『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
このシリーズの最初の記事で『ポツダム宣言』に書かれている内容を紹介したが、この宣言で、連合国はわが国に対して、条件付きで戦争を終結させようと提案してきたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-290.html
なぜ連合国が、わが国の本土決戦の前にこのような提案をしてきたのだろうか。
もし『ポツダム宣言』がなければ、連合国が勝利するためには、わが国が降伏するまで攻撃をし続けるしかなかったのだが、わが国は簡単には降伏しそうな国ではなく、本土決戦に突入すると、わが国だけではなく連合国側にもさらに多くの犠牲者が出ることが予想されていた。
『ポツダム宣言』が発表された背景には、連合国側に、これ以上犠牲がでることを避けようとする意図が見えてくるのだ。
実は『ポツダム宣言』以前にも、アメリカは、何度もわが国に対して降伏勧告をしていたようだ。
それまでのアメリカの動きを、このシリーズの最初に紹介した山下祐志氏の論文『アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』を参考にみていこう。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1391217393&cp=

1945年(昭和20)5月7日にドイツが無条件降伏すると、アメリカのトルーマン大統領は次のような対日降伏勧告声明を発している。
「日本軍の無条件降伏は日本国民にとってはなにを意味するのかといえば、それは戦争の終結にほかならない。日本を惨禍の淵に追い込んだ軍部指導者の無力化を意味する。兵士たちが家庭に、農場にまた職場に復帰できることを意味する。またそれは勝利の希望のない日本人の現在の苦悩や困難をこれ以上引きのばさないことを意味している。無条件降伏は決して日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものではない。」
しかしわが国政府は5月9日に次のような声明を発して、あくまで徹底抗戦することを告げている。
「帝国と盟を一にせる独逸(ドイツ)の降伏は帝国の衷心より遺憾とするところなり、帝国の戦争目的はもとよりその自尊と自衛とに存す。これ帝国の不動の信念にして欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の欲意と暴力の下に蹂躙せんとする米英の非望に対し、あくまでも之を破摧しもって東亜の安定を確保せんことを期す。」
アメリカはそれ以降、ザカリアス米海軍大佐によって、14回にわたって降伏勧告を求める放送を実施したのだが、わが国を動かすことはできなかった。
空襲だけでは日本を降伏にまで追い込むことはできないと考えられ、九州上陸作戦および関東平野上陸作戦が検討されていて、その作戦を実行に移したとしても、もし300万人近い内地の日本軍将兵が山地や森林にこもってゲリラ戦を展開したとしたら、米軍側に大量の犠牲者で出ることは確実であり、あまり時間をかけすぎれば、ソ連が対日参戦して北海道や東北を狙ってくることも充分に考えられたのである。
アメリカがそう考えたのも無理もない。米軍は硫黄島、沖縄の戦いで多くの犠牲者を出している。

例えば、硫黄島の戦いについてWikipediaではこう解説されている。
「日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことオーバーロード作戦における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地のひとつとして知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
硫黄島には、米軍は日本軍2.3万人の5倍にあたる11万人もの兵士を送りこんだのだが、日本兵を上回る犠牲者を出していたというのは驚きだ。この戦いで日本兵は約千名が捕虜になった他はほとんどが戦死あるいは自決したという。それにしても、日本軍は少ない兵力ながらも、僅かな武器を有効に用いて、勇敢に戦ったのである。
また沖縄戦も同様に、米兵は日本兵の5倍の55万人の兵士を送り込んで戦ったのだが、8.5万人もの死傷者を出している。
このような日本軍の悲壮な抗戦は決して無駄ではなかったとも言える。もし硫黄島も沖縄も米軍の圧勝で終っていたなら、『ポツダム宣言』のような終戦条件の提示はあり得ず、わが国は本土決戦で焦土となり多くの人命が失われ、敗戦後はドイツなどと同様に国土が分断されていたに違いない。
アメリカでは1944年10月のレイテの戦いが始まる前あたりから、出来るだけ早く条件付き終戦に持ち込もうとする考えがでてきたようだが、硫黄島や沖縄の戦いにおける米軍の犠牲が大きかったことが、その流れを加速させたと言えるだろう。
山下祐志は上記論文でこう述べている。
「日本捕虜の意識調査をしていたジョン・エマーソンらのグループは、すでに1944年10月10日の時点で、日本の早期降伏をもたらすためには国体護持を認め、なおかつ日本人が将来に希望を持ち得るよう『無条件降伏以上のことを告げるべき』との報告書を提出しており、ザカリアス大佐の対日放送もこれに準じたものであった。ゆえにこの日、ジョン・マックロイ陸軍次官が、本土上陸作戦の代案を検討すべきだと主張した。彼の考えは、大統領が立憲君主としての天皇制の保持を認め名誉ある降伏を日本人に勧告する個人的メッセージを発表すべきだ、というもので、この勧告は、もし日本人が拒否した場合には原爆をみまう、という警告と組み合わせて出すのが効果的だとした。彼の提案に対してトルーマン大統領は、原爆にはいっさい言及することなく対日警告文をもっと練り上げるように命じた。まだ、原爆実験成功の確証がなかったことと、ソ連に秘密にしたまま原爆の研究・製造を進めるべきだ、という意見が関係者の間で支配的であったからである。ともあれ、この決定によって、後の『ポツダム宣言』が実現に向かって一歩を進めることになる。」(同上論文 p.14)
その後国務省内で、親日派と親中国派との係争があり、『ポツダム宣言』の公表文書が出来上がるまでにはかなりの紆余曲折があったようだ。
一方わが国にとっては、『ポツダム宣言』が連合国からの終戦条件の提示であったからこそ、受諾するかしないかで国論が2つに割れた。
もしこの文書が無条件降伏を要求するものであれば議論の余地は乏しく、陸軍主導で本土決戦に進んでいたものと思われるのだが、「国体護持」に希望が持てたからこそ、昭和天皇の『御聖断』によりわが国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、終戦することを選択したのである。
重要なポイントなので繰り返して言おう。
『ポツダム宣言』はわが国に無条件降伏を勧告した文書ではなく、戦争を終結させるために連合国からの条件を呈示した文書である。さらにこの文書は、わが国のみならず連合国をも拘束する双務的な協定である。だからこそわが国は、これを受諾したのだ。
アメリカもこの文書に拘束されることは、アメリカの公文書の中に記録がある。
「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものになる」(『アメリカ合衆国外交関係文書・1945年・ベルリン会議』所収第1254文書「国務省覚書」)
ところが『ポツダム宣言』の各条項を、わが国は遵守したのだが、連合国がそれを平然と無視し、わが国でやりたい放題の国際法違反を重ねたのである。
連合国の重大な違反行為をいくつか指摘しておこう。
例えば『ポツダム宣言』の第9項には、
「日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる。」とある。

このブログで以前書いたが、50万人以上の日本人が戦後ソ連に抑留された史実は、明らかにこの条項に違反する。ソ連は対日参戦と同時に『ポツダム宣言』の署名国に参加し、この「協定」の拘束を受けているはずだ。
また、わが国が『ポツダム宣言』を正式に受諾した後に、ソ連がわが国の北方領土を占領し不法占拠を続けている問題も、ポツダム宣言の第8項で、領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を承継しているという原則を侵害している。
また『ポツダム宣言』の第10項には、
「われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられることになる。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする。」とある。
しかし、昭和20年9月から占領軍による検閲がはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、出版物であれ放送原稿であれ私信であれ、たとえその内容が真実であっても、徹底的に排除された。
さらにGHQは西洋の世界侵略や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書など7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄させている。(GHQ焚書)
次のURLに新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかった。
http://www.tanken.com/kenetu.html
そもそも、占領軍がわが国に憲法を押し付けることは国際法違反である。
1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議で採択され、1907年の第2回万国平和会議で改訂された『ハーグ陸戦条約』第43条にはこう書かれている。
「国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。」
また、東京裁判では「平和に対する罪」「人道上の罪」という国際実定法上根拠のない「事後法」により訴訟が提起され、この裁判で多くの日本人被告が裁かれたのだが、この行為も明らかに第10項に違反している。

「A級犯罪」というのは「平和に対する罪」で、「A級戦犯」というのはこの罪を問われた日本人のことである。同様に「B級犯罪」というのは「通常の戦争犯罪」で、「C級犯罪」は「人道上の罪」であり、「A級」「C級」というのはいずれも「事後法」なのである。
そもそも戦争を起こしたことを犯罪とする法律は存在しない。
東京裁判において、連合国が「罪刑法定主義」の法治社会の根本原則に違反して、日本の指導者たちを「事後法」で裁いたことは、裁判らしき形式はとってはいるものの、実態は法律とは無関係の行為である。裁判は法に基づいて裁くものであって、感情や道義で裁くものではないはずだ。
百歩譲って「事後法」で裁くことを許容したとしても、「平和に対する罪」「人道上の罪」という罪状で戦争犯罪人を裁くのであれば、アメリカの原爆投下やソ連のシベリア抑留をなぜ裁かないのか。連合国側には適用されず、わが国にだけそのような罪を適用するのは、「法の下の平等」にも反する行為であり、実態は勝者の敗者に対する野蛮な報復行為でしかなかったのだ。
また『ポツダム宣言』第12項を読めば、現時点で米軍がわが国に駐留していることも協定に違反していることになる。
「前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意志にしたがい平和的傾向を持ち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収するものとする。」
これだけ重要な違反があるのに、なぜわが国の政治家はアメリカやソ連に対して言うべきことを言わなかったのかと誰しも思うところである。
しかし官僚には気骨のある者がいたようだ。以前紹介した江藤淳氏の『忘れたことと忘れさせられたこと』のp.231にこんな記述がある。
「占領中に、日本は『無条件降伏』していないという事実を隠蔽し、封殺しようとする圧力が存在したことについては、証言する人々がある。たとえば『終戦史録』第6巻の月報に執筆していている下田武三氏は『ポツダム宣言による戦争終結は、無条件降伏でないと国会答弁で喝破して、条約局長を罷めさせられた萩原徹氏』の例をあげている。」
萩原徹氏の国会答弁を「国会会議録検索システム」で検索しようとすると、該当部分が引っかからないのだ。占領軍から圧力がかかって速記録から削除されたのだろうか。
http://kokkai.ndl.go.jp/
わが国では戦後の長い間にわたり、「わが国は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して無条件降伏した」という謬説が国民に広められてきた。堂々と違反してきた連合国側に問題あったことは言うまでもないが、GHQの占領期が終わってからも、それに対して何も反論してこなかったばかりか、謬説を繰り返すばかりであったわが国の政治家やマスコミ・言論界の罪は大きいと思う。
連合国が重大な数々の違反行為を国民に隠蔽するために「無条件降伏」であることを国民に広めようとしたのだろうが、その安易な対応が「戦勝国はすべていい国だったが、日本だけが悪い国であった」というとんでもない歴史観を押し付けられることに繋がったのだと思う。
そのような歴史観は、戦勝国にとって都合の良い歴史観であることは当然だが、戦争を機に共産主義革命を起こそうとして数々の工作を繰り返した事実を隠蔽するのにも都合の良い歴史観でもある。アメリカだけでなく中国やわが国の左翼が、わが国の歴史教育の見直しの動きに過敏に反応する理由はそのあたりにあるだろう。
東京裁判で戦勝国11人の判事のうち、ただ一人被告全員の無罪を判決した、インド代表のパール判事はこう述べている。

「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼等の戦時謀略に誤魔化されてはならぬ。日本が過去の戦争に於いて、国際法上の罪を犯したという錯覚に陥る事は、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈な植民地民族に転落する。」
今のわが国は、パール判事の予言の通りの状態になってはいないか。そして今も身近な国から無理難題を押し付けられているばかりである。
今さらアメリカやソ連や中国を恨んでも仕方がない。世界の国はいずれも、いつの時代も、国益を考えて動いているだけのことである。わが国も現在および将来の国益のことをもっと考えて行動するしかない。当たり前のことだと思うのだが、史実に照らしてまた国際法や慣習に照らしておかしなことは、安易に認めてはいけないのである。そこを何度も認めてしまったからおかしなことが続くのだ。

問題は、わが国が国益を深く考えずに強大国に迎合し、それらの国々が押し付けてきた歴史を十分な検証もせずに受けいれて真実の解明を避けてきたわが国の姿勢であり、政治家やマスコミや教育界や官僚が長い間、国民に歴史の真実を伝えてこなかった姿勢なのである。
今からでも遅くはない。今後のわが国の再生のためには、一人でも多くの国民が歴史の真実を知ることに目覚め、偏頗な歴史観に騙されないことだ。そしてバカな政治家を選ばないことだ。
世論が動いて、政治家もマスコミも米中韓などに安易に迎合できなくなる日は来るのか。
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