日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
このブログで、今まで何度か明治初期に仏教施設が徹底的に破壊された「廃仏毀釈」のことを書いてきた。明治までは「神仏習合」があたりまえで、多くの有名な神社に仏像・仏具や仏塔が存在していたのだが、明治維新後にそれらのほとんどが破壊されるか、寺院に移されるか、売却されてしまった。
ところがこの日吉神社では、当時の住民たちの努力によって三重塔と仏像が残されていることに興味を覚えたので、旅程の中に組み入れていた。
日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられているが、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社としてこの日吉神社は発展したという。
参道の左右にはむかし寺院があったことを示す石碑がいくつか建てられていて、参道を過ぎると右手に均整のとれた三重塔が見えてくる。

この三重塔は永正年間(1504-21) 斉藤利網により再建され、天正13年(1585年)稲葉一鉄が修造したものだそうだ。 室町時代の建築様式を伝える貴重なもので、国の重要文化財に指定されているという。神社の立札によると、斉藤利網という人物は春日局の父である斎藤利三の伯父で、稲葉一鉄は春日局の叔父になるのだそうだ。

正面には拝殿があり、有名な「神戸山王まつり」の時には神輿が7基安置されるのだそうだ。中央の本殿は県の重要文化財に指定されている。
また玉垣中央石段の左右には百八燈明台(県重要文化財)があるが、これは本来寺院にあるもので、神社の社前にあるものとしては珍しいという。
社殿の東側に収納庫があり、その中には平安時代の木造十一面観音坐像2体と、木造地蔵菩薩坐像、安土桃山時代の狛犬一対が納められていていずれも国の重要文化財に指定されている。
これらの文化財は普段は公開されていないようだが、岐阜県安八郡神戸町のホームページに仏像などの画像が紹介されている。仏像の印象は、どちらかというと純日本的で、まるで神像のようである。
http://www.town.godo.gifu.jp/event/event15.html
神仏習合の頃の寺社がどのようなものであったのかは、今は知ることが難しくなってしまったが、神戸日吉神社は、境内にあったという山王社僧八坊は失われたものの、三重塔や神像・仏像とともに古いものを良く残しており、少しばかり神仏習合の名残を感じさせてくれる神社である。
次いで大垣城(0584-74-7875)に向かう。日吉神社からは8km位なので20分もかからない。

大垣城の築城については諸説があるが、天文4年(1535)に宮川安定によって本丸と二ノ丸が建てられたとされ、天守閣については慶長元年(1596)に城主の伊藤祐盛によって造営され、その後改築されたとされている。

今回の旅行で初日に訪れた郡上八幡城は、この大垣城をモデルに昭和8年(1933)に木造で再建されたものであるが、大垣城はその後昭和11年(1936)に国宝指定を受けて郷土博物館として親しまれてきた。しかしながら、昭和20年(1945)7月29日に戦災で惜しくも焼失してしまい、現在の天守閣は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。上の画像は戦前に撮影された大垣城だ。
慶長5年(1600)に石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため美濃国に入り、時の大垣城主・伊藤盛宗が豊臣家家臣で西軍に属していたので、石田三成は大垣城を西軍の本拠地とし、全軍が集まるのを待っていた。ところが、東軍の進出が早く、美濃の諸城を攻略して、9月14日に東軍の総大将である徳川家康が、大垣城に近い美濃赤坂の安楽寺に到着した。
事態を憂慮した石田三成の家老、島左近が東軍に奇襲攻撃を仕掛けることを進言。一計を案じて東軍を誘い出して、予め配置した伏兵と呼応して囲い込んで西軍が勝利している。(杭瀬川の戦い)
http://yss-mms.jugem.jp/?eid=81
しかし、東軍徳川方の作戦におびき出されて、西軍は大垣城に7500の兵を残して関ヶ原に移動し、9月15日には「関ヶ原の戦い」で東西両軍が戦うことになるのである。

大垣城から10kmほど西に走ると、美濃国一宮の南宮(なんぐう)大社(0584-22-1225)がある。
この神社の社殿は「関ヶ原の戦い」の戦火にあって焼失してしまったのだが、三代将軍の徳川家光が寛永19年(1642)に現在の社殿を造営したという。上の画像は楼門(国重文)。下の画像は拝殿(国重文)だが、社殿や摂社の多くが国の重要文化財に指定されている。

この南宮大社から900mほど西に行くと朝倉山真禅院(0584-22-2212)という寺がある。
歴史を調べると天平11年(739)の開基で、象背山宮処寺と号したと伝えられている。
その後延暦年間に、南宮社と宮処寺とを習合して、南神宮寺と号したという。
この寺も関ヶ原の戦いで大半が焼失したのだが、寛永16年(1639)に徳川家光が再建・造営を命じて寛永19年に復興されたとある。

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに、江戸後期の「美濃国南宮社之図」が紹介されている。上の画像はその中心部分を拡大してみたのだが、この図では真禅院は南宮大社のすぐ北にある。また三重塔は南宮大社のすぐ南に描かれている。どうやら真禅院は、明治の神仏分離により、南宮大社のかなり西側に移転されたようだ。

上の画像が国の重要文化財である本地堂。御本尊は、神仏分離前は南宮大社の本地仏であった無量寿如来だそうだ。
下の画像は三重塔で、これも国の重要文化財である。他にも、梵鐘(国重文)、木造薬師如来立像(県重文)、鉄塔(県重文)など貴重な文化財を残している。

minagaさんは、自身のサイトでこう解説しておられる。
「南宮社執行真禅院秀覚法印が、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに現在地に移建する。
蓋し明治の神仏分離(神仏判然)の時、自ら進んであるいは殆ど抵抗もせず還俗神勤し、堂塔や仏像・仏画・経典・仏器などを自ら進んであるいは手をこまねいて破壊あるいは売却に任せた寺院・僧侶が多い中で、 真禅院秀覚及び村人の『見識』には大いに敬意を払うべし。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_nagusan.htm
minagaさんが指摘しておられる通り、廃仏毀釈の時に多くの寺院の僧侶はほとんど抵抗もせず、そのためにわが国の貴重な文化財が数多く破壊され散逸してしまったのだが、この真禅院では住職や村人たちが、文化財の破壊を免れるよう努力したことが記録に残されているようだ。

昼食を済ませて、最後の目的地にある関ヶ原に向かう。最初に訪問する「関ヶ原町歴史民俗資料館」(0584-43-2665)へは、真禅院から8km程度である。
この資料館では、「関ヶ原の戦い」を再現したジオラマや、東・西両軍の武将にかかわる資料が展示されているので、最初に訪問して戦いの全体像を掴むのに良い。
また車で古戦場を周ろうと考えている方は、田舎の道なので細い道が多く、どの道順で行けばよいかなどを予め聞いておくことをお勧めしたい。
関ヶ原の戦いについてはいずれ書く機会があると思うが、簡単に戦いの流れを記しておきたい。

慶長5年(1600)9月15日、天下の覇権を狙う徳川家康率いる西軍と、それを阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍がこの関ヶ原を舞台に、天下分け目の戦いを行なった。
当日は朝から深い霧で覆われていたが、それが少し晴れた午前8時頃に東軍・井伊直正によって決戦の火蓋が切って落とされた。
西軍8万4千人に対し、東軍は7万4千人で、陣形においても西軍は山や丘を見事に押さえて有利な陣形にあったのだが、小早川秀秋の寝返りのあと、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り、戦局が一変してしまう。
西軍の小西行長隊、宇喜多秀家隊の敗走のあと、石田三成隊も敗走し、決戦は開始より6時間余りで決着し、東軍側の勝利に終わっている。

資料館のすぐ近くに陣場野公園があり、ここが徳川家康最後陣地(国史跡)で、西軍将士の首実検をしたところでもある。

この場所から車に乗って、陣場野交差点を右折し、丸山交差点を超えると小高い山に岡山烽火場が見える。この見晴らしのよさそうな場所で黒田長政と竹中重門が陣を置いたという。

車をUターンして、陣場野交差点を左折し、1筋目を右折すると、関ヶ原決戦地(国史跡)が見えてくる。
この近辺では東軍の諸隊が石田三成の首を狙って激戦が繰り広げたとされる。

その北800mほどのところに笹尾山の石田三成陣地(国史跡)がある。
この場所は関ヶ原を一望でき、山麓には島左近の陣跡がある。5分程度坂を登ればこの場所に到着する。

笹尾山からほぼ南の位置に開戦地(国史跡)がある。地形を頼りに細い道を走って辿りついた。東軍の先鋒は福島正則隊と決まっていたのだが、決戦の火蓋を切ったのは井伊直正隊で宇喜多秀家隊に対して発砲したのがこの場所だという。
先に進めば宇喜多秀家の陣跡や、大谷吉継の陣跡と墓などがあるのだが、3日間の旅で結構疲れたので、最後に不破の関資料館(0584-43-2611)に向かうことにした。

672年に、関ヶ原を舞台に起きたもう一つの「天下分け目の戦い」があった。
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗を翻した、「壬申の乱」である。
戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇となり、673年に飛鳥御原宮を守るために、この地に「不破の関」を置き、さらに鈴鹿関、愛発関(あらちのせき)を設置したとされている。
そして、この不破の関を境に、現在の「関東」「関西」の呼称が使われるようなったことは有名な話だ。

この資料館の裏に不破関跡があるが、発掘調査によると、昔は広さが12万㎡にも及び、不破関資料館もその敷地の中だったという。
不破関跡の庭に松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「秋風や 藪も畠も 不破の関」
芭蕉がこの地を訪れたときには不破の関は跡形もなく、藪や畑になっていたことを詠んだ句なのだそうだ。芭蕉も旅に出る前には、結構歴史を学んでいたことがわかる。
今回の岐阜旅行も、観光地としてはあまり有名でないところをいくつか巡ってきた。
何も知らなければただの田舎の風景があるだけの場所も、歴史を調べてからその地を訪ねると、芭蕉のように句は詠めないが、旅行が少しばかり味わい深くなるものである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。
16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html
伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html
メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html
教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html
伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html
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