三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか

この条約によって清国はわが国に
①朝鮮の独立
②遼東半島・台湾・澎湖島の割譲
③賠償金2億両(テール:当時の日本円で3億1000万円)の支払い
などを認め、わが国は戦勝の喜びに沸いたのだが、清国ではその逆で囂々たる反対で沸き返ったという。
中村粲(あきら)氏は清国の動きを著書でこう述べている。
「例えば、当時湖広総督(湖南・湖北両省を管轄する)の要職にあった張之洞は『速やかに英露独諸国に利益を与えて実力援助を乞うべし。重酬(手厚い報酬)を与え、決して惜しむべからず。英露独はいかなる報酬を与えても中国を距(さ)ること遠く、これを日患(日本による禍い)に比すれば甚軽なり』という驚くべき意見を上申している。英露独に望むままの報酬を与えて、その援助で日本の講和条約を破棄すべしというのであるから、日本を追い出すために狼を室に入れるようなもので、浅慮というほかない。だがこれが、李鴻章とともに清朝政治家の双璧と言われた人物の講和反対論なのであった。」(『大東亜戦争への道』p.62)
英国は、武力行使をしてまで日本を干渉することは出来ないとして外れて仏国が参加することになったが、下関条約調印から1週間もたたない4月23日に、露仏独の三国が、わが国が条約で獲得した遼東半島を放棄せよと「勧告」してきたのである。ロシア公使の勧告は「遼東半島を日本が領有することは清国の首都を危うくするのみならず、朝鮮の独立を有名無実とするものので、右は極東平和に障害を与えるものである」と述べ、その上でわが国に対して遼東半島の放棄を勧告するという内容で、仏独の勧告もそれと同様な文面であったようだ。(三国干渉)
中村粲氏の著書を再び引用するが、清国の張之洞に関する次の記述を読めば、日本人なら誰もが戦慄するに違いない。

「三国干渉が行なわれるや、張之洞は再び講和条約の廃約を皇帝に上奏した。…
曰く『三国に援を乞うならば空言を以てせず、必ず割地(領土割譲)を実利を以てすべし』と。『威海衛と旅順と台湾は倭(日本の蔑称)に与えるよりは露英に与うべし』とし、『倭を脅かして条約を廃約にした暁には、露には新疆あるいは天山南路か北路の数城を与え、英にはチベットを与えるべし』とまで進言した。
のみならず張は『露英いずれかの艦隊を以て横浜か長崎、あるいは直ちに広島を襲わんか、倭国は挙げて震駭(しんがい)すべし。故に露英一国の援助あらば中国は刀に血ぬらずして条約は自ずから廃滅すべし』との強硬論を主張した。(古川暁村『近代支那外交秘録』)」(『大東亜戦争への道』p.63)
このような清国の動きはあるものの、もともと列強諸国は清朝の衰退に乗じて、清国領土の分割を虎視眈々と狙っていたことを忘れてはいけない。清国の張之洞の戦略にロシアが飛びつくことは当然のことである。
佐々木揚氏の論文『露朝関係と日清戦争』がネットで公開されていて、そこにはこう書かれている。
「4月初め日本が遼東半島割譲を含む講和条約案を開示すると、4月8日ロシアは遼東半島放棄を日本に勧告することを英独仏に提案した。独仏はこれに同意したが、イギリスは対日武力行使はできぬという判断に立ち、これを拒んだ。ロシア政府は11日特別会議を開き、…この際ヴィッテ蔵相は、日本の対清戦争はシベリア鉄道建設の結果でありロシアを指向したものであると論じ、同鉄道の建設により近未来の清国分割競争でロシアが優位を占めるという観点に立って、今は日本に対し武力を行使してでも干渉を行ない、日本の南満州進出――これは早晩日露衝突をもたらす――を阻むべきであると主張した。会議はこの主張を採用して対日干渉を決定し、独仏の同意を得て、4月23日に三国干渉が実現する。」(『露朝関係と日清戦争』p.142)
佐々木氏は水面下で清国が動いたかどうかについては触れていないが、清国からの要請があったにせよなかったにせよ、ロシアが、下関条約が締結されるかなり前から水面下で動いていた事実は重要である。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=0CCkQFjAA&url=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fyk_namiki%2Fstock%2F050916%2Fjapan_korea_history%2Fcontemporary%2F03-0j_sasaki_j.pdf&ei=WW05U5C7Bs2ykgXRsoCgAg&usg=AFQjCNE1jnE5SKXm6pjQuj0u2ln5u9OO4g&sig2=XDLDLQ7CuL28S-I5oY6gLg&bvm=bv.63808443,d.dGI
以前このブログで、1885年(明治18年)に英国東洋艦隊が、突然朝鮮半島南方沖の巨文島(こむんど)を占領したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-308.html
この流れからすれば、英国もロシアの申し出を受けて遼東半島に拠点を作る話に乗ってもおかしくなかったし、実際に1895年(明治28)2月7日のロンドンタイムズの社説には「欧州諸国は、支那大陸の寸土たりとも、日本に許与すべきではない」と主張していたという。それが3月15日には遼東半島を手に入れる日本の講和条件を、「欧州人も認めてやらねばならぬ」と大きく論調を変えている。論調を変えたのは、英国がロシアから提案のあったわが国に対する共同干渉の提案を拒んだのと同じ理由のはずだ。

菊池寛はこう解説しているが、その通りだと思う。
「その理由はどこにあるか、英国の現実、実利外交というものを、われわれはここにも見なければならない。
英国は初め、日本の勃興を、英国東亜政策の妨害者として、これを抑えようとした。ところが、次第に日本の進出より、露国が南下して北部支那に勢力を得ることの方が恐ろしいと感じたのである。戦争の進展とともに、略々明らかとなった新興日本の実力を利用して、この際露国の南下に備えた方が、得策であると考えたのである。
ロシアはただ支那にたいしてばかりでない。英領印度を常に北から脅かしている。英国の勢力下にある近東アフガニスタンに於いては、英露の角逐戦はすでに年久しい。バルカン地方では如何。ここでもトルコなどを中心に、英露はクリミヤ戦争をやっている。
英国としては、その世界帝国完成のため、どうしてもロシアの鋭鋒を、あらゆる形で破砕しなければならぬ。その一つとして採りあげられたのが、極東における新興日本への接近だったのである。これが後の日英同盟の起点になるのである。
だから、日本に対する共同干渉案に対して、英国閣議は次のような回答を露国に与えている。
『英国の東亜における利害は、日本の講和条件によって損害を蒙ることはないから、共同提案には参加せぬ。』」(『大衆明治史』p.196-197)
英国が「紳士の国」であったから、わが国を干渉しようとするロシアの誘いに乗らなかったのではない。英国は極東利権を守るために、わが国を英国の番犬にしようとしたと言えば言い過ぎであろうか。
また、わが国の教科書などには、露仏独の三国干渉に対して、「わが国は戦うだけの力がなかったのでやむなくこの勧告を受け入れた」と書かれているのだが、こんな重要な事が簡単に決まるはずがないのだ。実際にはわが国の政府内では激論が交わされていたのだが、なぜか、その内容がほとんど現在の日本人に知らされていないのだ。では、いったいどんな議論があったのか。
もちろん当時のわが国の連合艦隊では露仏独の艦隊に到底対抗することは出来ず、さらに陸軍の精鋭は遼東半島にあって国内は空っぽであったので、もし、三国連合艦隊に守られてウラジオストックからロシアを中心とする軍隊が侵攻してきたとしたら、わが国の国土防衛は不可能であった。
とは言いながら、わが国が三国の圧力に屈して簡単に遼東半島の放棄を決めては、国内世論が許さないことは目に見えていた。
4月24日に伊藤博文は、山縣、西郷その他の軍幕僚を集めて広島で御前会議を開き、列国会議を開いて遼東半島問題を付議しようという結論を出している。翌朝伊藤は、舞子で療養中のために御前会議に参加できなかった陸奥宗光を訪ねている。陸奥は伊藤らが出した御前会議の結論に反対して自説を述べているのだが、これがなかなか面白い。

菊池寛の文章をしばらく引用する。
「『…列国会議招請とは何です。仮に会議を開いたとしてみる。彼等はめいめい自国の利害を第一に論争するからその結果は遼東半島放棄だけでは済みませんぞ。台湾も支那へ還せと言い出すに決まっておる。償金も多すぎると文句を言うだろう。これでは藪をつついて蛇を出すようなものです。』
蒼白の顔を歪めながら、陸奥は最後に、
『しかしここに切札があります』
と言って、露独仏の三国に対して、英米伊の三国を誘致して、三国を牽制するの策を打ち明けた。
そして陸奥は病床から、一切の外交を指揮することにして、英国公使加藤高明、駐伊公使高平小五郎の活躍を命じた。
この際、最も日本に好意を示したのは伊太利で、自ら進んで英米に働きかけ三国干渉の不合理を是正しようと試みてくれたが、英国は絶対にこの事件には介入せずの態度のため、伊太利一国ではどうすることも出来なかった。
こうしている間にも、露国の態度はますます高圧的で、着々とその戦備を整え、ウラヂボストックを臨戦地と宣言し、黒龍江地方に出師準備を命じ、必要の場合には、日本人の立退を命ずる用意ある旨を宣言するに至った。
ここに至っては、万事休すだ、外交手段には一定の限界があるのである。背後に厳然たる軍備のないとき、陸奥の神謀も、結局は悪あがきに過ぎない。
5月5日、…回答が三国に向かって発せられた。
『日本帝国政府は、露独仏三国の友誼上の忠告に基づき、奉天半島を永久に占領することを放棄するを約す』
明治天皇は5月10日、大詔を渙発し、遼東半島還付を国民に告げたもうた。国民は等しく悲憤の涙にくれて、臥薪嘗胆を誓うの外はなかったのである。
遼東半島還付のことが知れると、国民は囂々(ごうごう)として、伊藤陸奥の外交の失敗を難じて止まず、長く議会の問題となって残った。また山縣有朋は、勅命を奉じて5月1日には旅順に渡り、現地軍人の慰撫にあたったほどである。」(『大衆明治史』p.201-202)
陸奥は、英米伊と交渉して露独仏を牽制するという策がうまくいくとは考えていなかったであろう。しかし、陸奥が伊藤に言いたかったのは、最後の覚悟をする前に、八方手を尽くして解決の努力をしなければならないということだった。
陸奥は、病床から指示を飛ばして、駐露、独、仏の日本大使に電報させ、それぞれの国の説得に尽させる一方、英米伊の三国にも事情を説明して、何らかの援助を得られるか打診している。結果としては、陸奥の英米伊三国が露独仏の三国を牽制する案は実現しなかったのであるが、陸奥自身はこの結果について『蹇蹇録(けんけんろく)』に、こう記している。
「…事の成敗はともかくも、この際我が在外各外交官の苦心努力は決して徒労に非ざりし。吾人はよって以て露、独、仏三国連合が如何なる原由に成立せしかを知得し、よって以てその干渉の程度は如何に強勢なるかを知得し、また他の第三者たる諸国がこの事件に関する意向如何を確知し、かつ仮令(たとい)その実力上の強援を獲る能(あた)わざりしも、なおその徳義上の声援を博し、隠然露、独、仏三国を牽制し得たり。」(岩波文庫『蹇蹇録』p.317)

さらに陸奥の『蹇蹇録』には重要な事が書かれている。
「…この頃清国は既に三国干渉の事を口実とし、批准交換の期限を延引せんことを提議し来たれり。而して清国がこの提議をなせしは全く露国の教唆に出でたることはすこぶる信拠すべき事実あり。かかる形勢を何時までも継続するときは、ここに外交上両個未定の問題を錯雑せしめ、遂にいわゆる虻も蜂も捕捉し得ざるの愚を招くの虞(おそれ)あり。」(同上P.320)
冒頭で下関条約を4月17日に調印したことを書いたが、なんと清国は調印をしたこの条約の批准を延期することを提議してきたというのだ。
批准とは、全権委員が署名調印した条約を、締結国の元首その他国内法上定められた者が確認をする手続きであり、批准により当該条約に拘束されることへの同意を最終的に示すことなのだが、この手続きを踏まないとこの条約の効力が生じないことになる。すなわち、朝鮮の独立も、台湾・澎湖島の割譲も、賠償金の支払いも、すべてが宙に浮いてしまうことになる。清国はそれを狙って三国干渉を仕掛けようとしたのではないか。
わが国は5月4日の閣議で、露独仏三国に対しては譲歩をしても、清国に対しては一歩も譲らない方針を固め、同日「日本は、三国の忠告にもとづいて遼東半島の永久所有を放棄することを約束する」という簡明な覚書を作り三国に伝達し、5月9日にロシアよりわが国の覚書を是とする回答を受領して、わが国が攻め込まれるという危機がようやく去ったのである。
清国は批准書の交換をできれば引き延ばしたかったようだが、遼東半島が還付する旨の確約があり、休戦期間が終わって日本軍の一斉攻撃が再開される状況の下ではどうしようもなく、さらに露独の両公使から批准書交換は予定の日程でやるべきであるとの警告を受けて、5月8日に予定通り批准書の交換が行われたのである。
もしわが国が、三国干渉直後に露独仏や英米伊と交渉をなさず、早々と露独仏の要求を呑んでいたとしたら、清国は批准書の交換をしたであろうか。また国民はそのような政府の軟弱な外交姿勢を許しただろうか。
この時代の外交をリードしたのは陸奥宗光だが、露独仏の三国干渉を受けながら、清国からの戦勝の結果を失わず、かつロシアとの戦争を避け、さらに国民世論を納得させるという交渉はかなり難易度が高かったことは間違いがないのだ。これを切り抜けた外交力・政治力はもっと評価されても良いのではないかと思う。
しかしながら、北京侵攻さえ望んだわが国の世論が、屈辱の三国干渉に容易に納得するはずがなかった。誰が根回ししたかはよく分からなかったのだが、5月10日に明治天皇が「遼東還付の詔勅」を出しておられる。この日は日清両国が下関条約の批准書を交換した翌々日であり、わが国が遼東半島を還付する旨の覚書を露独仏三国に出してその回答が来た翌日でもある。かなり前から準備していなければこのようなタイミングで詔勅を出すことは難しいと思われる。
『近代デジタルライブラリー』の次のURLに、この「遼東還付の詔勅」の画像を見ることが出来る。
http://www.jacar.go.jp/nichiro/djvu_doc/a03020190800/directory.djvu

この詔勅で、明治天皇自らが「深く時勢の大局に見、微を慎み漸を戒め、邦家の大計を誤ることなきを期せよ」と、激昂した世論を鎮められ、国民に隠忍自重を諭されたのである。
今の時代はこのようにはいかないとは思うが、この時代は天皇陛下の詔勅は人心を鎮静化するのに甚大な効果があったようだ。
例えば大阪朝日新聞は「大御心の深きに対し奉り、ただ血涙あるのみ。読み終わりて嗚咽(おえつ)言う所を知らず。帝国臣民たる者、宜しく沈重謹慎、以て他日の商定を待つべきのみ」と書き、福沢諭吉は時事新報上で「世界の勢いに於いて今はただ無言にして堪忍する外あるべからず」と書き、この詔勅の論旨と歩調を合わせている。
その後わが国は軍事力強化をはかることとなり、一方の清国はロシアの満州支配が進み、さらに西洋列強によるあからさまな利権争奪が始まって、急激に衰退していくことになる。
清国の悲劇は、「夷を以て夷を制す」の術策で露独仏の三国を利用したことから始まったと考えて良いのではないだろうか。
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