南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。
通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。

最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。
本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせた『惟任(これとう:光秀の事)退治記』で、光秀を謀反人に仕立て上げてそれを秀吉が退治したとの物語を広めて以降、歌舞伎などで演じられ、それをもとに物語が書かれて、今ではその内容が通史にも使われて、それが日本人の常識となっている。
明智憲三郎氏の表現を借りると、今も「秀吉の嘘に日本国中がだまされて」「軍記物依存症の三面記事史観」の闇の中に彷徨っている状態にあるということになる。
以前このブログで本能寺の変について、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 427年目の真実』などを参考に5回に分けて書いたことがあるが、最近調べた事などを付け加えながら、簡単にこの事件の原因を振り返っておこう。
当時のルイス・フロイスの記録や、明智光秀の配下の武士で本能寺の変に従軍した本城惣右衛門が知人に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』*)に明確に記されているのだが、フロイスも明智軍も、この日に命を狙われていたのは信長ではなく、家康だと考えていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

また、秀吉や細川藤孝とも交流のあった江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物でも、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという」と記されているのだが、当時のいくつかの記録から見えてくるものは、信長自身が家康を関西に呼び寄せて、機をみて殺害する謀略を考えていたということである。
『本城惣右衛門覚書』の文章と訳文は次のURLにあるが、本能寺襲撃の指揮を執ったのは、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)であり、光秀が先導したのではないことが記されていることはもっと注目して良いと思う。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
この時代の公家の山科言経が記した『言経卿記』によると光秀は戦勝祈願の為に愛宕山に登っており、下山したのは6月1日になってからであったという。丹波亀山城に戻って出陣の準備をし、兵を率いて2日未明に本能寺に辿りつくのは物理的に不可能という説もある。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide083.htm

一方家康は5月14日に安土に到着し、安土城での饗応を受けたのち、信長の命により京都や堺の見学をすることになった。5月21日に安土を出て、本能寺の変のあった6月2日の早朝に、家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出て、信長と会うために本能寺に向かった記録がある (『茶屋由緒記』) 。
また信長は、家康を警戒させないために、関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて京都を手薄にさせ、本能寺には信長を含めてわずかの人数で宿泊していたという。
ところが家康は、手薄な本能寺を明智が討つ計画がある情報を事前に入手していて、信長に対しては警戒していないふりをして信長を油断させ、本能寺を無防備な状態のままとさせて明智の信長討ちを成功させようとした。
おそらく家康と光秀は繋がっていた。光秀は信長より、5月に安土城で家康を饗応することを命じられていたので、本能寺の少し前に家康と密談する機会は充分にあったのである。
では明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか。
それまで光秀は、信長から四国の長宗我部氏の懐柔を命じられていて、重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、信長は急遽方針を変更して天正10年(1582)5月に三男の織田信孝に四国攻めの朱印状を出していた。そして長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていた。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまったのである。

本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と記されている。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596a
明智憲三郎氏の著書によると、山科言経の『言経卿記』や勧修寺晴豊の『晴豊公記』にも、そのことを裏付ける記録があるようだ。
このような視点に立って本能寺の変を考えると、なぜ家康が光秀や斎藤利三に配慮したかが見えてくる。
もし本能寺の変で光秀が本能寺で信長を討たなければ、家康自身の命が奪われていた可能性が高かった。家康にすれば、明智光秀や斎藤利三は命の恩人なのである。
だとすると、家康が土岐明智家を復活させたり、斎藤利三の娘を家光の乳母としたことが「謎」ではなくなってしまうのだ。
前回の記事で、山崎の合戦の後も光秀が生きていたと思わせる伝承や文書が、多くの場所に残されていることを書いた。
これらの伝承などは、通説が正しいという前提に立てば、すべて「ありえない」ことばかりだが、通説が正しくない前提に立てば、全てがつながる仮説を立てることが出来る。
しばらくの間、私の推理にお付き合いいただきたい。
光秀は山崎の合戦で死んだのかもしれないが、もし生き残っていたとしても、死んだことにしなければ、秀吉に必ず命を狙われることになる。
だから光秀と縁の深かった丹波亀山の谷性寺や近江坂本の西教寺に、本物かどうかもわからない首を持ち込んで墓を造らせたとは考えられないか。
光秀だけではない。光秀の兄弟や重臣たちにも言えることだが、もし彼らが生きていたとしたら平家の落人と同様に、身の安全を守るために山深いところに名前を変えて住むことは、充分にありうることだと思う。光秀のものだと伝えられている墓のある岐阜県山県郡美山町は、まさにそのような場所のようだ。

しかし慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなり豊臣家の力が次第に衰えて、自らの命が狙われるような危険が遠ざかる日が来た。いつまでも山深い場所(岐阜県山県郡美山町)で隠棲する必要もなくなってきたので、今まで使っていた名前の人物(荒深小五郎)は死んだことにして、慶長5年(1600)に白山神社にその人物の墓を造らせ、新たな活動を開始したとは考えられないか。
面白いことに、この地の伝承ではこの人物は、「関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ」となっている。
そして「関ヶ原合戦屏風」には天海らしき人物が描かれているのである。そして関ヶ原以降は家康の近くに居場所を移したことも考えられる。
実際のところ、光秀らしき人物が生きていたと思われる形跡は秀吉が亡くなったあとからのものばかりなのである。
その人物が、岸和田に本徳寺を開基したのが慶長4年(1599)。また比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進されたのは慶長20年(1615)2月17日で、大阪冬の陣の2ヶ月後のことである。そしてその3カ月後に大阪夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家は滅亡している。

次に南光坊天海に話題を移そう。
面白いことに、「天海」という僧侶が歴史の表舞台に登場するのも、秀吉が亡くなったあとからのことである。
徳川家康が「天海」を駿府に招き、初めて公式に対面したのは慶長13年(1608)なのだそうだが、その時に家康は「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたと伝えられている。しかし、実際はもっと早くから家康は天海という人物を知っていたはずである。
というのは、家康は慶長8年(1603)に下野国久下田(栃木県真岡市)に新宗光寺の再興を託し、慶長12年(1607)には比叡山東塔の南光坊在住を命じ、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせているのだが、会ってもいない人物に対して、こんな重大な仕事を次々と命じることは不自然だ。
そして天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作っている。
前回の記事で紹介した滋賀院門跡は、天海が元和元年(1615)に後陽成天王から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺であり、日吉東照宮も元和9年(1623)に天海が造営した建物である。

また、天海は大阪の陣で豊臣家を攻撃する口実となった方広寺鐘銘事件は、徳川の正史である『台徳院殿御実紀』巻廿七(慶長19[1614]年7月21日)に天海が関与したことが記されている。
「世に傳ふる所は。此鐘銘は僧淸韓がつくる所に して。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱(いみな)を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに 似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。」
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html
なぜ僧侶である天海が、このように家康の政治に意見することができたのか誰でも不思議に思うところで、この記録を読むと、天海という人物が、豊臣家に強い怨みを持っていた可能性を感じる。
もちろん、天海という人物が明智家と全く関係のない人物である可能性も小さくないのだが、もしかしてと思わせる事象が偶然にしては多すぎて、ちょっと考えさせられてしまうところだ。

しかし、天海と明智光秀が同一人物だという説の最大の問題は、年齢であろう。
天海の生年がはっきりしていないようだが、没年は寛永20年(1643)で100歳以上の長命であったという。
もし天海と光秀(誕生:享禄元年[1528])が同一人物だとすると115歳で没したことになり、常識的には、この時代にこの年齢まで生きる人物がいたことは考えにくい。また春日局との関連から、天海は斉藤利三(誕生:天文3年[1534])ではないかという説もあるようだが、斎藤利三については6月17日に六条河原で斬首されたと具体的な記録があるので、その可能性は低いし、109歳で没したことになるという年齢の観点からも問題がある。
諸説の中には、光秀の死後に長男の光慶(誕生:永禄12年[1569])が天海を演じたという説も存在するというが、それだと年齢の問題についてはクリアされる。しかし、もしそうだとしたら、そのことを裏付ける記録が残っていてもおかしくないのだが、そのようなものは何も存在しないのだ。
前回の記事に書いたのだが、そもそも天海と光秀とが同一人物であるという説は、明治時代の作家・須藤光輝が最初に唱えたものであり、当時には光秀と天海とを結びつける記録が全く存在しないのである。
最後に結論めいたことを言わせてもらうと、明智光秀はおそらく山崎の合戦を生き延びた。
そして豊臣秀吉が亡くなったあたりから活動を開始し、家康を陰で補佐していたのではないか。
光秀が生きていて家康に意見具申できる立場であったなら、方広寺鐘銘事件や近江坂本の復興などは、天海が光秀と同一人物でなくとも、光秀の考えを天海という僧侶に代弁させるなり、必要資金の大半を家康が出してその実行を命じれば済む話であるともいえる。
あるいは徳川幕府が、光秀から得た知恵は、死んだ人物の名前を出せないために、天海の名前を用いて記録したということも考えられる。
僧侶には家康の政治顧問は務まらないとの意見もあるが、光秀が生きていたのなら家康に意見を述べることができた可能性が高い。また家康が光秀から政治に関する知恵を真に必要としたのは豊臣家が滅亡する頃までであり、本物の光秀が死んでからは天海の政治顧問としての出番は多くはなかったと考えれば、光秀が長寿である必要もなくなる。
南光坊天海は明智光秀と同一人物であったという説は、個人的には面白いとは思うし完全否定をするつもりはないのだが、天海が光秀と同一人物でなくとも、すべての事象が合理的に説明可能なので、私は、この説が真実である可能性は低いと考えている。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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