江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
菊池寛の著書『明治文明綺談』に、士族の中でも最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣であったと書かれていたので、具体的にその当時のことが書かれている本を国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で探していると、『歴史の教訓』という本が目にとまった。

著者の塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)は旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して藩士となりそこで悲惨な生活を体験し、のちに横浜毎日新聞に入社して新聞小説家として一世を風靡した人物である。渋柿園というのはペンネームで、本名は靖(しずむ)であったという。
東亜堂書房の「縮刷名著叢書」の第18編として大正4年に出版されたこの本の最初に、『五十年前』という作品が収められている。
その前書きの部分で塚原が、「維新の当時、――慶応3年の暮れから翌4年、すなわち明治元年にわたる江戸の変遷の有様を、私が見たとおり、否、むしろ出会ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話して見よう」と記しているとおり、ここに記されている内容は、少しは誇張があるとしても作り話などではなく、旧幕臣として自らが見聞きし体験したことをそのまま記したものである。これを読むと、誇り高き旧幕臣達が、想像を絶する悲惨な境遇に置かれたことを知って、誰しも驚愕せざるを得ない。
文章を紹介する前に、塚原ら徳川家臣団が静岡に移住するまでの経緯を纏めておく。
慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、閏4月29日に関東監察使三条実美は、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨を伝達し、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%もの減封になる。
当時の徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強。70万石にまで石高が減らされては大名として養える藩士の数はせいぜい5千人程度と見積もられていたのだが、駿府に移住することを希望した者が1万5千人程度もいたという。
単純に計算すると、家臣一人当たりの石高は267石(800万石÷3万人)から、140石(70万石÷5千人)程度になるつもりが、47石(70万石÷1.5万人)まで減ってしまったことになる。
前回および前々回の記事で紹介した菊池寛の『明治文明綺談』によると、「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も、100石に減らされている。生活最低線が100石というわけである」と解説されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78
徳川家の旧家臣団は藩主を入れた一人あたりの石高の平均値が、菊池寛の算定した生活最低線の半分以下であったことになる。これでは彼らが相当厳しい生活を余儀なくされることは誰でもわかる。

ところで、徳川家臣たちに選択肢がなかったわけではない。塚原の『歴史の教訓』にはこう記されている。(原文は旧字・旧かな)
「人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣*』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。
そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった。当面利害の点からいうと、その朝臣になると、禄高は従来取りきたりのまま(もっとも後には減らされたそうだが)、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという。これは至極割合の好い話であったが、なぜかこれには応ずるものがすくなかった。…(帰農商については)帰農はすくなくて、あるのはやはり千石以上の知行取り、即ち旧采地に引っ込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち30俵40俵から200俵300俵の連中には帰商もかなりあったようだが、その多かったのは無禄移住。どこまでも藩地へ御供(おとも)というのであった。
藩庁でも、朝臣の少ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を食うの砂を噛(かじ)るのとてそれは口でのみ言うべきことで、実際に行い得るわけのものではない。あちらへ行って、藩主にもご迷惑をかけ、銘々(めいめい)にも難儀に陥るようなことがあっては、つまり双方の為にならぬから、はやく今のうちに方向を決めて、前途の生計に困らぬようにしろ。―――こんな達しが二三度も出た。それでも、何でも御供をしたい!と、藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった。」
*朝臣:新政府に帰順して政府に出仕すること
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/24
いくら収入が少なくても、永年付き合ってきた仲間と力を合わせて暮らしたいと思うのは、今よりも昔の方が強かったと思う。
塚原渋柿園は、この文章に続いて帰農帰商の失敗事例について書いている。非常に興味深い部分ではあるが、長いので省略して、無禄で徳川家と共に静岡藩に移住する決意をした人々が、船で静岡に向かう場面を記した部分を紹介したい。
「私の家も同じくその無禄の一人だ。が、幸いに、私は部屋住まいながら広間組というものになった。で、父は当主の無禄移住で、家族を引き連れて彼の地へ行く。私はその組の同僚どもと、そのころ天野加賀守と加藤平内との率いていた草風隊(脱兵)の帰降して駿州田中へ送られるその護衛を彼地までして、そのまま田中城の勤番をしろと言うので、10月の中旬(日は忘れた)築地の本願寺に出かけた。すると那の広い本堂の中央に、脱兵も何十人と居る。私の仲間も二百人からいた。
これより先、藩庁では、この移住者を輸送(私らはことさらにこれを輸送という)するために、米国の飛脚船を借入れたが、(移住者にして有福の者、また到底海路を行けぬという人達は、陸路を辿るも多かった)この時の船は『ゴールデン、エーヂ』、後に確か東京丸となった船だった。長さ七、八十間*(けん)に幅の十二、三間も有ったかと思う大船。それでもその会社の好意で、江戸の品川沖から駿州清水港まで三千両で貸切にしてくれたとかいう話。で、その船は台場の先に碇泊(かかっ)ている。これに乗る移住連…の人数は二千五、六百もあったろう。それも当主は男子だが、あとの家族は老人に子供、婦女に病人などという多くは足弱で、とても一人で身の始末もならぬという者だから、これを艀船(はしけ)で本船まで送るというのが、そもそもの大ごとだ(手荷物は極めて少数に限られていたが、それでも皆一品も多くと持って行く。その扱い方にも手数がかかった。)で朝から数十艘の小舟で幾百回というものを往返して、漸くその移住連の運搬を了って、さて最後に、私どもが本船に移った。時は今の夕6時過ぎ、その部屋は甲板の上に天幕(テント)を張って、船の中での露営というけしき、布団もなければ、湯茶一つない。
それでも我々の方は只幾許かの身の余裕も取れる。ところがその下方の、かの下等室なる移住者の方と来たら、実に大変だ。
私も父や母や祖母や妹両人、それに老僕の仁平という者…これらのこの船に乗っていることは知っている。どんな様子だか是非見たいと、梯子の口まで行って見ると、驚いた!船中の混雑を防ぐためでもあろう、梯子はとってある。傍(わき)の手すりに捉まって、下を見ると、臥棚(ねだな)もなければ何もないがらんどうの板敷?の上に、実に驚く!鮨を詰めたと言おうか、目刺鰯(めざし)を並べたと言おうか、数かぎりも知れぬ人間の頭がずらりと並んで、誰もこれももう寝ているのであるが。その枕としているのは、何かと言うと、他人の足。―――自分の足もまた他の枕にされている。
ところがご承知の、江戸の女―――むしろ我が日本の女?―――というものはみな船に弱い。隅田川の渡船でもちと風が強いと眩暈(めまい)がするという。しかるに生憎(あいにく)やこの日はやや暴風(しけ)模様で、波が高かった。
既に築地から御台場向うの、二里近くもあろうという海上を艀船(はしけ)で揺られて、もう大概いきついているうえに。またこの、例の石炭臭い、ゴミ臭い、いやな臭いと、大勢の人いきれの腐った空気を吸わされるというのだから堪らない。あちでもこちでもゲーゲーと吐(や)る者がある。苦しんで呻(うな)る者がある。子供は泣く、病人はうめく。その中で、彼の黒ん坊の水夫はがなる。それに―――甚だきたないお話で恐れ入るが、便所―――もとよりこの大勢に、五ヶ所や十ヶ所の在来の便所で間に合う理由(わけ)のものではないから仕方もないのだが、かの梯子の掛るべき下方のところに、四斗樽を十四、五も並べて、それに人々が用を足すのだ。それでも男子はまだどうにかなろう。たださへもものつましい婦人方が、この大勢の見ている面前で、そんなことのなろうわけだか。…多くは皆然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様とも言われた人達で。中には自家の勝手元にも出た事のない、かのやんごとなき側の人もいる。…」
*間(けん):尺貫法による長さの単位。1間=1.818m
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/28
こんな四斗樽も各々使わざるを得ないのでいずれは満タンとなるのだが、それが時々溢れ出し、その近くの人の寝ているところを流れていくのでたまらない。
樽が満タンになると、水夫が樽を甲板に引き上げて海に中身を投げ捨てて空にするのだそうだが、ある時釣り縄が切れて、その中身を頭上から浴びた者がいたということも書かれている。
こんな奴隷船のようなひどい扱いで二昼夜半も乗せられて、船は漸く清水港に着いたのだが、この船中で死人が四、五人、出産が五、六人出たのだそうだ。
この船を借入れたのは静岡藩だから明治政府には責任はないのだが、藩庁も安いから契約したものの、米国の船が、まるで奴隷を運搬するようなやり方で旧幕臣家族を運ぶとは考えてもいなかったのだろう。

以前このブログで、明治5年(1872)に大量の中国人苦力(クーリー)を載せアメリカに向かっていたペルー船籍のマリア・ルーズ号が途中で暴風雨に会い、横浜港口に横付けとなったが、この船から逃亡した中国人に虐待の痕があったことから英国軍艦がこの船を「奴隷運搬船」と判断し、わが国政府に対し「適切な処置をとることを切望」した事件について書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html
わが国の特設裁判所は、人道に反する奴隷契約は無効だとして中国人苦力全員を解放し、清国政府からはわが国に感謝の意を込めて頌徳の大旆(たいはい)が送られたのだが、このような西洋諸国にとって都合の悪い史実は、戦後の歴史記述からはすっかり封印されてしまっているようだ。

当時のアメリカは南北戦争の後に奴隷が解放されて極度の労力不足を生じ、その穴埋めとして大量の中国人が買われていた時期であり、幕末から明治にかけて、多くの中国人を乗せた奴隷船が太平洋を航行していたことを知るべきである。
徳川家臣団を乗せたゴールデンエーヂ号の米国人船長からすれば、求めに応じて2500人の日本人を、中国人苦力と同じ運び方をしただけのことだったのだろう。
かくして、徳川家臣団は静岡に定住した。
「無禄移住」とは言いながら、塚原渋柿園は静岡藩士としての収入はゼロではなかったのだが、僅かの収入を親に仕送りして、かなり惨めな生活が続いたようだ。
次回に、その生活ぶりについて書くことにしたい。
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【ご参考】
この出来事から4年後に、ペルー船籍のマリア・ルーズ号が修理の為に横浜港に横付けし、中国人の逃亡者が出たためにこの船が奴隷運搬船である事が判明。わが国がその船の中国人苦力たちを解放した出来事をこのブログに書いています。実はペリー来航の前年にも、中国人苦力を乗せた米船が石垣島に座礁し、石垣島の人々が中国人苦力を助けた歴史があります。是非覗いて見てください。
中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html
戦国時代には多くの日本人が奴隷として売られた記録がありますが、奴隷の運搬方法は戦国時代からあまり変わっていないようです。
戦後のわが国の歴史記述には、日本人が奴隷に売られた史実やその記録が意図的に削られているようです。興味のある方はこんな記事も書いていますので、覗いて見てください。
400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html
16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html
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