フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。
スペインは16世紀前半にアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼし、その後世界に植民地を拡大して「太陽の没することなき帝国」と言われた最盛期の時代を迎え、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去すると以後スペイン王がポルトガル国王を兼務し、植民地からもたらされた富でヨーロッパの覇権を握ったとされる。

フィリピンマニラの初代司教としてスペインから送りこまれたサラサールが、本能寺の変の翌年にあたる1583年(6月18日付)にスペイン国王に送った書簡が残されている。
ここにはこう記されているという。
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)
サラサール司教はフィリピンの次は中国を征服すべきであり、そのために日本の武力を使えばよいと、前回の記事で紹介したイエズス会のフランシスコ・カブラルと同様な提案をしている。サラサールの文章で特に注目したいのは、「在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように」と指示すれば、キリシタン大名はそれに従うと考えていたという点である。わかりやすく言えば宣教師らは、秀吉や家康の命令がどうであれ、キリシタン大名はイエズス会修道士の指令に従って動くことを確信していたのである。

一方、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが、翌1584年にフィリピン・イエズス会の布教長へ宛てた書簡では、日本への軍隊派遣を求めて、先に日本を征服してから明を攻めることを提言したのだが、この案は採用されなかった。
コエリョの提言が採用されなかったのは当然であろう。わが国は鉄砲伝来した翌年には鉄砲の大量生産に成功していて、16世紀末には世界最大級の鉄砲保有国になっていたし、鉄砲だけでなく刀や鎧などの武器の性能も優れていた。
スペインが海軍を送り込んで日本を攻めようとしても、わが国の武士の数や優秀な武器とその数量を考慮すればスペインが勝てる可能性は低かった。緒戦は有利な戦いが出来たとしても、長期化して銃弾や食糧が乏しくなった場合は、母国からの食糧や銃弾の補給は極めて困難であり、全滅を覚悟するしかなかっただろう。
マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルの考えは、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻める。明を征服すれば朝鮮半島は容易に手に入る。そして朝鮮半島に軍事拠点を置き、機が熟すのを待って最短距離で日本を攻め、かつキリシタン大名を味方につけて日本国を二分して戦う。
当時スペインが日本を征服するには、それ以外に方法はなかったのであろう。

しかし、おそらく秀吉は宣教師らの魂胆を見抜いていたのだろう。
天正15年(1587)に『伴天連追放令』を出すきっかけとなった秀吉の九州平定は、その2年前にイエズス会のコエリョが秀吉に対し、大村・有馬のキリシタン大名の仇敵である島津を征伐するのなら高山右近らを秀吉の味方につけると進言したことにより実現した。イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、右近らの活躍で島津討伐に成功したのだが、秀吉は九州を平定すると、右近の役割が終わったのを見計らったように高山右近にキリスト教の棄教を迫り、それに抵抗した右近を追放してしまった。
その一方で、征伐した島津氏の領国はほとんど変わりなく安堵しているのである。
秀吉は、イエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力を弱めるために九州に来たとしか思えないのだ。

イエズス会のルイス・フロイスの記録『日本史』には、『伴天連追放令』を出す直前に秀吉が家臣や貴族たちを前に述べた言葉が記されている。
「伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも鞏固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.214)
フロイスがこのような書き方をしているということは、秀吉は宣教師がわが国を占領する目的で来日している認識があることを、フロイスも理解していたということだろう。
また、朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)には、秀吉はゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて恫喝している。特にフィリピンに関しては、3度も降伏勧告状を送っているのに注目したい。
学生時代に、秀吉の晩年の外交については「無謀な膨張主義」というニュアンスで学んだ記憶があるが、この当時のフィリピンにはわずかな兵士しかおらず、秀吉がその気になれば、大量の武器を準備できた秀吉軍は、容易にスペイン人をフィリピンから追い払っていた可能性が高い。

以前このブログで書いたが、シャム国(現在のタイ)に渡った山田長政は元和七年(1621)には、日本人傭兵部隊を率いてスペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退け、その功績で国王の信任を得ている。当時は素人集団を率いていたとしても、日本の武器が大量にあればスペイン艦隊による侵略を撥ね退けることが可能だったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html
話を元に戻そう。
秀吉がフィリピン総督(スペイン)に対して出した第一回目の降伏勧告状にはこう書かれていたという。
「…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃(ふ)せて来服すべし。もし匍匐膝行(ほふくしっこう)遅延するにおいては、速やかに征伐を加うべきや、必せり。悔ゆるなかれ、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/34
意訳すれば、「降伏して朝貢せよ。ぐずぐずしていたら必ず征伐する。後悔するな。」というところだが、この国書を読んでスペインは驚いた。
当時の東南アジアには日本のように鉄砲を自国で大量に生産できる国はなかったので、スペインやポルトガルは僅かな鉄砲を持ち込むことで異国の領土を容易に占領し支配することが可能だったのだが、世界最大級の鉄砲保有国であった日本を相手にするとなるとそうはいかなかったのである。
秀吉の恫喝に対し、フィリピンのルソン太守であるダスマリナスは、わずか400名の兵士では日本軍と戦う自信がなかったために日本の使節を歓待し、日本の実情を探らせるために返書を持たせて使者を送るしかなかった。
さらにダスマリナスは、日本人のフィリピンへの侵入を非常に警戒して14項目もの対策を立案している。昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』にその内容が出ているが、これを読むと、如何にスペイン人が日本人を怖れていたかがよく分かる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/36

ダスマリナスは、食糧や武器を可能な限り買い込むことを指示し、城塞の建設を命じたほか、如何なる市民も許可なくして財産や家族をマニラ市から移すことを禁じ、また許可なくしてフィリピンから船を出港出来ないようにし、とりわけ日本人を警戒することを縷々述べている。たとえば、6番目の対策は
「マニラ在住の多数日本人はフィリピンにとって脅威なり。この脅威より免れるべく、これら日本人よりすべての武器を奪いたるうえ、市外特定の場所に移転せしめること。」とある。当時のフィリピンには、商人のほかにシャムやカンボジアと同様に奴隷として海を渡りこの地に住みついた日本人がかなりいたようである。
では、フィリピン国から秀吉に宛てた返書の内容はどのようなものであったかと言うと、要するに、秀吉の文書は果たして本物であるか、それを確かめるために使節を送るというものであったようだ。この国書の訳文は次のURLにあるがつまるところは時間稼ぎである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/40
さらにフィリピンから送られた使者のフレー・ジュアン・コボスはフィリピンを秀吉の支配下に置くことについては意思表明を避けたため、秀吉は再び書状を書いて原田喜右衛門をフィリピンのマニラに遣わしている。

奈良静馬氏の著書に、この時に秀吉が記した第二回目の降伏勧告状が紹介されている。
「…この地球上、天が下に住む者はすべてわが家来なり。余に対して恭順の意を致す者は平和と安堵を得、何らの恐怖なくして住むことを得べし。しかしながら、余に恭順を表せざる者に対しては、余は直に我が将卒を送りて、先ごろ朝鮮王に対して為せるが如く武力を行使すべし。これ朝鮮王が余に恭順を表することを拒みたるが故にして、余は…朝鮮全土を平静に帰せしめたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/68
フィリピンは1593年の5月に原田の船で二度目の使節を日本に派遣し、その中に二人のフランシスコ会の修道士がいた。その一人のゴンザレスは、秀吉の服従要求に対しスペイン国王の返答があるまで日本に人質として留まることを乞うたのだが、このゴンザレスは日本滞在中に、フランシスコ会伝道の基礎を作ることを企んでいたという。ちなみに、先にわが国で布教活動を行なっていたイエズス会は、秀吉の『伴天連追放令』のあとで自由な布教活動ができなくなっていた。
徳富蘇峰の『近世日本国民 史豊臣氏時代. 庚篇』に、フランシスコ会がその後のわが国でどのような活動を為したかが記されている。
「スペイン太守の使節は、人質の名義にて、上方に滞在し。さらに伏見において秀吉に謁したる際、彼ら専用の家屋を構えんことを願った。秀吉は前田玄以をして、その地書を与えしめた。前田は諸教師に向かって、説教、および宣伝の事を禁ずる旨をつげ、旧南蛮寺の敷地を与えた。然るに彼らはその訓戒をも顧みず、礼拝堂一宇、密教所一宇、僧院一宇を建築し、これをノートルダム、ホルチュウンキュルと称し、1594年(文禄3年)10月14日、初めてミサ教を誦し、爾後日曜日、及び祝祭日には、怠りなくおおっぴらに礼拝した」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960835/36
ゴンザレスは、1594年に秀吉からの第3回目の降伏勧告状を携えてマニラに戻っているが、この内容もすごい。秀吉は中国にまで領土を拡げたら、ルソンはいつでも行ける距離であると脅しているのだ。
「…余は朝鮮の城砦を占領し、その使者を待つために多くのわが軍を派遣せり。彼らにしてもしその言を破るがごときことあらんか。余は親しく軍を率いてこれが討伐に赴くべし。而してシナに渡りたる後はルソンは容易にわが到達し得る範囲内にあり。願わくば互いに永久に互いに親善の関係を保たん。カスティラ(スペイン)王に書を送り、余が旨を知らしむべし。遠隔の地なるの故をもってカスティラ王をして、余が言を軽んぜしむることなかれ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/71

ところで、フランシスコ会の宣教師たちは、大阪や長崎でも公然と布教活動を続け、マニラから仲間を呼び寄せ、大阪や長崎で教会堂を建て、信者を急激に増やしていった。
一方、『伴天連禁止令』以降、おおっぴらな布教活動ができなくなっていたイエズス会は、フランシスコ会の布教の成功を見て喜べるはずがなかった。
イエズス会は、1585年にローマ法王が発布したフランシスコ会の日本渡航禁止令を持ち出して抗議したようだが、奈良静馬氏の前掲書によると、フランシスコ会は「自分達は宗教伝道者として日本に来たのではない。フィリピン太守の使節としてきたのであると嘯き、依然としてはばかるところなく布教に従事したので、1595年には8千人という多数の者が洗礼を申し出た。」のだそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/80
しかし翌年に、再び秀吉を激怒させたとされる事件が起こることになる。
この事件と、秀吉のキリスト教弾圧の事を書き始めるとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
また令和2年3月30日に、電子書籍版の販売が開始されました。価格は紙の書籍よりも割安になっています。
【電子書籍版】
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
*このブログの直近3日間におけるページ別ユニークページビューランキング(ベスト10)
- 関連記事
-
-
秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1 2011/02/05
-
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2 2011/02/09
-
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3 2011/02/13
-
フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉 2015/02/21
-
サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える 2015/02/26
-
戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由 2016/08/20
-