、ジェームズ・バーンズは1945年7月3日に米国国務長官に就任した人物で対日強硬派であった。そして着任早々の7月6日に国務省はスティムソン案のさらなる改定を要求し、7月7日の幹部会で紛糾したのちに、バーンズが元国務長官のコーデル・ハルに相談したようである。
では、元国務長官のハルがバーンズに対し、第12節後半を削除しソ連の対日参戦を待つべきだと打電した意図は何だったのか。
もし日本に立憲君主制の継続を容認するような和平勧告を出せば日本は受諾して戦争が終わってしまう可能性が高かった。それでは都合が悪いとバーンズが考えたのでハルに相談したのだろうが、ハルの回答に少なからず違和感を覚えるのは私だけだろうか。なぜハルは、原爆開発の情報を入手したにもかかわらず「ソ連の対日参戦を待つべきだ」と答えたのか。
1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束していた。そしてドイツは5月8日に降伏した。したがって、ソ連は8月上旬には参戦するものと考えられていたが、その具体的日程についてはソ連からはまだ回答がなかった。
一方アメリカは、7月上旬には原子爆弾をほぼ完成させており、実験に成功すれば太平洋戦争にアメリカが単独で勝利できる可能性が一気に高まることは言うまでもない。もし原爆実験が成功した後にソ連を参戦させてしまうと、ソ連を戦勝国の仲間に入れるということであり、アメリカはほとんど血を流さなかったソ連にも勝利の配当を分け与えなければならないことになってしまう。
アメリカが原爆開発を急いだ理由や、広島・長崎に相次いで原爆を落とした理由は、ソ連に漁夫の利を得させないという米国の強い意志の表れではないのか。

ところでコーデル・ハルといえば、彼が国務長官であった1941年11月に日米交渉において「ハル・ノート」を提示し、それが日本側の外交交渉断念を招いて開戦のきっかけを作ったことで知られている人物だ。そして、「ハル・ノート」を起草したのは、財務次官であったハリー・ホワイトで、この人物がコミンテルンのスパイであったことが、戦後に解読されたソ連の暗号文書(「ヴェノナ文書」)で判明している。
ルーズベルト、トルーマン政権下のアメリカの国務省には多数の共産主義者が勤務していたことも「ヴェノナ文書」で明らかになっているが、バーンズ国務長官がハルに相談した内容の多くはソ連に筒抜けだったのではないか。当時、原爆がほとんど完成していたという情報はアメリカにとっては重要機密であったはずなのだが、このような情報がポツダム会談の直前に、ハルに近い人物を通じてソ連に流れた可能性を感じている。

というのは、7月17日からドイツベルリン郊外のポツダムで米英ソ3か国の首脳が集まってポツダム会談の、会議の始まる直前にスターリンはトルーマンに8月15日頃の対日参戦の意を伝えているからだ。
トルーマンはこれで日本に勝利できると喜んだそうが、その翌日に原爆実験 (トリニティ実験) 成功の知らせを受け、それ以降のトルーマンは会議で豹変したという。
ポツダム会談について詳述されている山下祐志氏の論文の一部を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1386988410&cp=

「…『原爆実験成功』の報告を受けたトルーマン大統領は、瞬時にして完全に連合国の支配者になった。チャーチル首相の見たトルーマン大統領は『別人のようになり』、『ロシア人に対し、かれらが、どこで乗り、どこで降りるかを指示するように話だしたし、全体として会議そのものを支配した』という。なぜならば、ポツダムにおいて、『つねに自己の利益ばかりを強引に計る冷酷な駆け引き人』という印象をスターリン首相に対して抱いた大統領は、『ロシアを日本管理にいささかも加わらせまいと決意した』からである。さて、かかる決意を固めた米首脳部にとって、残された課題は、日本の早期降伏(できればソ連参戦以前に)を誘導することであり、手段として原爆使用と対日声明発出のタイミングが論議の対象となった。
スティムソン陸軍長官は、日本の和平の動き(対ソ工作)を見て、先ずこの会談で直に対日声明を発することを決意した。日本がソ連の懐に飛び込むことを嫌ったからである。そして、それでも日本が受諾しない場合には、『新兵器』の行使と『ロシア実際の参戦』を背景に、いっそう強力な警告を再度発することを提言した。一方、バーンズ国務長官は、原爆の威力を誇示した上で対ソ外交を展開しようと考えており、声明の発出を時期尚早としてこれに反対した。そこでトルーマン大統領は、JCS(統合参謀本部)の意見を求めた。リーヒJCS議長は18日、対日声明の即時発出に賛意を表しつつ、ただ『立憲君主制』のくだりは、抽象的に『日本国民は自らの政治形態を選択する自由をあたえられる』と改めることをもとめ、この点で先の国務長官の見解を支持した。陸軍長官は20日、この修正に同意するとのメモを大統領に送るが、同時に、7月2日付草案第2項の『日本の無条件降伏まで』を、『日本が抵抗をやめるまで』と改めることを申し出た。これにより、国家の無条件降伏を示す箇所は消え、13項の「全軍隊」のそれのみが文面にのこることになった。」(『アジア太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』p.16)
それから7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。
かくして『ポツダム宣言』は、ソ連側に何の口を差し挟むことが出来ないうちに、7月26日、突如として全世界に向けて発信されたのである。
ところでトルーマンの7月25日付の日記には「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書かれているそうだ。トルーマンの頭の中では、天皇制に関する条項を削除したことにより、日本はこの『ポツダム宣言』に反応せず、それによって原爆を落とすことが出来ると考えていたことになる。
次に『ポツダム宣言』に対するわが国の反応を見てみよう。

これについてはWikipediaに詳細に書かれているが、この宣言の発表を受けてわが国政府は、その内容について公式報道はしても内容についての公式な言及をしないということが閣議決定され、7月27日に宣言の存在を公表した。翌日の新聞報道では読売新聞では「笑止、対日降伏条件」という見出しだが、このように主要各紙はこの宣言を黙殺して断固戦争完遂に邁進するのみといった論調だったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80
しかしながら政府がこの宣言に対し何も言及しないのでは兵士の士気にかかわるとの軍部の圧力に押され、7月28日に鈴木首相は新聞記者団との会見において、閣議決定を無視して「政府としては何ら重大な価値あるとは考えない、ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである」と答えてしまう。この発言が連合国においては日本側の拒絶回答と解釈されて、原爆投下やソ連参戦の口実を与えてしまうことになるのだ。
ではなぜわが国は、『ポツダム宣言』に対して公式な言及をしないことを閣議決定したのだろうか。
この理由は、この期に及んでもわが国政府は、ソ連に和平の仲介を期待しその回答を待っていたからだというのだ。
ポツダム会談が開かれる少し前の6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を行うよう政府首脳に要請し、7月12日に近衛文麿が正式に特使に任命され、外務省から特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連に申し入れていたのだが、ソ連はヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかったようだ。
そもそも、米英ソ3国の首脳が集まって、ポツダム会談であのような宣言が出た段階でもソ連の回答に期待するというのは信じがたい話で、わが国の外交センスのなさと情報収集力の弱さは昔も今も変わらない。
もしわが国が早期に『ポツダム宣言』受諾を決意していれば、戦後の歴史は相当違ったものになっていたはずなのだが、原爆が投下されてからも、マスコミの動きも軍部の動きもどこかおかしいのだ。
山下祐志氏の別の論文で、『ポツダム宣言』を受諾するまでのわが国の動きが詳述されている。しばらく引用させていただく。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387097098&cp=
「ポツダム宣言発表以来、これといった策を打ち出せないまま、一途にソ連の回答を鶴首していたところ、8月6日午前8時過ぎ広島に原子爆弾が投下された。7日朝、米側ラジオはトルーマン大統領の声明として、『6日広島に投下した原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏しない限り、さらに他の場所にも投下する』と伝えてきた。しかし、わが国軍部は原爆の開発は技術的にまだ不可能と信じていたこともあり、敵の謀略宣伝かも知れぬと主張して発表を禁じた。原爆であることが確認された(8日夕刻)後にも、軍部は国民の反応を恐れ、事実を覆い隠そうと画策した。すなわち、公的に『原子爆弾』との発表は終戦までなく『新型の特殊爆弾』と銘打ったまま、トルーマン声明に『迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵気心をもつて防空対策を強化せねばならぬ』とか『新型爆弾決して怖るに足らず』と逆宣伝に躍起となった。

国民に事実を隠蔽したまま、いち早く8日午前、東郷外相は宮中地下室で天皇に原爆についての外国報道の詳細と『ポツダム宣言』を受諾するほかないとの判断を上奏した。天皇は『この種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々不可能となれるにより、有利なる条件を得んがために、戦争終結の時期を逸するは不可なり』、『成るべく速かに戦争の終末を見るよう努力せよ』と沙汰を下した。…
同日午後5時、モスクワの佐藤大使は、ポツダムから帰ったモロトフ外相とようやく会見を許された。モロトフ外相は、和平依頼の返答を求めに赴いた佐藤大使の発言を制して、わが国がポツダム宣言を拒否したために、ソ連政府は連合国の要請を受けて『明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する』と対日宣戦の布告文を読み上げた。原爆投下に対して、ソ連政府はわが国よりも機敏に対応し、予定よりも6日早い参戦であった。佐藤大使はただちに本省宛至急電を打ったが、それはソ連政府に妨害されて届かなかった。数時間後、ソ連極東軍は国境を越えて満州に侵入し、関東軍に襲い掛かった。ここに、ソ連に託した和平工作の一縷の希望は、ものの見事に吹き飛んだ。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)
では、ソ連が参戦してわが国は『ポツダム宣言』の受諾の意思をすぐに固めたかというと、そうでもなかったのである。アメリカと同様にわが国の中枢にも、ソ連に対日参戦させて日本の領土を奪わせようとした人物が少なからずいたと思われるのだ。
受諾に至るまでの経緯は、次回に記すことにする。
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