政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
さすがに昭和初期には軍の幹部にそのような人物は少なかったかもしれないが、終戦の頃には共産主義者が日本軍の枢要な地位を獲得していたようなのだ。

以前このブログで紹介したが、昨年8月11日の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出た。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html
この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、産経新聞はこの記事の中で、こう解説している。

「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
「同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている。」
記事に出てくる松谷誠・陸軍大佐は、解説記事を読むだけで共産主義者であることが分かる。種村佐孝・陸軍大佐については後述するので、ここではこの人物は戦後に日本共産党に入党した人物であることだけを補足しておこう。
この記事に出てくる最高機密の電報がベルンから重慶に打たれた日付は1945年6月22日なのだが、この日にわが国でどのような出来事があったのか気になるところである。
この点についてはこの記事を書いた産経新聞編集委員の岡部伸氏が、『正論』平成25年10月号の「日本を赤化寸前まで追い込んだ『敗戦革命』工作」という論文に詳しく書かれている。次のURLに全文がある。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

「この電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。奇妙にもソ連仲介案が正式決定したその日に、ベルンから『共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている』と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から夏時間で7時間遅れの時差があることを差し引いても、国策が決まった直後に打電されていることには、アメリカの素早い情報のキャッチとともに驚くしかない。しかも中国は以前から『迷走』する日本の動きを正確に捉えていたのである。」
このように、わが国の最高戦争指導者会議における重要決定事項がその直後に中国に把握され、そのことを伝えた機密電文がアメリカに傍受され、英国にも伝えられているのである。わが国の機密が奪われていたのはゾルゲグループばかりではなかったのだ。当時のわが国は主要国に対してほとんど丸裸の状態になっていたと言って良い。
しかし、なぜソ連仲介和平案を国策として正式に決定したその日に、わが国の政権中枢が「共産主義に降伏している」と中国陸軍の武官が重慶に打電したのだろうか。そもそも、この機密電文の内容は信頼に値するものなのかとまず疑問に思うところだ。
大戦時に政府中枢の主導権を握っていたのは陸軍の統制派だと言われているが、岡部論文を読み進むとそのことを匂わせる文書が、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAの中にあり、その内容の紹介とともに解説がなされている。しばらく岡部論文を引用する。
「…ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日にベルリン駐在ポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンの亡命ポーランド政府に送った電報である。
『日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を護る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京-ベルリン-モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである』
軍部が、なお日独ソの連携に幻想を抱き、共産主義に共感を抱いているというのだ。アングロサクソンに対抗するためソ連と結合してアジアの利権を分け合うというのは実現性に乏しい白日夢だろう。ソ連はヤルタで対日参戦の密約を交わしている。ポーランド外交官が日本公使館員から聞いた情報として伝えているので、日本の外務当局が『軍部は共産主義に共感を抱き、ソ連に幻想を抱いている』と理解していたとも考えられる。中国の電報が指摘した日本政府の指導層とは、軍部とりわけ陸軍統制派であったに違いない。
ここまで来れば合点が行くことだろう。日本は早くからソ連が中立条約を破って参戦してくることを察知していた。1945年2月、クリミア半島ヤルタでソ連が対日参戦を正式に決めた密約を会談直後にストックホルムから陸軍武官、小野寺信少将が参謀本部に打電していた。さらに同3月に大島浩駐ドイツ大使が『ロシアが適当な時期に参戦する』と外務省に打電。5月以降は、ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らもソ連参戦を機密電報で報告している。6月22日の最高戦争指導会議でソ連仲介和平を決定する時点で、陸軍、海軍、外務省ともソ連参戦情報は掴んでいたのだ。にもかかわらずソ連が『最後は助けてくれる』『交渉で参戦阻止できる』と希望的観測を抱き、ソ連に擦り寄り、和平交渉を委ねたのである。この様な非論理的行動も、政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら理解出来よう。愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた『敗戦革命』工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。」

上記岡部論文のなかで、この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ねたことが記されている。その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書は、冒頭に紹介した産経新聞の記事に出てきた種村佐孝大佐が作成したものであったが、その内容は『ソ連の言いなりに従え』という、とんでもないものであった。再び岡野論文を引用する。
「陸軍は本土決戦準備と沖縄戦で奔走する中、22日午後、参謀本部の新任次長、河辺虎四郎中将は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に新任の東郷外相を訪問、対ソ仲介による和平工作を持ちかけ、渋る東郷を河辺は説得した。
『特使は大物中の大物・・・出来れば外相ご自身か近衛公・・・。大物が直接スターリンに会って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けませんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます」
しばらくして参謀本部から、東郷外相に4月29日作成の『今後の対『ソ』施策に対する意見』と『対ソ外交交渉要綱』がもたらされた。作成したのは参謀本部第二十班(戦争指導班)班長、種村佐孝大佐だった。対ソ和平の意見書は、『ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ』という主張に貫かれていた。全面的に対ソ依存して、日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよというのである。
対米戦争継続には『日ソ戦争を絶対に回避すべき』で、そのために、『ソ連側に確約せしむ条件は日「ソ」同盟なり』と主張、日本の対ソ交渉は『ソ連側の言い分を持ってこれに応ずるという態度』(ソ連の言いなりに従え)、ソ連が寝返ってソ連の干渉(仲介もしくは恫喝)で戦争終結が余儀なくされる場合には、『否応なしに仲介もしくは恫喝に従わざるをえない』と唱えた。ソ連に与える条件は、『ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる』前提で、『満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ』としている。
ソ連と日本列島との間にある北側の領土と日本の南側の台湾、沖縄までソ連に差し出せば、日本はソ連に包囲され、東欧が辿ったように共産政権によるソ連の衛星国になっただろう。沖縄まで献上するというのは、ヤルタ密約にさえない。
さらに『対ソ外交交渉要綱』は、『対米英戦争を完遂のため、ソ連と中国共産党に、すべてを引き渡せ』と述べている。米英の『世界侵略』の野望に対して、日・ソ・支三国が『善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄を図る』ため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、『乾坤一擲』を下せと進言している。支那との交渉相手は延安(共産党)政権として、同政権の拡大強化を計り、希望する地域から日本軍を撤退させ、必要ならば国民政府を解消せよとも主張。ソ連には、北支鉄道も満鉄も漁業条約も捨て、満州国も遼東半島も南樺太も割譲し南方占領地域の権益を譲渡せよと訴えていた。」
このような史料が教科書などに引用されていたら、終戦の少し前には参謀本部が共産主義者に主導権を握られていたことが誰でもわかる。
しかし、このような史実がもし国民に広く知られていてら、「日本だけが悪かった」という偏頗な歴史観が通用しなくなってしまうに決まっている。そうなっては困る勢力が国内外にいるからこそ、公教育やマスコミに圧力をかけて今も『自虐史観』を垂れ流し、日本人をいつまでも洗脳し続けようとするのだろう。
ソ連が参戦することが分かっていながら、『ポツダム宣言』が出た後もソ連の和平工作の回答を待ち続けようとしたわが国の不可解な動きは、ソ連軍にわが国土を存分に占領させるところまで戦争を終わらせたくなかった共産主義者たちが、この時期にわが国の主導権を握っていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのだ。
こういうことを書くと、「共産主義者が判明していると言っても、たった数名で主導権が握れるはずがない」などと考える人もいるだろう。
しかし、わが国の政治や外交に影響を与えるような参謀本部の重要なポストにこの様な人物が就いていたことは、その背後には相当数の共産主義者がいたと考えるのが自然だと思う。ほかにもソ連に忠誠を尽くそうとした幹部メンバーの固有名詞がわかっているのでついでに挙げておこう。
昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを有していたと証言したことがマスコミに報じられ、エージェントのうち元関東軍第三方面軍情報参謀・志位正二少佐と元参謀本部作戦課参謀・朝枝繁春中佐が警視庁に自首したという。志位正二少佐という人物は現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父だという。
ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言もしているようだ。
その11名のうち氏名が判明しているのは、志位、朝枝のほかには、帰国後総合商社伊藤忠商事の会長や中曽根康弘総理のブレーンを務めた瀬島龍三、先ほどの対ソ和平仲介工作で名前の出てきた種村佐孝がいる。種村は帰国後、日本共産党員となっている。

『一億玉砕』と本土決戦を国民に呼びかけたことも種村や松谷が作成した「終戦構想」にあるようなのだが、こういう史実を追っていくと、われわれには重要な真実が戦後の長きにわたって封印されてきたことを知らざるを得ない。真の戦争犯罪人はソ連のスターリンではなかったか。

第56-57代の内閣総理大臣を務めた岸信介は、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』の序文でこう記している。
「近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない。

何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼・左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当然、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制(筆者註:昭和25年)と酷似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる
…日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らねばならない。…」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.319-320)
わが国が国益を考えて何か新しい動きをしようとすると、必ずマスコミが「軍国主義の足音が聞こえる」などと言うフレーズを繰り返し国民を思考停止に陥れてきたのだが、史実に照らして日本人が真に警戒すべきものは、「軍国主義の足音」ではなく「共産主義の足音」であると言いかえるべきなのではないのだろうか。
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