昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
この計画に賛同するメンバーは決して少数ではなかった。
森 赳(たけし)近衛師団長は蹶起することに反対していたが、近衛師団参謀長の水谷一生、参謀の古賀秀正、石原貞吉も、竹下中佐らの仲間に入ることを約束していた。
古賀は東条英機の女婿で、古賀の依頼により近衛師団歩兵第二連隊(「近歩二」)第一大隊長の北畠暢男は、750名の兵力全部を8月12日以降徐々投入する決心をしていた。

その第九中隊の司令官であった絵内正久は、著書『さらば昭和の近衛兵』に当時の状況を書き残している。前回紹介した別宮暖朗氏の『終戦クーデター』に、絵内氏の記録が引用されているので紹介したい。次の訓辞の部分は絵内氏の著書から引用されたものだが、驚くような内容だ。
「12日午後1時、北畠大隊の第九中隊人事係は…絵内正久を司令官とする『絵内分隊』に、疎開地の小日向小学校から小銃や軽機関銃に実包をこめたまま出発することを命令した。
分隊とは小隊に属する帝国陸軍に於ける最小単位で、約12名で編成された。少尉、准尉または下士官が司令官になった。中隊人事課は出発しようとする分隊を校庭に集め不思議な訓辞を与えた。
『よく聞け。地方部隊の中に、もう戦争に飽きたのでやめよう、と民間人に同調する不穏の動きがある。その連中が宮城を攻め、天皇陛下を人質とし、戦いをやめ、反戦を陛下に強要しようと企んどる。お前たちは、それに備えて、陛下をお護りするため、特別に派遣されることに、なった。お前たちは、宮城に入ったら、お前達の直属上官でも、無理に入ろうとしたら、ただちに撃ち殺さなくてはならん』。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.59)
おかしな話である。
実際は、徹底抗戦派が陛下と和平派を監禁して、陛下に戦争継続の決断を迫ろうとしていたのに、反戦派が陛下を人質に取って戦争を終結させようという不穏な動きがあるので、陛下を護るために宮城を完全閉鎖しようという命令が出ていたのだ。
これを読むと、ほとんどの兵士たちは自らがクーデターに加担することになることを全く知らされていなかったことがみえてくる。
事態は切迫していた。国内の徹底抗戦派の動きも気になるところだが、アメリカのマスコミもわが国の『ポツダム宣言』に対する回答遅延を責めだし、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布し、14日にも同様のビラが撒かれたという。この段階ではポツダム宣言は国民に公表しておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。
そこで昭和天皇は、自らの判断で御前会議の開催を要求され、14日午前8時に鈴木貫太郎首相にメンバーの召集を命じられて、この御前会議で昭和天皇が二度目の御聖断をなされることになる。

この連載の3回目に比較的詳しく書いたので繰り返さないが、この会議の昭和天皇のご発言が素晴らしいのである。もし、まだ読んでおられなければ是非読んで頂きたいと思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.html
この御前会議で、『ポツダム宣言』の受諾および『終戦の詔書』を出すことが決定したのだが、それからあとが簡単には進まなかったのである。
この御前会議とそれ以降の出来事について『昭和天皇独白録』にはこう記されている。
「午前11時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最後の引導を渡した訳である、この会議のことは迫水*の手記に出ている。『ポツダム』宣言受諾の詔書は14日午後9時過ぎ署名したので、これですべて確定したと思ったが、陸軍省は、放送がなければ効力がないと思ったか、放送妨害の手段に出た。
荒畑軍事課長**が、近衛師団長に、偽命令を出して欲しいと強要した。森(赴)近衛師団長は立派な人で、この強要に頑強に反抗したため殺された、そして師団参謀長***と荒畑**との名で偽命令書が発せられた。
宮内省の電話線は切断せられ、御文庫の周囲も兵により包囲された。
幸い空襲のため窓の鉄扉が閉鎖されていたので、私の居るところは兵には判らなかったらしい。
この騒動をきいて、田中静一(正しくは静壹)軍司令官が馳せ付け兵達を取り鎮め、事は無事に終わった。
鈴木、平沼の私邸も焼かれた、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べながら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。
結局二股かけた人物というべきである。」(文春文庫『昭和天皇独白録』p.157-158)
*迫水久常:内閣書記官長。
**荒尾興功大佐(荒畑は誤り)
***水谷一生大佐
昭和天皇はこのように極めて簡潔に述べておられるのだが、これを読むだけでこのクーデターは陸軍の中枢が関与した大事件であったことがわかる。
通説では、畑中健二少佐を主犯とする一部の若手将校による小規模な反乱であったとされているのだが、通説は当事者が書き残した記録を鵜呑みにして記されていることに注意することが必要だ。当時の記録をいろいろ辿っていくと、『昭和天皇独白録』の方が真実に近いことが見えてくる。

話を元に戻そう。宮城事件の各場面の登場人物や時間については諸説があるようだが、ここでは別宮氏の『終戦クーデター』に合わせておく。
近衛師団参謀・古賀秀正少佐の指示で近衛師団歩兵第一連隊(「近歩一」)の小田小隊は15日午前零時を期して、NHK本部占拠に向かい、近歩二の通信中隊は宮城紅葉山にあった宮内庁の電話設備を破壊した。
ついで、クーデターに反対していた森近衛師団長の部屋に、畑中健二少佐、窪田兼三少佐、上原重太郎大尉らが向かう。森は義弟の白石通教(みちのり)第二総軍参謀長と寛いでいたところであったが、二人とも畑中らに殺害されてしまった。
一方、近歩二第三隊長の佐藤好弘大尉は、宮内省庁舎を出て4台の車に分乗した下村情報局総裁兼NHK会長一行の車列を停め18名全員を拉致した。下村総裁一行は、昭和天皇の玉音放送の収録を14日の午後11時45分に終えた帰りであった。

8月15日正午に放送された昭和天皇の終戦詔書を読み上げる肉声を録音したレコードは「玉音盤」と呼ばれるのだが、昭和天皇は2回録音され、それぞれ2枚複写されたので、玉音盤は4枚存在したはずだという。このレコードを奪取しようと反乱軍が必死に探したというのが通説になっているのだが、別宮暖朗氏によると佐藤大隊長は玉音盤奪取を具体的に指示してはいないという。別宮氏はこう解説している。

「佐藤は、そもそも玉音盤あるいは録音方法を何も知らなかった。昭和天皇が放送局のどこかのスタジオでマイクに立つと考えた可能性も強い。仮に録音盤の存在なり数量なりを知っていたとしても、近衛兵によって宮城を完全封鎖できている以上、外部に持ち出すことは不可能と想像することはできたはずである。そのうえ4枚のうち1枚も発見できなかった。近衛兵が真剣に捜索したとは思えない。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.105)
とある。
当時近歩一第一中隊長であった小田敏生氏がこの日の出来事を『正論』の平成17年9月臨時増刊号に『近衛連隊と玉音放送阻止事件』という表題で寄稿しておられる。
この文章の中で小田氏は、8月14日深夜午後11時30分に非常呼集があり、15日午前0時過ぎに「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」「放送局にいるものを一人といえども外へ出すな。外部からいかなるものも入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ」という久松秀雄第一大隊長命令を受けているが、それが玉音放送の阻止であるとは知らされていなかったという。
ところで小田氏の論文には、どこにも「録音盤」という言葉がない。別宮氏が指摘しておられる通りで、宮城や放送局の完全封鎖ができていれば、放送などできるはずがなく、録音盤を探す必要などはなかったのだ。
14日に録音が終了した時点では『玉音盤』は宮内庁にあったのだが、深夜のような状況が長く続けばそれを放送局に運ぶことは不可能に近く、予定の時間に放送が出来ない事態に陥っていたはずだ。
一方、宮中の動きに連動して、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとする「国民神風隊」が、15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内大臣、東久邇宮稔彦王らの私邸に火を放ったということがWikipediaにでている。皇族の私邸にまで火をつける連中は、戦後のマスコミで繰り返し伝えられてきた『軍国主義者』とは異なるような気がするのは私だけではないだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ふたたび宮城事件の話に戻る。小田氏の文章を読み進むと、15日の夜が明け始めた頃に事態が一変し、久松大隊長から「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」との命令変更が伝えられたという。
そして午前11時半ごろに東部軍の高嶋辰彦参謀から、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか。命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ。」
と言われ、すでに小田中隊長は近衛師団長が殺害されたことを知っていたので高嶋参謀の命令を疑う余地はなかったと述べ、またその命令を聞くまでは、正午にあるという玉音放送は、天皇から戦争継続の宣言があり軍人や国民に対して最後の激励をされるものだと思い込んでいたと正直に吐露しておられる。
では、どういう事情があって、途中で命令が真逆に変わったのだろうか。
『昭和天皇独白録』にも名前が出てくるが、東部軍管区司令官の田中静壹大将が身を挺して困難な状況を打開したのである。東部軍管区には実戦部隊は存在せず、田中は近衛師団を説得して少しずつ味方につけていくしか方法はなかったのだ。

夜が明けるのを待って田中は塚本素山副官だけを自分の公用車に乗せ、他の1台には不破博参謀と憲兵将校1人と下士官2名を乗せて東部軍司令部を出発したという。
まず近歩一営庭で田中は車を降り、まっすぐに二階の連隊長室に向かい、
「古賀による偽命令だ。直ちに兵を戻せ」と渡辺多粮連隊長(近歩一)に命じた。渡辺は既に今までの命令におかしなものを感じていたせいか、すぐに応じたという。
次いで田中は近衛歩兵一、二連隊営門の反対側の乾門の前で近歩二の芳賀豊次郎連隊長を呼び、「お前たちは、師団長が殺された以上、いっさい参謀の命令に従う必要がない。これからは自分自身が近衛師団の指揮をとる。」と述べ、たまたま陸軍公用車に乗って乾門に近づいてきた荒尾軍事課長、井田正孝、島貫重節3名(反乱軍側)が皇居の中に入ろうとしたところを、田中は「禁闕守衛の任にある者の他、一人もここを通ることはならぬ。帰れ」と叫ぶと三人は圧倒され、車をUターンさせて戻ったという。
その後クーデターは急激に鎮静化に向かっていったという。
一方、陸相官邸では14日深夜に阿南陸相が切腹自殺をし、15日早朝に絶命した。遺書には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていたという。
最後まで抗戦を諦めなかったという椎崎中佐と畑中少佐は、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺したというのが通説だが、おそらく作り話だろう。
別宮氏は著書で通説の疑問点をいくつか挙げておられる。
たとえば、窪田少佐も上原大尉もともに畑中とは面識がなく、畑中がこの二人に森師団長殺害を決心させ、同時に警戒厳重な近衛師団司令部に招じ入れることが出来たことが不自然であること。また3人が殺害に向かった同じ時間に小田小隊をNHKに向かわせ、古賀参謀を動かすことは考えにくいこと。二人が自殺したとされる午前11時にはすでに皇居前に多くの人々が集まっており目撃者が誰もいないのは不自然であること。10時10分ごろに阿南陸相、椎崎、畑中の3名の遺体を見たという黒崎貞明氏の記録があること。さらに3人とも遺体を竹下の手によって焼かれていること。…これらの指摘が正しければ、普通に考えれば自殺ではないだろう。
そもそも「畑中主犯説」を最初に書いたのは、クーデターを起こした側のメンバーの一人である不破博で、その後も井田正孝や竹下正彦が本を著して「畑中主犯説」を書いているが、クーデターを起こした当事者の記録を鵜呑みにして通説が出来上がっているということになる。

別宮氏は「畑中主犯説とは、全責任を仲間であった死者、畑中健二に被せる説でもあった」と述べておられるが、その通りであろう。この『宮城事件』は殺人を伴う重要事件でありながら、いっさい司直の捜査が入らなかった奇妙な事件でもある。戦後、生存者がそれぞれ要職に就き、死者に全責任を擦り付けておくことにしたかったのではないか。
話を『宮城事件』に戻そう。
かくして2枚の玉音盤は宮内庁から無事放送会館および第一生命館に設けられていた予備スタジオに運び込まれ、予定どおり15日の正午に、陛下の肉声が録音された『終戦の詔書』が全国に放送された。
昭和天皇の『玉音放送』は、今ではYoutubeで誰でも拝聴することができる。
http://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo
『終戦の詔書』のテキストや現代語訳も、今ではネットで容易に読むことが出来る。
http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43672010.html
そして反乱軍の首謀者の1人である古賀参謀はこの玉音放送の放送中に、近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺したという。
また反乱軍を鎮静化させた田中静壹陸軍大将は、陸軍徹底抗戦派の最後の反乱となった8月24日の川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室にて拳銃で自殺したのだそうだ。
つい最近まで、『宮城事件』がこんなに大きな事件だとは思っていなかったのだが、もし昭和天皇が8月14日に急遽御前会議を開くことを決断しなかったなら、もし田中静壹大将が身を挺して近衛師団を説得し、参謀と切り離すことに成功しなかったなら、このクーデターは成功し、8月15日に終戦できなかった可能性がかなり高かったのではないか。
アメリカが更なる原爆を投下する準備は出来ていたし、ソ連の対日参戦でソ連軍は日本列島に迫ろうとしていた。本土決戦となったところでわが国には到底勝ち目はなく、さらに数多くの人命を失ったに違いないし、戦後はドイツや朝鮮半島のように国土を分断されて、一部は共産主義国になっていただろう。陸軍のエリート将校達は、そこまで戦争を引き延ばしたかったのではなかったか。

戦後のわが国が平和で豊かな国になれたのは、この時に『玉音放送』を阻止しようとする勢力を排除し、『ポツダム宣言』の受諾を国内外に宣言したことから始まると言っても言い過ぎではないと思う。
「…然れども、朕は時運の趨く(おもむく)所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かむと欲す。…」
この放送を国民に伝えるために尽力した多くの人々に、感謝したい気持ちになった。
<つづく>
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【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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