学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)
この考え方はレーニンが最初に考えた『敗戦革命論』と呼ばれるものだが、共産主義者に対して、「軍隊を内部から崩壊させ」「自国政府の敗北を助成」し、「戦争を通じて共産主義革命」を起こせ。そのために「進んで軍隊に入隊」せよと言っている。これだけでも恐ろしいことなのだが、さらにレーニンはこうも述べている。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』
『共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)
要するに、国家を内部崩壊させて革命を成功させるためにはその手段は問わないと言っているのだが、もしこのような考え方の者がわが国の軍隊に多数入隊して主導権を握っていたとしたら、どういうことが起こり得るであろうか。
なぜ昭和の初期にテロ事件が多かったのか、なぜ宣戦布告がないままに日中戦争が全面戦争に発展したか、なぜ昭和天皇の『ポツダム宣言』受諾の御聖断に対して軍部の一部が強く抵抗したのか。それらの謎を解く鍵のひとつは先程紹介したレーニンの『敗戦革命論』にあるのではないだろうか。
昭和40年代前半も学生の多くが共産主義思想に染まった時代だったのだが、火炎瓶や鉄パイプでは国家権力に勝てるわけがなく、簡単に鎮圧された。しかし、昭和初期の若い共産主義者は、軍隊に入れば本物の大量の武器・弾薬が目の前にあった。
もし昭和43年頃全共闘時代の学生たちが大量の爆弾や拳銃を手にしていたとしたら、大規模なテロ事件やクーデター事件が日本各地で起こっていてもおかしくはなかったと、この時代を知る人は思うに違いない。では、昭和7年(1932)の五・一五事件や昭和11年(1936)の二・二六事件は軍部の中の共産主義者が絡んだテロ事件という理解は出来ないのだろうか。
このブログで、昭和初期にマルクス・レーニンの著作がバカ売れして、共産主義思想に共鳴した青年が多数いたことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
例えば、マルクスの『資本論』だけでも大正8年(1919)から昭和3年(1928)にかけて6社(緑葉社、経済社出版部、大鐙閣、新潮社、岩波書店、改造社)が出版している。また昭和3年(1928)から昭和10年(1935)にかけて改造社から全27巻の『マルクス・エンゲルス全集』が出版され、昭和2年(1927)から翌年にかけて白揚社から24篇の『レーニン叢書』が出版されている。
こんなに多くの左翼思想の本が売れたという昭和初期はどんな時代だったのだろうか。 このブログで何度か紹介した『神戸大学デジタルアーカイブ』で、当時の経済記事や解説記事の検索を試みた。
新聞の過去記事については戦後のGHQの検閲や焚書の対象にはならなかったので、当時の論調がそのまま残されていて、その貴重な史料が次のURLで誰でもネットでアクセスすることができるのはありがたい。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
この「新聞記事文庫 簡易検索」を使ってたとえば「左傾」というキーワードで検索すると528件もの解説や記事にヒットする。

発行日順に並び替えて表題を読むだけでも、結構な情報を得ることが出来るが、この当時は学生や教員の左傾化が社会問題になっていて、政府や文部省がその対策に苦慮していたという記事がいくつもあるのに誰もが驚いてしまうだろう。
たとえば昭和7年(1932)1月15日の東京日日新聞の『学生の思想は何故左傾する』という記事がある。次のURLで記事の全文を読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070705&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

この記事では左傾化の原因について当時の社会情勢として
① 資本家と労働者との生活の甚しき懸隔及び農村の著しき疲弊
② 労働問題及び小作問題の激化
③ 中産階級の経済的顛落
④ 卒業後における就職の不安
⑤ 政界の腐敗
⑥ 政治並に政党に対する不満…などがあり、
このような現状を根本的に変革しようとしてマルクス・レーニンの著作に飛び付き、思想界、学会、教育界もその流れにあったことが記されている。

そして、この記事が掲載された翌月である昭和7年(1932)の2月から3月にかけて、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨が相次いで暗殺される血盟団事件が起こった。この血盟団のメンバーは大半が20代の学生だ。

ついで5月には海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸に向かい犬養首相を暗殺する五・一五事件が起きている。この五・一五事件の檄文を読めば、共産主義的考え方の影響をかなり受けていることがわかる。一部を引用すると、こんな具合だ。
「 … 国民諸君よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ!
祖国日本を守れ
而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
民衆よ!
此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」

『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄は昭和初期の状況をこう記している。
「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている。
…
青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
*五・一五事件の檄文
では、「彼らが肯定した天皇と国体」とはどのようなものであったのか。
竹山氏は一人の青年将校を知っていた。その青年将校は職業軍人ではなく教師であったと書いているが、つねにブルジョアを激しく攻撃していたという。そしてその人物が思い描いていた『天皇制』とは、「国民の総意に上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた」(同上書p.48)と竹山氏は記している。
竹山氏の表現を借りると、青年将校たちは「天皇によって『天皇制』を仆(たお)そうとした」、「革新派の軍人が考えていた『国体』は、『天皇制』とはあべこべのものだった」ということだが、別の言い方をすると、その青年将校は、『天皇制』は認めても「天皇」というポストに就くべき人物は昭和天皇ではなく、スターリンのような人物を考えていたということなのだ。
そのように考える青年将校がどの程度いたかについては、今となってはわからないが、先ほどの『神戸大学デジタルアーカイブ』で検索していくと、軍隊の中に共産主義が相当浸透していたことがわかる記事をいくつか見つけることが出来る。

たとえば、昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事だが「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070587&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

また、昭和3年9月24日から6回に分けて中外商業新報に連載された、「赤化運動の経緯」という記事では、
「今後も共産主義に感染した学生及び労農党に属する有識壮年等が赤化運動の首謀者となっている。…
ここに最も注意すべきは兵営の内外から連絡を保って陰謀を企てた兵卒が、第四師団の軍法会議に廻された事実である。大阪におけるある秘密結社の如きは、軍隊の赤化に最も力を尽し、その手段すこぶる巧妙、運動者の一人久木某の如きは、軍事教官という綽名さえ持っていたということだ。
これ等赤化運動者が、個人として若しくは団体とし、ソウェート・ロシアと密接な関係を持っていたことは、これまで発表された宣伝の様式や運動の方法などを見た丈けでも、明々白々であるがなおロシア側の情報に照らし合せこると、洵に思い半ばに過ぐるものがある。」 などと書かれている。

さらにこの記事を読み続けていくと、ソビエトの赤化工作は西欧では失敗したが、東洋の日本では急激に浸透していることを書いている。そして、ソ連共産党年鑑に載っている第三インターナショナル(コミンテルン)規約第三条が引用されている。
「欧米諸国における階級闘争は今や殆ど内乱の状態となり、ブルジョア国の法律は、共産党員に対し、厳刑を科するに至りたるを以て、本党員たる者は、今後各地一斉に秘密結社を組織し決定的時機の到来に際し、革命運動の成功を期する為め、普段の努力を怠るべからず」。
またその第四条には
「共産主義の宣伝は、極力軍隊に向って行うべし。特別の法律を以て宣伝を拘束する国においては、秘密手段に訴うべし。」
とあり、また5月24日付のソ連のプラウダ紙には、日本の共産主義者および陸海軍人に対し、「世界のブルジョア諸国は、支那に対する内政干渉より一転して領土侵略に移った。日本はその機先を制せんとして、早くも要害の地歩を占め、山東を満洲と同じくその植民地とする野心を暴露した。」
「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」
「日本の反革命的強盗に打撃を加うべき共産党機関現在なれ」などと煽動していることが書かれている。一部の軍人はソ連に繋がっていて、この規約の通りに動いていたのではなかったか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070971&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
このような記事は時間をかければ『神戸大学デジタルアーカイブ』でまだまだ見つかると思うのだが、いくら共産主義に共鳴する軍人が多くいたとしても、軍隊の幹部クラスが共産主義に毒されていなければ、クーデターのようなことは不可能だ。
しかし、いろいろ調べていくと軍のエリートにもソ連に繋がる者がいたようである。
その点については、次回に記すこととしたい。
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