水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯
昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。

上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。

この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日光院という寺に移され、明治維新で名草神社の所有となったことを以前このブログで記事に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html
なぜ出雲大社が三重塔を手放したかというと、寛文の大造営の時に、宮司の千家尊光が松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨んで出雲大社の神仏習合は廃されることとなり、三重塔、経蔵、鐘楼が境内から撤去されることに決定したからである。
次のURLにそれぞれの建物や仏像仏具がどの寺に移されたかが記載されているが、この記事によると、出雲大社の梵鐘は福岡の西光寺という寺に今も残され、国宝に指定されているという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/myoken42.htm
このように「神仏分離」は神と仏を分離することであり、仏教施設や仏像仏具を徹底的に破壊する考え方ではないはずだ。しかるになぜ、明治維新期の「神仏分離令」に過剰に反応して、「廃仏毀釈」という異常な破壊行為が行なわれたのか。
いろいろ調べていくと、このような仏教施設などの破壊行為は明治維新で初めて行われたのではないようだ。
前回の記事で紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』には江戸末期の水戸藩の「廃仏毀釈」の経緯が記されているので引用させていただく。文章の中の「義公」は水戸藩・二代藩主で「水戸黄門」としても名高い徳川光圀(1628~1701)のことである。

「義公が寺院を整理し、僧侶を淘汰せるは、寛文5年(1665)に始まる。この年、寺社奉行の新職を設け、阿原景隆、山縣元纜の二名をこれに任じて、国内の寺社、僧尼、巫祝(みこ)を調査せしめ12月始めて、寺社の法令を頒(わか)ち、翌6年(1666)8月の法令に曰く
『総て諸宗とも、在々所々に至るまで、その所々に過て、小寺多く有之に付、檀方みな、分け散りて、古跡、大地、衰微に及び、由来ありし寺にも、渡世成り難く間、然るべき学僧は住居せず、況や其外の小寺共に、無智、無下の愚僧のみにて、法外の営仕る僧どもは、俗ともしらず、民を迷わし、国の費をなし、風俗の禍とも成り候に付、無益の小寺ども、このたびご穿鑿(せんさく)を遂げ、破却仰せ付らるものなり。…
右の通り、破却仰せ付らる小寺ども、家財の儀は、坊主に下され候。路錢にし、何方へも心次第に参り候とも、又還俗致したき候者は、渡世の品により、居所仰せ付けられ下され候事。寛文6年午8月』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/34
徳川光圀公はこの改革で2千以上の寺院の整理を行ない、同時に神仏混淆をも禁じたという。
「…当時の神社は、いずれもみな神仏混淆の状態で、その神体が仏像であることが多かった。義公はこれを非なりとして、悉く改めて神鏡、又は幣を神体になさしめた。なお天満宮の社殿に、あらぬ装束したる木造の祀れるを改め、有職家に命じて、衣冠束帯の制を調査せしめ、さらに菅公(菅原道真公)の影像の伝われるを比較研究し、その宜しきに随い、新たに造作して、各社に安置せしめた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/35
しかし、徳川光圀公は寺院を整理しただけではない。一郷一社の制を定め、正しき由緒ある神を祀ってその地の鎮守として、「淫祠」と判定された神社も3千以上整理している。
一方、光圀公の生母、谷氏の墓のある久昌寺の移築や、祇園寺などいくつかの寺を新築しているし、仏像などを寄付したり修理したりしているという。
羽根田氏は徳川光圀公の宗教政策をこう纏めている。
「義公の期するところは、決して廃仏ではなく、ただその神祇たり仏道たるを問わず、いずれもその純一ならんを欲し、その伝説の誤れるはこれを訂し、古式に反するはこれを復し、かくて迷信を排して、国民の信仰を純潔ならしめんとするにあるや、疑うべからずである。」
分かりやすく言えば、当時は新興のいかがわしい宗教施設が藩内の各地にあり、また堕落した仏教僧が少なからず存在したのでそれらを整理し、由緒正しい社寺を残したということなのであろう。

また水戸藩は代々学問を尊び、徳川光圀公は『大日本史』の編集を始めたことが教科書にも書かれていたが、その後水戸藩が財政難に陥り、蝦夷地にロシア船が出没するようになると、次第に水戸藩の学問が藩内外の諸問題に意見を出すようになっていく。
水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は、会沢正志斉や藤田東湖らを重用したというが、どちらも筋金入りの排仏論者であり尊王思想家であった。

【藤田東湖】
例えば天保2年(1831)に藤田東湖らは藩主に対して「大筒など御指しつかえも御座候わば、処々濡仏、灯籠その他無用の仏具類御取り潰し、御張り立てに相成り候わば、一廉の御用に相成り候のみならず、民心の惑をも破り、旁(かたがた)一時の良策にもこれあるべし…」などと意見具申している。要するに、大砲を作るのに梵鐘や仏像などを鋳つぶして使えと言っているのだ。
この時は水戸藩内に於いて反対意見も出たようだが、のちに第9代藩主・徳川斉昭は、藤田東湖らの意見を取り入れて大砲を製造している。
岩波文庫に山川菊枝が著した『覚書 幕末の水戸藩』という面白い本がある。そこに当時の水戸藩の廃仏毀釈の話がでている。

「 (藤田東湖の)この献策に基づいて天保13年(1842)、左の布告が出た。
『水戸御領中、年々不作、折から御収納も相減じ、思し召すように御届き相成らず候に付き、よんどころなく、御領中寺院のつき鐘、銅仏をもって大砲に遊ばされたき思召』」
つき鐘は大郷は一村に一つ、小郷は数村に一つだけ残し、その他はお引上げと決定し、同時に淫祠、邪教と認められたもの二百余寺のお取りつぶし、不良僧侶、修験者等の放逐、還俗等が行なわれた。また水戸東照宮から僧侶を放逐し、今まで神仏混淆であったのを、神道一方にした。」(岩波文庫『覚書 幕末の水戸藩』p.90-91)
この時の執政・戸田銀次郎は、仏像の鋳潰しは斉昭公の評判を落とすことになると強く反対したのだが、斉昭公がこれを一同に諮ると、無用の濡れ仏は鋳つぶせということで衆論一致したという。
しかし、信仰の対象であった仏像・仏具を取上げることに対し村民の強い抵抗があったことは言うまでもない。にもかかわらず、寺社奉行の今井金衛門は徹底的に仏像・仏具をかき集めた。
「奉行所の小役人どもは…銅鐘や銅の仏像仏具のみならず、大砲鋳造には何の用にもなさぬ木仏、石仏までとりあげた。仏を敬う村民の意向を汲み、自身仏罰を恐れもする村役人たちが、平身低頭、木仏石仏などの引き上げご猶予を嘆願に及んでも、今井らは御領主さまの仰せ付けという一言ではねつけ、おどしつけて、どんな仏像も片はしから荒縄でくくって車につみあげ、寺社奉行の役宅に運ばせた。…」(同上書 p.95)
そう言えば太平洋戦争の時にも、武器を作るために寺の梵鐘が集められたことがあったが、大小の仏像・仏具までをも取り上げようとする藤田東湖らの意図は、仏教排斥以外の何物でもないだろう。寺社奉行の役宅に運び込まれた仏像の内、木仏・石仏は使い道もないので、明治になってもしばらくは、その空き地に山のように積まれて雨ざらしになっていたという。
さらに天保14年(1843)6月に寺社改正令を発して、藩内の寺院に対し次のように布達している。
「近来、僧侶ども風儀よろしからず、不如法の者少なからず候うところ、めんめん承知奉り候う通り…宗法相守申すべき筈のところ、愚民を惑わし、金銭を貪り、或は肉食、博奕、女犯等の類も、少なからず候ようなり行き候う段、御政教の妨害に相成候うのみならず、本山宗門へ対しても、相すまざることにつき、この度それぞれ御咎仰せ付けられ候う。…」

【徳川斉昭】
徳川斉昭公は200寺以上を整理し、大砲を作るために約600個もの梵鐘を鋳つぶしたというが、今まで神仏混淆であった水戸東照宮(主祭神:徳川家康)まで神道一方にしようとしたのはやりすぎであった。

水戸東照宮の僧侶を放逐し、藩祖・徳川頼房公が寄付した灯籠まで鋳つぶしたことが江戸幕府の耳に入り、弘化元年(1844)に、幕府は徳川斉昭に隠居謹慎を命じている。
その罪状は「一、無断で大砲を鋳造したこと。二、寺院を破却したこと。三、東照宮を神道化したこと」の三か条が含まれていたという。
羽根田氏は徳川斉昭の宗教政策をこう纏めている。
「(徳川斉昭公は)、信仰の念、乏しくして見るべからず。而して廃仏の志気盛んにして、毫も風流、雅趣の見るべきなく、心中おのずから狭量にして、寛宏大度の余裕なく、物を容るる余地なく、思い迫って行うところ、また極端に渉る。…盲人滅法界に、廃仏の一道に突進して、民怨を買い、民心を得ること能わず。剰え朋党の内争を醸しだし、為に維新の大業に関ずること能わず、いたずらに失敗の事績を、青史に止むるに終わったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/50
しかしながら、このような水戸藩の廃仏が、薩摩をはじめとする明治維新を推進した勢力に大きな影響を与え、明治維新直後の神仏分離即ち廃仏毀釈の手本となったと考えられるのだ。
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