原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か~~ポツダム宣言3
前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。
この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。

もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかないという考え方はあり得ると考えるが、前々回の記事で記したとおり『ポツダム宣言』は戦争を終結させるための連合国側の条件を提示したものであり、その条件には曖昧な部分があるにせよわが国の立場を配慮した部分が少なからずあったのだ。
国民の生命と財産を守るべきわが国の指導者からすれば、これから先勝ち目のない戦争を継続して多くの国民に犠牲を強いるよりも、速やかに『ポツダム宣言』を受諾してその後の外交交渉に委ねる方がましだという結論に落ち着くのが自然だと思うのだ。
ところが、わが国中枢には徹底抗戦を唱える者がいて、簡単に議論がまとまらなかったのである。徹底抗戦を選択した場合は、『ポツダム宣言』を受諾するよりももっと悲惨な結果になったはずなのだが、いったいどのような議論があったのか気になるところである。
前回の記事に引き続き、山下祐二氏の論文を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387290927&cp=
「(8月)9日午前4時ごろ、モスクワ放送は突如対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオと同盟通信がこれをキャッチした。午前5時、迫水書記官長がこの報をもって鈴木首相のもとに駆けつけた。和平のタイミングを待ち受けていた首相は、『いよいよ来るものが来た』と静かにつぶやいた。同じく近衛公は、ソ連の参戦を『まさに天佑であるかも知れん』と語っている。…
構成員のみによる最高戦争指導会議が9日午前11時近くに始まった。鈴木首相は、原爆投下とソ連の参戦によって『ポツダム宣言』を受諾するほかなくなったと思われるが、意見を聞きたい、と切り出した。重苦しい空気の中で、さすがに誰一人『ポツダム宣言』受諾に対し、全面的に反対する者はいなかった。東郷外相は国体護持のみを条件として受諾することを説き、米内海相がこれに賛同した。阿南陸相と梅津参謀総長は国体護持の他に、①戦争犯罪人の処罰に関しては日本側代表をも裁判に加えること、②武装解除は日本側で自発的に行うこと、③占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲で小兵力で短時日に制限すること、の三条件を加えるように主張し、豊田軍令部総長がそれに賛同した。その直後に、今度は長崎に原爆が投下されたとの知らせが入った。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

少し補足すると、最高戦争指導会議のメンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の6人である。
長崎に原爆が投下された情報があった後、午後から臨時閣議が深夜まで行なわれ、席上で阿南陸相は原爆にひるむことなく、『死中活を求むる戦法』を主張し、米内海相が「一か八かとにかく戦ひつづけるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである」と述べたという。
明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としていたので話は平行線のままで進まず、鈴木首相は決定の遅延と内閣総辞職の双方を回避するため、御前会議を開催して天皇の聖断を仰ぐことを決意した。
この日の午後11時50分、宮中の防空壕内の一室で、天皇陛下御臨席のもとで最高戦争指導会議が開催され、この会議で天皇陛下は「外務大臣の意見に賛成である」と裁断を下され、その理由をこう述べられた。

「従来勝利獲得の自信ありと聞いて居るが、今迄計画と実行が一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば九十九里浜の築城が8月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上がって居ない。又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないとのことだ。之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし。
朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の御決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである。」(同上論文 p.5)
この御前会議のあと、翌8月10日午前3時からの首相官邸における閣議決定により、「御聖断」を正式の政府決定にする手続きがなされ、外務省から「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答が海外に発信されている。
そして、この日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民に対しどう公表すべきかが議論され、ポツダム宣言の受諾については天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしい。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている。この全文は次のURLに出ている。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/ussr.html
「全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。
假令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、 時宗の『莫煩悩』、『驀進進前』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。
昭和20年8月10日 陸軍大臣」
なぜ天皇陛下の御聖断が出て『ポツダム宣言』受諾が決まったことをすぐに公表させず、陛下の詔勅が出るまで公表を先延ばしにすることにしたのだろうか。
軍隊を指揮監督する最高の権限をもつ天皇陛下の御聖断が出たというのに、なぜ軍の幹部はそれに従おうとしなかったのだろうか。
戦争を継続すれば更なる原爆投下が予想され、ソ連の侵攻が始まったというのに充分な武器・弾薬があるわけではなかった。戦争を継続してどうやって国民を護り、国土を防衛することが出来るのか。いくつも疑問点が湧いてくる。
米内海相の言う通り「冷静に合理的に判断」すれば、すぐにでも『ポツダム宣言』を受諾すべきなのだが、阿南陸相らが徹底抗戦を主張したその裏には、軍の上層部にソ連の力を借りてわが国の共産主義化を成し遂げようとした人物が少なからずいた可能性を感じるのは私だけではないだろう。

阿南陸相の本心は終戦にあったのだが、陸相としては立場上徹底抗戦を主張せざるを得なかったとも言われている。また阿南自身が終戦を唱えれば暗殺されて後任の大臣が出ず内閣が総辞職し終戦が実現しない可能性があったという説もあるようだが、詳しいことはわからない。
http://ufononatu.blog10.fc2.com/?m&no=139
ところで、今年8月11日付の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出たことをこのブログで紹介したことがあった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html
この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、当時わが国の中枢部分(軍の上層部を含む)に共産主義者が多くいて、彼らがこの時期のわが国の主導権を握っていたことを窺わせるものである。なぜ軍部に共産主義者が多かったのかについては、次回に詳しく記したいと思う。
話を『ポツダム宣言』の話に戻そう。
国体護持を前提として『ポツダム宣言』を受諾するというわが国の回答に対して、連合国側はどう反応したのだろうか。
アメリカはわが国の回答を不満とする意見もあり、バーンズ国務長官が起草したとされる正式回答書(「バーンズ回答文」)には、
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
とあり、真正面からの回答を避けたものであった。
(「バーンズ回答文」の外務省訳文の全文は先ほど紹介した山下祐二氏論文のp.6に出ているので興味のある方は参照願いたい。)
この連合国側の回答文で納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張したが、8月13日午後4時のから始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となる。
鈴木首相がこの閣議で最後に述べた言葉は、誰が読んでも正論だろうと思う。

「…最後に問題は国体護持の上より危険を感じているが、さればとて今どこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが大御心はこの際和平停戦せよとの事である。もしこのまま戦えば背水の陣を張っても原子爆弾のできた今日、あまりにも手おくれである。それでは国体護持は絶対にできませぬ。いかにも一縷の望はあるかも知れませぬ。死中に活もあろう。全く絶望ではなかろうが、国体護持の上から見てそれはあまりに危険なりといわねばならぬ。万民のために赤子をいたわる広大なる思召を拝察しなければならぬ。
臣下の忠誠を致す側より見れば、戦抜くという事も考えられるが、自分達の心持だけで満足できても日本の国はどうなるか誠に危険千万である。かかる危険をも御承知にて聖断を下されたからは、我等はその下に御奉公する外に道なしと信ずる。従って私はこの意味に於て本字の閣議の有りのままを申し上げ重ねてご聖断を仰ぎ奉る所存であります。」(同論文 p.7)
事態は切迫していた。アメリカのマスコミはわが国の回答遅延を責め、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布したという。先に述べたとおり、この段階においてはわが国が連合国と『ポツダム宣言』受諾に関する交渉をしている事実は一般国民には知らされておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。
8月14日午前10時50分ごろ、急遽御前会議が開かれ、ここで述べられた天皇陛下のお言葉が素晴らしいのだ。

「…私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。」(同論文 p.8)

このお言葉のあと、参加者全員がすすり泣いたと伝えられているが、昭和天皇がこの時に、会議の列席者それぞれの心にしみるようなわかりやすいお言葉でわが国の将来のために適切な判断を下されたことが、8月15日の終戦につながったことは言うまでもない。
侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれているそうだ。そこで陛下は、このように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる自信がある。」
(つづく)
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この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。

もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかないという考え方はあり得ると考えるが、前々回の記事で記したとおり『ポツダム宣言』は戦争を終結させるための連合国側の条件を提示したものであり、その条件には曖昧な部分があるにせよわが国の立場を配慮した部分が少なからずあったのだ。
国民の生命と財産を守るべきわが国の指導者からすれば、これから先勝ち目のない戦争を継続して多くの国民に犠牲を強いるよりも、速やかに『ポツダム宣言』を受諾してその後の外交交渉に委ねる方がましだという結論に落ち着くのが自然だと思うのだ。
ところが、わが国中枢には徹底抗戦を唱える者がいて、簡単に議論がまとまらなかったのである。徹底抗戦を選択した場合は、『ポツダム宣言』を受諾するよりももっと悲惨な結果になったはずなのだが、いったいどのような議論があったのか気になるところである。
前回の記事に引き続き、山下祐二氏の論文を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387290927&cp=
「(8月)9日午前4時ごろ、モスクワ放送は突如対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオと同盟通信がこれをキャッチした。午前5時、迫水書記官長がこの報をもって鈴木首相のもとに駆けつけた。和平のタイミングを待ち受けていた首相は、『いよいよ来るものが来た』と静かにつぶやいた。同じく近衛公は、ソ連の参戦を『まさに天佑であるかも知れん』と語っている。…
構成員のみによる最高戦争指導会議が9日午前11時近くに始まった。鈴木首相は、原爆投下とソ連の参戦によって『ポツダム宣言』を受諾するほかなくなったと思われるが、意見を聞きたい、と切り出した。重苦しい空気の中で、さすがに誰一人『ポツダム宣言』受諾に対し、全面的に反対する者はいなかった。東郷外相は国体護持のみを条件として受諾することを説き、米内海相がこれに賛同した。阿南陸相と梅津参謀総長は国体護持の他に、①戦争犯罪人の処罰に関しては日本側代表をも裁判に加えること、②武装解除は日本側で自発的に行うこと、③占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲で小兵力で短時日に制限すること、の三条件を加えるように主張し、豊田軍令部総長がそれに賛同した。その直後に、今度は長崎に原爆が投下されたとの知らせが入った。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

少し補足すると、最高戦争指導会議のメンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の6人である。
長崎に原爆が投下された情報があった後、午後から臨時閣議が深夜まで行なわれ、席上で阿南陸相は原爆にひるむことなく、『死中活を求むる戦法』を主張し、米内海相が「一か八かとにかく戦ひつづけるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである」と述べたという。
明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としていたので話は平行線のままで進まず、鈴木首相は決定の遅延と内閣総辞職の双方を回避するため、御前会議を開催して天皇の聖断を仰ぐことを決意した。
この日の午後11時50分、宮中の防空壕内の一室で、天皇陛下御臨席のもとで最高戦争指導会議が開催され、この会議で天皇陛下は「外務大臣の意見に賛成である」と裁断を下され、その理由をこう述べられた。

「従来勝利獲得の自信ありと聞いて居るが、今迄計画と実行が一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば九十九里浜の築城が8月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上がって居ない。又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないとのことだ。之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし。
朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の御決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである。」(同上論文 p.5)
この御前会議のあと、翌8月10日午前3時からの首相官邸における閣議決定により、「御聖断」を正式の政府決定にする手続きがなされ、外務省から「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答が海外に発信されている。
そして、この日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民に対しどう公表すべきかが議論され、ポツダム宣言の受諾については天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしい。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている。この全文は次のURLに出ている。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/ussr.html
「全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。
假令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、 時宗の『莫煩悩』、『驀進進前』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。
昭和20年8月10日 陸軍大臣」
なぜ天皇陛下の御聖断が出て『ポツダム宣言』受諾が決まったことをすぐに公表させず、陛下の詔勅が出るまで公表を先延ばしにすることにしたのだろうか。
軍隊を指揮監督する最高の権限をもつ天皇陛下の御聖断が出たというのに、なぜ軍の幹部はそれに従おうとしなかったのだろうか。
戦争を継続すれば更なる原爆投下が予想され、ソ連の侵攻が始まったというのに充分な武器・弾薬があるわけではなかった。戦争を継続してどうやって国民を護り、国土を防衛することが出来るのか。いくつも疑問点が湧いてくる。
米内海相の言う通り「冷静に合理的に判断」すれば、すぐにでも『ポツダム宣言』を受諾すべきなのだが、阿南陸相らが徹底抗戦を主張したその裏には、軍の上層部にソ連の力を借りてわが国の共産主義化を成し遂げようとした人物が少なからずいた可能性を感じるのは私だけではないだろう。

阿南陸相の本心は終戦にあったのだが、陸相としては立場上徹底抗戦を主張せざるを得なかったとも言われている。また阿南自身が終戦を唱えれば暗殺されて後任の大臣が出ず内閣が総辞職し終戦が実現しない可能性があったという説もあるようだが、詳しいことはわからない。
http://ufononatu.blog10.fc2.com/?m&no=139
ところで、今年8月11日付の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出たことをこのブログで紹介したことがあった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html
この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、当時わが国の中枢部分(軍の上層部を含む)に共産主義者が多くいて、彼らがこの時期のわが国の主導権を握っていたことを窺わせるものである。なぜ軍部に共産主義者が多かったのかについては、次回に詳しく記したいと思う。
話を『ポツダム宣言』の話に戻そう。
国体護持を前提として『ポツダム宣言』を受諾するというわが国の回答に対して、連合国側はどう反応したのだろうか。
アメリカはわが国の回答を不満とする意見もあり、バーンズ国務長官が起草したとされる正式回答書(「バーンズ回答文」)には、
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
とあり、真正面からの回答を避けたものであった。
(「バーンズ回答文」の外務省訳文の全文は先ほど紹介した山下祐二氏論文のp.6に出ているので興味のある方は参照願いたい。)
この連合国側の回答文で納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張したが、8月13日午後4時のから始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となる。
鈴木首相がこの閣議で最後に述べた言葉は、誰が読んでも正論だろうと思う。

「…最後に問題は国体護持の上より危険を感じているが、さればとて今どこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが大御心はこの際和平停戦せよとの事である。もしこのまま戦えば背水の陣を張っても原子爆弾のできた今日、あまりにも手おくれである。それでは国体護持は絶対にできませぬ。いかにも一縷の望はあるかも知れませぬ。死中に活もあろう。全く絶望ではなかろうが、国体護持の上から見てそれはあまりに危険なりといわねばならぬ。万民のために赤子をいたわる広大なる思召を拝察しなければならぬ。
臣下の忠誠を致す側より見れば、戦抜くという事も考えられるが、自分達の心持だけで満足できても日本の国はどうなるか誠に危険千万である。かかる危険をも御承知にて聖断を下されたからは、我等はその下に御奉公する外に道なしと信ずる。従って私はこの意味に於て本字の閣議の有りのままを申し上げ重ねてご聖断を仰ぎ奉る所存であります。」(同論文 p.7)
事態は切迫していた。アメリカのマスコミはわが国の回答遅延を責め、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布したという。先に述べたとおり、この段階においてはわが国が連合国と『ポツダム宣言』受諾に関する交渉をしている事実は一般国民には知らされておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。
8月14日午前10時50分ごろ、急遽御前会議が開かれ、ここで述べられた天皇陛下のお言葉が素晴らしいのだ。

「…私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。」(同論文 p.8)

このお言葉のあと、参加者全員がすすり泣いたと伝えられているが、昭和天皇がこの時に、会議の列席者それぞれの心にしみるようなわかりやすいお言葉でわが国の将来のために適切な判断を下されたことが、8月15日の終戦につながったことは言うまでもない。
侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれているそうだ。そこで陛下は、このように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる自信がある。」
(つづく)
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