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帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9

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Category太平洋戦争
前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。
彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。

張作霖爆殺事件

一番わかりやすいのは、関東軍だろう。
以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

通説では関東軍はこの事件を自らの判断で実行したと描かれているのだが、ソ連の工作に協力したというのがどうやら真相のようである。
柳条湖事件も、最近の研究では日本軍主犯説を否定する議論があるようだが、いずれにせよ関東軍は中国大陸で暴走してわが国を戦争へと巻き込んだ可能性が高いのである。

ところが、太平洋戦争末期にソ連が対日参戦した直後に、前回の記事で書いた通り、好戦的であるはずの関東軍の秦彦三郎総参謀長が、「ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請」したというのである。

ここで、このブログで以前紹介した、1935年(昭和10)に開かれた第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリンは、日中を戦わせて長期戦で消耗させ、日本の敗戦が確実なタイミングで参戦して共産陣営に取り込む戦略であったのだ。関東軍のとった行動は、わが国を中国との戦争に巻き込み、最後に満州をソ連に献上したのだから、スターリンの戦略と見事なまでに一致しているのだ
ソ連が対日参戦した際にワシレフスキー元帥には満州、北朝鮮、南樺太、千島全島、北海道の半分まで占領する任務が与えられていたそうだが、北海道まで兵を進めることが出来なかったのは、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断し、千島列島の最北にある占守島でソ連軍の進軍を阻んだことが大きい。
樋口季一朗

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

ところが、関東軍参謀長の秦彦三郎中将は、ワシレフスキー元帥からの要請により、第五方面司令部に武装解除を命じて、千島や樺太におけるわが国の自衛の戦いを終息させてしまっている。停戦命令が出ていても、邦人に対する攻撃がある限り法人の生命と財産を護るために軍隊が戦う事は国際法で認められているにもかかわらずである。
そのためにソ連軍による邦人の無差別殺戮が8月28日頃まで続き、多くの兵士がシベリアに送られたのだ。この史実をどう読めばよいのか。

私も長い間『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると軍隊と言う組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。ところが、その組織の中に、わが国以外の国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思があれば、どこの国にとっても怖ろしい存在となりうるものなのだ。そしてわが国の場合においては、本当に怖かったのは正確に言えば「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後に共産主義革命を起こそうとした軍隊」なのではなかったか

いつの時代もどこの国でも、自国と敵対する国の工作員にとっての重要な工作対象は、政治家やマスコミも重要だろうが、一番重要なターゲットはその国の軍隊だと思うのだ。なぜなら、その工作が成功すれば、さしたる武力を使わずとも相手国を倒すことが容易になるからだ

以前このブログでも書いたが、1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会に採択された決議内容には「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と書かれていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html
わが国は、帝国陸海軍がコミンテルンの工作対象になっていることに対し、あまりにも危機感が乏しく、リスク管理が甘かったと言わざるを得ないのだ

話を元に戻そう。
いろいろ調べていくと、張作霖爆殺事件について事件にかかわったメンバーは処分されていない。同様に『玉音放送』を阻止しようとし、多くの人命が失われた『宮城事件』についても誰も処分されず、クーデターに加わったことが明らかなメンバーも、戦後をのうのうとして生きたのである。彼等の多くは防衛庁や自衛隊に入っているが、戦後しばらくは再び共産主義革命のチャンスをうかがっていたのではないか。
思想安全地帯に赤化分子

前回の記事で、昭和7年の2月に陸軍士官学校に赤化運動が起こり4名が放校処分されたという新聞記事を紹介したが、この記事の出た前後の卒業生に『宮城クーデター』を実行した中心メンバーや、ソ連とつながりがある人物が少なくないことが分かる。ソ連の特殊工作員となったということは、ガチガチの共産主義者でなければありえないはずだ。
私の記事で名前の出てきた共産主義者と宮城クーデターに参加した人物を、卒業年次順に並べてみると次のようになる。
陸軍士官学校

【33期】大正10年(1921)7月卒業
水谷一生大佐(近衛師団参謀長:宮城事件で竹下中佐に協力を約していたが、東部軍司令部に説得される)
【35期】大正12年(1923)7月卒業
荒尾興功大佐(軍務局軍事課課長:宮城事件首謀者の1人。戦後は復員庁に勤務)
【39期】昭和2年(1927)7月卒業
不破博大佐(高級参謀: 宮城事件に参加を約していた。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
【42期】昭和5年7月卒業
稲葉正夫中佐(宮城事件計画立案者。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
竹下正彦中佐(宮城事件首謀者の1人。阿南陸相の義弟。戦後、陸上自衛隊東部方面総監)
【44期】昭和7年(1932)7月卒業
瀬島龍三中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。後に伊藤忠会長)
【45期】昭和8年(1933)7月卒業
朝枝繁春中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後商社勤務)
井田正孝中佐(宮城事件首謀者の1人。戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務後電通に入社)
椎崎二郎中佐(宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決)
【46期】昭和9年(1934)7月卒業
畑中健二少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与。昭和20年8月15日自決)
【47期】昭和10年(1935)6月卒業
石原貞吉少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加を約していた。)
【50期】昭和12年(1937)12月卒業
窪田兼三少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
【52期】昭和14年(1939)9月卒業
古賀秀正少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決。東条英機の女婿)
志位正二少佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後外務省、海外石油開発株式会社勤務。日本共産党委員長志位和夫の伯父)
【54期】昭和15年(1940)9月卒業
北畠暢男大尉(近歩二第一大隊長:古賀少佐の依頼により宮城事件で兵力投入)
佐藤好弘大尉(近歩二第三大隊長:宮城事件でNHK会長ら18人を拉致)
【55期】昭和16年(1941)7月卒業
上原重太郎大尉(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)

『宮城クーデター』に関与した将校クラスのメンバーはまだまだあるが、興味のある方は別宮暖朗氏の『終戦クーデター』のp.4~7にリストが出ているので参考にしていただきたい。
阿南惟幾大将は陸軍士官学校18期(明治38年[1905]卒業)であるが、このような過激なメンバーを将校クラスに多数抱えた陸軍大臣であったわけである。

阿南陸相は『ポツダム宣言』を受諾するかどうかで、会議では最後の最後まで徹底抗戦を主張していたのだが、これは陸相の『腹芸』で、本心は別のところにあったという説がある。

その説を一笑に付す論者が多いのだが、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣当時の内閣書記官長であった迫水久常氏の『終戦の真相』と言う論文を読んで、私も『腹芸』の可能性を感じるようになった。迫水論文の重要な部分を引用する。
迫水久常

当時の陸軍の状況から申しますと、若し(もし)阿南さんが終戦に賛成されたら、必ず部下に殺されていたと思います。若し阿南さんが殺されたら内閣としては、陸軍大臣を補充しなければなりません。当時の陸軍大臣は陸軍の現役大・中将ということになって居りましたので、その補充について軍が承諾しない限り出来ないのであります。若し陸軍大臣を補充できなければ、鈴木内閣は総辞職する外(ほか)ありません。あの場合、鈴木内閣が総辞職したらどうなりますか。終戦は出来なかったでしょう。阿南さんはこのことを知って命を保って、鈴木内閣をして終戦を実現さるために、あの腹芸をなされたのです。若し心から終戦反対なら辞職されて了(しま)えばやはり鈴木内閣はつぶれて終戦は出来なかったでしょう。」(正論臨時増刊号 終戦60周年記念『昭和天皇と激動の時代』p.90)

少し補足しておこう。
当時には、軍部大臣(陸軍、海軍)の補任資格を現役武官の大将・中将に限っていた『軍部大臣現役武官制』という制度があり、そのために内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことが可能であったのだ。
過去、陸軍が組閣に協力しなかったために内閣が総辞職した事例として、第37代の米内内閣が有名だ。米内光政首相は日独伊三国同盟反対論者であったために陸軍から不評を買い、陸軍は畑俊六陸相を単独辞職させたのち、後任の陸相を推薦しなかった。そのために、米内内閣はわずか半年で総辞職に追い込まれている。(昭和15年[1940])
他にも昭和12年(1937)に広田内閣の寺内陸相が衆議院解散を要求し、広田首相が内閣総辞職を行ない、後任として組閣大命を受けた宇垣一成に対して、陸軍が陸軍大臣の候補者を出さなかったために組閣ができなかった事例がある。
阿南陸相

迫水氏が指摘している通り、阿南陸相がもし本気で徹底抗戦を考えていたのなら、自ら辞表を出せば簡単に鈴木内閣を総辞職に追い込むことが出来たのである。ではなぜ、阿南は辞任しなかったのか
実際に阿南陸相は、14日正午過ぎに首相官邸閣議室において、クーデターを起こした義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けたことがWikipediaにも書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE



迫水氏は別の著書でこう述べている。
「…終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分にまかせよといわれたという。当時の状勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに違いない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮を自ら引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル*』とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかっただろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。…」(ちくま学芸文庫『機関銃下の首相官邸』p.334-335)
*阿南陸相の遺書

迫水氏によると、14日に阿南陸相は終戦の詔書の署名したのち鈴木貫太郎首相を訪れて、涙を浮かべながら首相にこう謝罪したという。
「終戦についての議がおこりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申し上げます。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように。」
鈴木首相はうなづきながら、阿南陸相に歩み寄られて「そのことはよく判っております。しかし、阿南さん皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから。」と述べたという。そして陸相が丁寧に一礼して部屋を去った後に、総理は迫水氏に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいたという。

阿南陸相は昭和4年(1929)から昭和8年(1933)までの4年間は侍従武官を務めており、当時の侍従長が鈴木貫太郎であったそうだ。また昭和11年(1936)の2.26事件の時に鈴木侍従長が襲撃され重体になった時には阿南は陸軍幼年学校長であり、阿南校長はこの時の生徒への訓話の中で叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いたという。
そして昭和20年4月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけたそうだ。陸相就任の数日後に阿南は友人にこう語ったという。
大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。」
こういう経緯を知れば、鈴木首相と阿南陸相とは強い信頼関係があったことがわかる。
阿南はわが国が『ポツダム宣言』を受諾し、終戦に至るぎりぎりのところまで鈴木内閣を支え、そして最後の最後にクーデター派を裏切ったのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html

8月15日未明、阿南陸相は『ポツダム宣言』の最終的な受諾返電の直前に、陸相官邸で切腹した。介錯を拒み早朝に絶命したと記録されているそうだ。
anami_isho.jpg

靖国神社の遊就館の中に、阿南陸相の血染めの遺書や自決時の軍服が展示されているという。
遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記され、
大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
という辞世の句を残している。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-anami.htm

この阿南陸相の自決が、陸軍に強い衝撃を与えたことは言うまでもない。
阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べたという。
「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。…換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。」

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6Comments

鹿児島のタク  

阿南惟幾氏のイメージ転換

しばやんさんへ

阿南惟幾氏については、名前と簡単な略歴、終戦に反対した人ということしか知りませんでした。

いろいろ複雑なことがあったのですね。阿南惟幾氏についての認識が変わりました。ありがとうございます。

2014/01/30 (Thu) 05:42 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 阿南惟幾氏のイメージ転換

いつもよく読んで頂きありがとうございます。とても励みになります。
阿南陸相については徹底抗戦派と考える人が多いのですが、迫水氏の文章を読んで、私は陸相が徹底抗戦を主張したのは阿南の腹芸だったのではないかと考えるようになりました。

日本の軍人はほかにもいい人もいたのでしょうが、マスコミや教育でそういう人物を伝えることがありません。私も長い間「軍国主義=悪」という単純な歴史観に洗脳されていましたが、そのような洗脳が解けてきたのはネットでいろんな情報をあつめるようになってからのことです。

2014/01/30 (Thu) 07:28 | EDIT | REPLY |   

アマテラス  

埋もれた歴史

貴重な情報ありがとうございます。

私たち日本国民も反省するべき事項あるのかも知れません

2014/05/09 (Fri) 21:23 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 埋もれた歴史

コメント頂きありがとうございます。

戦前の本を読んだ時に、多くの史実が今の日本人に伏せられていることを知って、自分も何か書きたいと思って勉強しながらこのブログを始めましたが、多くの人に読んで頂き嬉しいです。

少しでも多くの人が、戦後の長きにわたりわが国で意図的に伏せられてきた歴史を知ることにより、教育やマスコミなどで拡げられてきた歴史観を見直すきっかけになればと思っています。

これからも、ときどき覗いて見てください。


2014/05/10 (Sat) 00:07 | EDIT | REPLY |   

ただの主婦  

考えさせられる内容です

今日はじめてこちらのブログにお邪魔させて頂きました。私は日本人ですが、海外で学生生活を長く過ごしていたので、日本人の戦争への自虐的なモノの捉え方に違和感を感じておりました。これからもお勧めの書物などとともに素人にも分かりやすい記事を書いて下さい。お勉強させて頂きました。これから読者になります笑

2015/09/07 (Mon) 06:48 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 考えさせられる内容です

ただの主婦さん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

ずっと国内に住んでいても、自虐的な考え方に違和感を感じている日本人はかなり多いです。私もその一人ですが、若い頃は違和感を感じても自分で調べる時間もなく、あまり考えずに過ごしていました。

自虐的な歴史観のおかしさに確信が持てるようになったのは渡部昇一さんの著作などからですが、軍部の暴走を共産主義思想の浸透と結びつけて考察している本はあまり多くはありません。三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』、中川八洋氏の『近衛文麿の戦争責任』等がありますが、前者はなかなか手に入りにくいと思います。

これからも、書き続けますので、時々覗いてみてください。

2015/09/07 (Mon) 07:44 | EDIT | REPLY |   

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