徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
塚原が記している通り、徳川の旧幕臣には明治政府に帰順して「朝臣」として働くか、士族の身分を捨てて農業や商業に従事するか、徳川家と共に静岡に移住するかの3つの選択肢が呈示されていたのだが、大多数が「無禄移住」という一番厳しい選択をしてしまったのである。
明治新政府の官吏の道を選んだ場合は収入などの条件は良く、食べることに窮するようなことにはならなかっただろうが、やはり仲間を裏切るようなことはしたくないという思いの方が強かったのだろう。「朝臣」になった旧幕臣の割合は全体の「千分の1位(くらい)」だったそうで、千石以上の旗本に何人かいたレベルだったという。
帰農した者もいたが、千石以上の知行取りが旧采地に引っ込むというケースに限られていたらしく、この選択をしたメンバーも少なかったという。ただし、塚原の文章では、静岡に渡った士族たちの一部が生活に困ってお茶の生産を始めたことについては触れていない。
一方、商売人になった者は、中・下級の武士、すなわち家禄が30~40俵から200~300俵の士族の中に、かなり存在したことが記されている。
今回は、前回に引き続き塚原の文章を紹介しながら、主に江戸に残って商売をはじめた旧幕臣たちのことを書くことにしたい。

「さあその…連中は、これからめいめい商売というのを始めた。あるいは酒屋、あるいは米屋、小間物屋、そのほか種々雑多な新店というができたが、その内いちばん多かったのは汁粉(しるこ)屋、団子屋、炭薪屋に古道具屋というのであった。この道具屋の店(我が居屋敷の長屋などを店にしたもの)にある貨物(しろもの)は、多くはその家重代(じゅうだい)の器物で、膳椀から木具、箪笥長持、槍薙刀(やりなぎなた)の類、それらに一様の紋が揃って、金の高蒔絵の薩摩蝋燭に閃々(ぴかぴか)と輝くなどは、すさまじく、浅ましという形容詞は、こんな気色にでも使われる語(ことば)であろうと、覚えず涙も出た。が又その価(あたい)の廉(やす)いというのは肝も潰れる。惣桐の重箪笥の手摺れ一つつかぬのが金一分(今の25銭)。金蒔絵の紋散らしの夜具長持が同じく二朱(12銭5厘)などという相場だったが、これはその理由(わけ)で、当時いずれも品物は売るばかりで買う者はない。即ち供給余りがあって、需要がない。虚偽の文明が破れて、的実の実世界に入ったという現象を事実に見せたとでもいうのだろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25
商売を始めたといっても、武士が不要な世の中に変わってしまっては、武家の先祖が代々大切にしてきた家具や武具が簡単に売れるはずがない。そこで仕方がないから売値がどんどん低くなる。
ちなみに「金1分」というのは、1両の4分の1で、1朱というのは1分の4分の1になる。前回記事で当時の貨幣価値に触れたが、「金1分」は現在の1,500~3,000円程度、2朱というのは750~1,500円程度だと思われる。
桐の箪笥はピンからキリまであり、その大きさによっても価格は異なるのだが、いくら中古でもこんな安い価格ではほとんど商売にならなかっただろう。もし「金1分」で桐箪笥が売れたとしても、せいぜい米が4~7kg買える程度のお金にすぎないのだ。
商いをして生計を成り立たせるためには、売れないものを並べるのではなく、売れるものを並べる必要がある。そこで誰でも考えるのは、人通りの多いところで食べるものを売ることだ。塚原の文章を続けよう。

「それから夜になる。この新米商人衆が大道(だいどう)へ露店(みせ)を出す。その場所は、山の手では四谷の大横町辺、赤坂の溜池最寄、市ヶ谷の堀端通り、神楽坂下などが一番多かった。気の利いたのは桟留(さんどめ)の袷に小倉の帯、新しい目倉縞の前垂(まえだれ)で、昨日までの大髷(おおたぶさ)を急に剃(すっ)っこかした月代(さかやき)*の広い天窓(あたま)を、白地の手ぬぐいで眉深(まぶか)に吉原冠り**というものにした、体裁だけは頗(すこぶ)る巧いが、その客応対の調子というものは実におかしい。やはり殿様檀那様の頭横柄でなければ、堅苦しい馬鹿丁寧で、いや聞くも気の毒のもの、哀れなものだった。また中には焼摺木(やけすこ)に、黒木綿の紋付などで、カンテラの油烟(ゆえん)に燻(くす)べられているのもあった。それで重い荷物を大風呂敷に引背負って、据わらない腰つきでひょろひょろと出掛けるなど、之を要するに目も当てられない為体(てい)。…しかし、それらは細々でも、利潤(もうけ)が皆無でも、手に豆をこしらえ損でも、資本をかけぬ労働組の方だったから、後々までも格別損耗をしなかったが、酒屋、米屋、汁粉屋、蕎麦屋、炭薪屋、もしくは小金貸などと来た者は、十中の九分九厘まで苛酷(えら)い目に出遭って、めいめいが所持金、即ち資本(この時帰農商の人々には、班長から高割で、幾許(いくら)かの涙金が出たか?とも記憶している)を瞬く間にすって、多くは見る影もなくなった。」
*月代(さかやき):成人男性の髪型の一つで、頭髪を前額側から頭頂部にかけて半月形に、抜き、または剃り落としたもの。
**吉原かぶり:手ぬぐいのかぶり方で、二つ折りにした手ぬぐいを頭にのせ、その両端を髷(まげ)の後ろで結んだもの。遊里の芸人や物売りなどが多く用いた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25

資本をかけないで客の応対するような仕事を選んだ者は失敗しても傷が浅かったようなのだが、商品を販売した連中は随分酷い目に遭ったという。
では、どんな失敗をしたのだろうか。その点について、塚原はかなり具体的に書いている。
「私の知っている市ヶ谷の本村、蓮池の先手与力の某(なにがし)は、この金貸(かねかし)を始めた。私、ある時行って見ると、大勢の借人(かりて)が入替り立替り来る。それらがまたみな砂糖だ酒だ菓子だ反物だというを持ってくる。その家の細君が意気揚々と『塚原さん、商売はお金を貸すのに限りますよ。お金貸はいいものですよ。割の良い利を取って、手堅い証文を入れさした上に、こういう様に毎日いろいろな品物を貰います。これを始めてから菓子に酒に鶏卵に鰹節に魚というを買ったことはございませんよ。真正(ほんとう)に好い商法!』と説き誇る。その買わぬは良かったが、肝腎の貸した金はみな倒されて、この年の内に五、六百両をカラにして、後には夫婦乞食になったとか噂をされた。
また牛込神楽坂辺で汁粉屋を始めた人は、日々勘定を〆上げてみると、儲かる儲かる!儲かって仕方がないほどにただ儲かる。どうしてこう商売というものは儲かるものかと主人も怪しんで、さらに家内の会議を開いて、その理由を探求してみると、儲かるわけかな。団子でも汁粉でも雑煮でも、その肝腎の餅なり米粉なりの代が入っていない。それはみな知行所から無銭(ただ)で来ている物だからみな無代(ただ)にして、薪炭も同じく無代(ただ)にして、新たに買い入れた小豆と砂糖の代だけで算盤を執ったのだから、それで儲かったとはじめて知れて、さすがに主人公(あるじ)。これではならぬ、それにしても米の値段は幾らだろう。と皆に聞いたが、その席にいた者は誰一人、それを知っていた者は無かったという笑話(しょうわ)がある。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/26
いくらしっかりした証文を交わしたとしても、商売の基本がわからずに赤字を垂れ流している連中に金を貸してしまっては、その金が回収できないのは当然だ。
現金商売の場合は、ある程度売上げが続くのであれば、余程価格設定を誤って人件費も払えないような大赤字にならない限りは、途中で価格調整をして事業を継続させるぐらいのことはできたはずなのだが、士族たちは商売で利得を得る方法がわからないまま、短期間で事業を破綻させてしまったようである。塚原は続けて、この様な事例を挙げている。
「またある人は、錢勘定をするに、五十(四十八文)と百(九十六文)だけはようやく分かったが、その間の二十四文、三十二文、六十四文の七十二文のというのになるとさぁ滅茶苦茶で、釣り銭となると良いように錢を掴(つか)んで、お客に勘定をしてもらったという奇談もある。
そのほか酒屋は主人から先に飲みつぶれ、古着屋は奥様からべんべら*を引っ張りたがるという。とにかくこんな光景(ありさま)だから到底永続のしようがなくて、早いのは三月か四月、よくもったのでも一年と辛抱したのは稀で、皆潰れてここに「士族の商法」という套語(とうご)**の濫觴 (らんしょう) ***を開いたのであった。」
*べんべら:薄っぺらな絹の衣服 **套語:決まり文句 ***濫觴:物事の始まり
このように釣り銭の計算ができなかったり、ついつい店の商品に手を出してしまうようでは、いつの時代においても、事業を成り立たせることは出来ない相談だ。

塚原渋柿園と同様に、幕末に幕臣の家に生まれて静岡に移住した評論家の山路愛山は、明治41年に上梓した著書『現代金権史』において、多くの士族が商売に失敗した理由について興味深い指摘をしている。
「元来武士と町人はその素養全く反対也。第一武士の生活は社会的にして個人的にあらず。町人の生活は個人的にして社会的にあらず。これそもそも根本的の相違なり。…武士は金はどうして儲かるものか知らぬが本色なり。左様のことに頓着しては武士の本懐を遂ぐべき邪魔になるなり。…しかるに町人はどこまでも個人的也。自分一人富みさえすればそれにて済むことなり。…武士と町人は生れ落ちてよりすぐに心の行方が違うなり。この相違より次に来たるものは金銭に対する心掛けなり。石田三成は奉公人(武士をいう)は主人より与えられるものを遣(つか)いて残すべからず。遣い残すは盗人なり。遣過ごして借銭するは愚人なりと言えり。これは武士道の極意なり。…武士も禄を遣い残し金持ちになりては浮世に執着多く、潔く戦死もなるまじきなり。されば武士は小判を這い虫同様に心得、つとめて利得に遠ざかるをもってその理想とし、貧は士の常なりといいて貧に甘んずるは武士の本色なりとしたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800504/12

山路愛山が指摘しているとおり、武士たる者は利得に遠ざかることを理想とし、蓄財することは「盗人」であるとの考え方に染まっていた士族たちが大半であったのなら、そのような連中がいきなり商売を始めても、手許に資金が残ったらそれを単純に「儲けだ」と考えて、蓄財して「盗人」扱いされないように使ってしまう習性をすぐに矯正できなかったのは仕方のないことであったろう。
明治政府は、士族たちには素養のない商売の道に飛び込ませるのではなく、田畑を与えて農業でもさせていたほうが、はるかに脱落者が少なくてすんだのではなかったか。
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『明暦の大火』の火元の謎を追う
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明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼失し、焼死者が十万人余も出ました。この大火の原因は江戸幕府にあるという説があるのだが、これは結構説得力がある。
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