『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
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しかしながら、わが国はこの御聖断によりすんなりと終戦に向かったのではなかったのだ。
今回は、昭和天皇の二度にわたる御聖断とその後の動きについて、寺崎英成ら昭和天皇の側近が昭和21年の3月から4月にかけて天皇から直々に聞きまとめたとされる記録(『昭和天皇独白録』)が残されているので、その文章を参照しながら、内閣や軍部の動きを2回に分けてまとめてみたい。

まず第1回目の御聖断の出た昭和20年8月9日の深夜の御前会議については、『独白録』にこう記されている。(原文は旧字旧かな)
「政府もいよいよ『ポツダム』宣言を受諾することに意見を極めて、8月9日閣議を開いた。
また最高戦争指導会議も開かれた。
海軍省は外務省と解釈を同じうするが、陸軍省、参謀本部および軍司令部は、外務省と意見を異にした。
領土を削られることは強硬論と雖も、余り問題とはしないが、国体護持、戦争犯罪人処罰、武装解除および保障占領*の4点が問題となった。軍人たちは自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除について、反対したのは、拙いことであった。閣議も会議も議論は二つに分かれた。」
会議は翌10日の午前2時まで続いたが、議論は一致に至らない。
鈴木(貫太郎首相)は決心して、会議の席上私に対して、両論いずれかに決して頂きたいと希望した。
会議の出席者は、鈴木総理のほか、平沼、米内、阿南、東郷、梅津、豊田の6人。**
国体護持の条件を付することに於いては全員一致であるけれども、阿南、豊田、梅津の3人は保障占領を行なわないこと、武装解除と戦犯処罰はわが方の手で行う事の3条件を更に加えて交渉することを主張し、戦争の現段階ではこの交渉の余裕はあるとの意見であったに反し、鈴木、平沼、米内、東郷の4人はその余裕なしとの議論である。
そこで私は戦争の継続は不可と思う。参謀総長から聞いた事だが、犬吠埼と九十九里海岸との防備は未だ出来ていないという。また陸軍大臣の話によると、関東地方の決戦師団には9月に入らぬと、武装が完備するように物が行き渡らぬという。かかる状況でどうして帝都が守れるか、どうして戦争が出来るか、私には了解が出来ない。
私は外務大臣の案に賛成する(ポツダム宣言受諾)、と言った。」(文春文庫『昭和天皇独白録』p.146-148)
*保障占領:国際協定の実行を保証する担保としての占領。協定履行により解除され、施政権は主権国に返還されるのが建前。
**鈴木貫太郎首相、平沼騏一郎枢密院議長、米内光政海軍大臣、阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長

少しばかり補足しておく。
この第1回目の御聖断により、国体護持を条件として『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答をすることが正式に決定され、翌10日の午前6時45分から連合国軍にその旨連絡されたのだが、陸軍省では徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こり、阿南陸相は苦境に立たされてしまう。
午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだと匂わせたメンバーがいたそうだが、陸相は「不服な者は、まずこの阿南を斬れ」と述べて鎮静化をはかったというのは有名な話だ。
そしてこの日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民にどう伝えるかが議論されている。その結果、わが国が連合国軍に対し国体護持を条件にポツダム宣言の受諾する回答をしたことについては、天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしいのだ。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている。この文書の一部を引用する。
「全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。… 」
別宮暖朗氏の『終戦クーデター』によると、この文書は阿南陸相の義弟の竹下正彦(陸軍・軍務課内政班長)らが作成し、新聞社やNHKに手渡され実際に報道されたという。
一方連合国側では、わが国が『ポツダム宣言』に対し「国体護持」を前提とする受諾回答であることを不満とする意見もあり、12日の連合国の正式回答文(「バーンズ回答文」)においては、「国体護持」については正面からの回答を避けたあいまいな表現となっていた。
ポイントとなるのは、次の部分である。
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
要するに、保障占領の間は日本政府と天皇は連合国最高司令官に遵う(subject to)こと。その後の政体については「日本国民の自由に表明する意思」で決定されるというのだが、この”subject to”の解釈で紛糾する。外務省は「制限の下に置かれる」と訳し、陸軍省は「隷属する」ではないかと反論した。
この連合国側の回答文では納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張し、再び議論は平行線になった。
そして8月13日午後2時20分にスウェーデンの岡本公使より緊急電報が外務省に届き、そこには連合国正式回答文に関する米英ソの交渉経緯を伝え、この回答文はソ連の反対を押し切り、実質的には日本側条件を是認したものであるという内容が書かれていたという。
この電報が功を奏し、同日の午後4時から始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となるが、それでも3名の反対者が出て、また議論はまた堂々巡りとなる。前にも書いたが、明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としており、多数決では決められなかったのだ。
13日の午後8時に陸軍官邸に戻った阿南陸相は、軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐の訪問を受け、義弟の竹下中佐から「兵力使用計画案」の説明を受けてクーデター計画の賛同を迫られたという。
その「計画案」については2通りの記録が残されていて、昭和57年に出版された井田正孝中佐の手記『雄誥』に書かれている「竹下案」と、稲葉正夫中佐が昭和24年10月にGHQ歴史課に説明して残された「稲葉案」があるのだが、2つの案はかなり異なるという。

別宮暖朗氏の『終戦クーデター』にその双方の案が紹介されているが、いずれも事件を起こした当事者が説明しているものであり、仲間を庇ったり自分を護るためにかなりの修正がなされているらしく、特に井田の手記は、クーデターを行なったメンバーを美化する立場で書かれている点を割り引いて読む必要があるという。
別宮氏も稲葉が残した「兵力使用計画案」の方が原型に近いものであると考えておられるようだが、その「稲葉案」においては、誰が読んでも驚くようなことが書かれている。
「使用兵力 東部軍および近衛師団
使用方法 天皇を宮中に軟禁す。その他木戸、鈴木、外相等々の和平派の人達を兵力を以て隔離す。次いで戒厳に移る。
目的 天皇に関するわが方条件に対する確証を取り付けるまでは降伏せず、交渉を続ける。
条件 陸相、総長*、東部軍司令官**、近衛師団長***の4者一致の上であること。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.71)
*梅津美治郎参謀総長、**田中静壹東部軍司令官、***森赴近衛師団長
竹下の計画説明に対し、阿南陸相がどういう反応を示したのだろうか。別宮氏は先程紹介した著書で、竹下が著した『機密終戦日誌』の該当部分を現代語訳で紹介しておられる。
「…たとえ逆臣となっても永遠の国体護持のため断乎明日午前クーデターを決行することを具申した。大臣は容易に同調する気色はなかったが『西郷南洲の心境がよくわかる』『自分の命は君等に差し上げる』などと言った。」
と、しぶしぶ同意したとも不同意であったとも、どちらともとれる書き方になっているのだが、井田の手記『雄誥』では、阿南陸相はクーデターに賛成したことになっているという。
しかし、計画案に「天皇を軟禁す」と書かれていることが真実であったならば、簡単に阿南陸相が賛成したとは考えにくいところだ。
翌14日午前7時に阿南陸相は荒尾興功軍務局軍事課長とともに梅津美治郎参謀総長を訪ね、軍は断乎クーデターによって天皇を擁し、軍政府を立てて戦争を続行する旨述べたのだが、梅津は天皇陛下の御聖断があった以上は、軍は陛下の御意志に副うべく万全を尽くすべきだとして同意せず、さらに中堅将校の不心得を十分に取締まることを要求したそうだ。
ついで阿南陸相は7時半には田中静壹東部軍司令官と高嶋辰彦参謀長を陸軍大臣応接室に招請して、クーデターに参加することを求めたがそれも不調に終わっている。
その際に高嶋参謀長は「明治憲法規定によって担当大臣副署による昭和天皇の命令を出してくれ」と要求したという。
ここで大日本帝国憲法の条文を復習しておこう。
「第 3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
「第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」
とある。
この憲法を読んで普通に考えれば、昭和天皇による第1回目の御聖断が出た時点で、陸海軍ともそれに従うしかなかったはずである。
クーデターを起こそうとした将校たちは、いったいどういう論理で陛下の御聖断を無視したのだろうか。この点は気にかかるところだ。
別宮暖朗氏の著書に、阿南陸相の義弟・竹下正彦が昭和22年2月28日にGHQ歴史課の尋問を受けた時の陳述内容が紹介されている。この文章を読めばクーデターを起こしたメンバーは昭和天皇を護衛する意識などはなかったことが誰でもわかる。
「この度天皇は民族の根さえ残っておれば、国家再興の時機は必ず到来すると申されたが果たしてそれでいいのか。天皇ヒロヒトはそう申されても、それは明治天皇やその他の皇祖皇宗の御考えと一致しているとは思われない。今上天皇の意図に反することは避けたいけれども、たとえ一時そういう結果になっても皇祖皇宗の御志にそうて行動することが大きな意味において本当の忠節である。東洋思想によれば承詔必謹のみでは不十分で諌争(かんそう)*ということがあって本当に忠義になるのである。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.172)
*諌争:君主に諫言して、自分の意見に従わせること

別宮氏はこう解説している。
「竹下は自分の意見『太平洋戦争継続』を昭和天皇と諌争して、実現させたかったというのである。ソ連が参戦し原爆を落とされ、多くの陸兵が太平洋の孤島で玉砕したあとの言い分である。ただし、竹下自身も、降伏自体は避けられず、『国体護持』のため武装解除、保障占領、戦犯裁判回避のため、多少継戦して、本土決戦で一撃を与え、その三つの条件を撤回させたいと主張した。
諌争といっても、ただの軍事課課員の竹下が直接やるわけにもいかず、義兄の阿南も他の閣僚に継戦論を説得できずにいたのである。竹下の諌言や諌争は、昭和天皇に達する以前に他省庁に対しても説得力を欠いていた。
それでも竹下が昭和25年に昭和天皇を『ヒロヒト』と呼ぶことは極めて異例であろう。…竹下も義兄を『コレチカ』と呼び棄てにすることはなかったであろう。
諌争とは君主が自分の意見と異なった命令を出した場合、あくまでも論争を挑み、不服従を遂げることであった。儒教とは選民=エリートである官僚がどのように振る舞うべきかを説いたものであり、陸軍エリート将校の頭に入りやすかったのである。」(同上書 p.172-173)
このような考え方で、竹下らは昭和天皇を軟禁し和平派を隔離して戦争を継続させようとしたのだが、この続きは次回に記すことにしたい。
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