日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断
ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷なものであった。

そもそも、バルチック艦隊は出航して間もなくトラブルを起こしている。
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、佐藤市郎氏の『海軍五十年史』という本が公開されている。そこにはこう書かれている。
「出発前より、日本軍は丁抹(デンマーク)海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艦艇がひそんでいるとかと、いろいろ噂がとんでいたので、悲壮な決意をもって壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思いであった。果たして北海航路の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲(めくら)滅法に砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあい、水線上に四弾をうけるという悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1872367/120
要するにバルチック艦隊の構成は世界最強を誇っていたが、極東への出航が急遽決定されて農民らを徴集し5カ月程度の準備期間があったものの、彼らの多くは戦闘員として充分に訓練されたレベルではなかったのである。
英国は自国の漁船が砲撃されたことを強く抗議し、後に賠償金を勝ち取っただけではとどまらなかった。菊池寛の『大衆明治史』によると、
「英国は、とにかくバルチック艦隊は危険だという口実で、巡洋艦10隻を派して、艦隊の後を追って、監視の目を光らせて、スペイン沿岸まで併航した。もちろん、同艦隊の編成と行動は、詳細に英国政府と、同盟国日本政府に打電されているのである。」(『大衆明治史』p.345)と書かれている。
また、当時の艦船の燃料は石炭で、燃料効率が悪かったことから、航海には大量の石炭補給を何度も何度も繰り返さねばならなかったということを知る必要がある。
石炭資源開発株式会社の大槻重之氏の『石炭をゆく』というサイトには、
「艦隊の一日の石炭使用量は三千トン、フルスピードの場合は一万トンという数字が記録されている。石炭貯蔵庫の容量の小さい船は数日おきに補炭しなければならず、その都度、大船団は停滞をよぎなくされた。
石炭積込み作業は水兵に大変な労力負担になった。船間に渡した板の上を石炭籠を天秤でかついで運ぶ。作業のため波の小さい日を選ぶということは必然的に炎天下の作業になる。何れにしろロシア水兵が慣れているはずのない熱帯の海上である。熱病で死ぬ水兵が相次いだ。」と書かれている。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page141.html

この文章を読むと、バルチック艦隊の水兵は燃料である大量の石炭を運ぶという重労働を海の上でやっていたことが分かるのだが、当時の世界航路の石炭保有港は英国が支配しており、遠大な航路の大半は英国海軍の勢力下にあった。英国は日本の同盟国であるから、バルチック艦隊は英国が支配する港では石炭を補給することが出来ず、公海上で石炭船を探し求めての航海が続いたようなのだ。当然良質の石炭は手に入らない。
また、バルチック艦隊の航路を見るとスエズ運河を通った船ルートと、アフリカ南端の喜望峰を経由したルートと、二手に分かれているのにも驚く。
燃料効率が悪くかつ、燃料が手に入りにくかったのだから、最短距離で進むことが優先されるはずなのだが、二手に分かれたのは、吃水の深い戦艦は当時のスエズ運河を通ることが出来なかったということがその理由のようだ。
ロシアの同盟国であるフランス領マダガスカル島のノシベ港でバルチック艦隊は合流し、物資の補給を行なった後1905年3月16日にノシベ港を出港したが、この時点では乃木軍の活躍で既に旅順要塞は陥落しており、旅順港に停泊していた艦船も壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の目的達成は困難な状況になっていた。
そのうえ、インド洋方面ではロシアの友好国は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水・食料・石炭の不足はかなり深刻であったという。
そして1905年4月14日に同盟国フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾に投錨し、そこで石炭などの補給を行ない、5月9日にはヴァンフォン沖で追加に派遣された太平洋第三艦隊の到着を待ち、いよいよウラジオストックに向けて50隻の大艦隊が出航した。
『近代デジタルライブラリー』に小笠原長生 著『撃滅 : 日本海海戦秘史』という本がある。
なぜバルチック艦隊の艦船が簡単に沈没したかについて書かれているが、その理由は、隣の国の客船セウォル号沈没とよく似たところがあって興味深い。
「…5月23日は早朝より各艦に最後の石炭搭載を行わしめ、出来うるだけ多量に積み入れるよう命令したので、中には定量の倍以上にも及んだものがあった。これがのち激戦となった際、脆く転覆する艦が続出した一つの原因をなしたのである。露国壮年将校中の腕利きといわれたクラード中佐は、その著『対馬沖会戦論』中に、
『我が良戦艦スウォーロフ。ボロヂノ。オスラービヤの三隻は砲火を以て撃沈せられた。かくの如きは近世の戦闘において甚だ稀有のことであるが、その原因たるや明白だ。即ちこの三艦は過大の積載をなし、復元力が欠乏していたからである。それも静穏の天候であったなら、ああまでならなかったろうが、波浪高く艦隊が動揺したので、水面近い弾孔より自由に浸水した結果だと思う。』
と論じている。のみならず積載過多のため、水際の装甲鈑は水中に没し、全く防御の役に立たなかったことも見逃せない一事であろう。何にしてもこうまですること為すこと手違いになってゆくのは、悲運といわば悲運のようなものの、国交に信義を無視した天譴ではあるまいか。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/56

バルチック艦隊が石炭の調達に苦労した話は以前に読んだことがあるが、イギリスだけでなくアメリカも、バルチック艦隊に物資を供給した国に抗議した記録があり、そのためにバルチック艦隊の兵士はほとんど陸上に上がることが出来ず、海上での燃料運搬作業などで労力を削がれ、半年にもわたる大航海に相当疲弊していたことは重要なポイントだと思う。
ここで日露の戦力を比較しておこう。
日本海軍は、戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12他
バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6他
で戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。
もし日本海軍が、この艦隊を一旦ウラジオストックに帰港することを許してしまえば、ロシア軍は万全の準備をして戦えるので、戦艦が日本軍の倍もあるロシアに分があったであろう。
日本海軍としては、バルチック艦隊がウラジオストックに戻る前に決戦に持ち込むことができれば、相当疲弊した艦隊と戦うことになるので、緒戦の優勢が期待できる。
しかし、この時代には今のレーダーのようなものは存在しなかった。バルチック艦隊が今どのあたりを航海しているかはつかめず、ウラジオストックに戻るのに、対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのかもわからなかったのである。
そこでもし、それぞれの可能性を考えて日本海軍の戦力を分散させて数ヵ所で待ち構えていたとしたら、日本軍が勝利できなかった可能性が高かったと思う。

ここが東郷平八郎の偉いところだが、東郷は、異常な長旅の果てにわざわざ太平洋側を経由する可能性は低く、バルチック艦隊の戦力に自信があるならば必ず最短距離の対馬海峡を通ると確信し、全艦が対馬海峡で待ち伏せしていたのだ。
先ほど紹介した『撃滅 : 日本海海戦秘史』には、日本軍が対馬海峡に全勢力を集めていることが想定外であったとのロシア側の感想が紹介されている。
「…まさかに宗谷・津軽の二海峡をあれ程思い切って放擲(ほうてき)し、朝鮮海峡にのみ全勢力を集めていたとは思わなかったらしい。クラード中佐はこれに対し、『最も驚くべきは、我が艦隊にあって全日本艦隊と遭遇するが如きは、全く予想外で不意に乗せられたようなものだ。と言うている事だ。』と冷評し…」と書いてある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/60

そして、運命の5月27日の朝を迎えた。
巡洋艦から敵艦発見の連絡を受け、東郷平八郎は午前6時21分に、「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。

両艦隊は急速に接近し、距離8000mにまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ、丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。
軍艦は、その構造上、敵は正面にいるよりも左右どちらかにいた方が、目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところであり、当然命中精度は低い。
この時東郷平八郎司令長官の作戦担当参謀であった秋山真之は、自著の『軍談』にこう書いている。この本も『近代デジタルライブラリー』で公開されている。

「敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三四分遅れて二時十一分頃であったと記憶している。この三四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。…午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏(か)ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941857/54
海戦は実はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。
一方日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。(平間洋一『日露戦争が変えた世界史』による)
結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。
日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。
ところで、日本海海戦で命令に違反して戦場から離脱してマニラに向かったロシアの巡洋艦が3隻あったという。そのうちのひとつが「アウロラ」である。
この記事の最初に、バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出発した直後に英国漁船を誤爆したことを書いたが、その時に同志討ちにあい、水線上に味方から四弾をうけたのがこの「アウロラ」で、日本海海戦の時は艦長が戦死するなど損傷を受けたのちに逃亡して、中立国であるアメリカ領フィリピンに辿りつきマニラで抑留されたのだが、この巡洋艦のその後の運命が興味深い。
1906年に「アウロラ」はバルト海に戻り、1917年に大改装のためにペトログラードに回航されると、二月革命が起こって艦内に革命委員会が設けられ、多くの乗組員がボルシェビキに同調したそうだ。11月7日(露暦10月25日)には臨時政府が置かれていた冬宮を砲撃し、さらにアウロラの水兵たちが、赤衛隊や反乱兵士とともに、冬宮攻略に参加して10月革命の成功に寄与したという。

1923年には革命記念艦に指定されて、ロシア革命のシンボルのひとつとしてサンクトペテルブルグのネヴァ河畔に今も係留・保存されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)
一方、日本海海戦で東郷平八郎が座乗した、連合艦隊旗艦の戦艦三笠はその後どういう運命を辿ったのか。
1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、1923年の関東大震災で岸壁に衝突した際に、応急修理中であった破損部位から浸水しそのまま着底してしまう。
解体される予定であったが、国内で保存運動が起こり1925年に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。
第二次大戦後の占領期には、ロシアからの圧力で解体処分にされそうになったが、ウィロビーらの反対でそれを免れた後、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置されて、一時は「キャバレー・トーゴー」が艦上で開かれたという。
その後、物資不足で金属類や甲板の多くが盗まれて荒廃する一方だったが、英国のジョン.S.ルービン、米海軍のチェスター・ニミッツ提督の尽力により保存運動が盛り上がって昭和36年(1961)に修理復元され、現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として公開されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
わが国の歴史遺産として幾世代にもわたって残されるべき船が、占領軍によって娯楽施設にされその後荒れるに任されたことは、日本人の誇りを奪うために占領軍が押し付けた、日露戦争の英雄である乃木や東郷を顕彰しない歴史観と無関係ではなかったと思うのだ。

「三笠」は日露戦争に勝利しわが国の独立を守った象徴として有志者により護られてきて、現在は三笠記念会メンバーの会費と見学者の観覧料により維持・管理されているのだが、観覧者が少なくては、それも難しくなる日がいずれ来るかもしれない。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa_hozonkai/index.html
日本海海戦にもしわが国が敗れていたら、日本海の制海権がロシアに奪われて、満州や朝鮮半島だけではなく日本列島の北の一部も、ロシアの領土になっていておかしくはなかった。今の多くの日本人は、われわれの祖先が命を懸けて戦って勝利し、わが国を守ってくれたことに感謝することを、忘れてしまってはいないだろうか。
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【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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