湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる
あびこ屋で昼食を終えてから、次の目的地である西明寺(さいみょうじ:滋賀県犬神郡甲良町池寺26:0749-38-4008)に向かう。金剛輪寺からは8分程度で到着する。

この寺は平安時代の承和(じょうわ)元年(834)に三修上人が、仁妙天皇の勅願により開創されたと伝えられ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があったという。
しかしながら、元亀2年(1571)に織田信長はこの寺にも「焼き討ち」をかけたとされ、幸い本堂・三重塔・二天門だけが焼け残ったという。
その後は、天海大僧正や公海大僧正の尽力により復興に務められたが、旧観に復すことは出来なかった。

惣門をくぐり参道を進むと左手に天然記念物のフダンザクラ(不断桜)が見ごろを迎えていた。
西明寺にはフダンザクラが7本もあるのだそうだが、上の画像は本坊の庭に咲いていたものである。
フダンザクラは、何も知らなければ普通の桜のようにみえるのだが、バラ科の植物で毎年の9月上旬から 翌年の 5月上旬まで花を咲かせるのだそうだ。

本坊庭園を抜けて参道を登って行くと二天門(国重文)があり、増長天像と持国天像が安置されている。

この門を抜けると、正面に国宝の本堂が建っている。この本堂は入母屋造・檜皮葺の純和風様式の建物で、鎌倉時代の初期に造営されたのだそうだ。秘仏の木造薬師如来立像(国重文)は公開されていなかったが、木造十二神将像(県文化)の両脇にある多聞天・広目天の木造二天王立像(国重文)など見ごたえのある仏像が多い。

本堂の左にある三重塔(国宝)は鎌倉時代後期建てられたもので、高さが約24mの均整のとれた美しい建物である。塔の内部中央には木造大日如来坐像が安置され、壁には法華経曼荼羅図などが描かれているそうだが、普段は公開されていないようだ。
次の目的地である多賀大社(0749-48-1101)に向かう。西明寺からは14分程度で到着した。
「伊勢へ参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」という里謡があるそうだが、「お多賀の子」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)両神の御子であることをさしている。中世になって多賀信仰が広まり、庶民から「お多賀さん」として親しまれただけでなく、戦国武将の崇敬も篤かったようだ。

天正16年(1588)に豊臣秀吉が、母の病気平癒のため米1万石を寄進して、それにより社殿が整備され、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。
上の画像の石橋が太閤橋だが、御神門の前の桜がほぼ満開だった。

御神門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が見えてくるのだが、境内が随分広く感じるのは、以前は神仏習合で多くの仏教施設があり明治初期の廃仏毀釈でそのほとんどが破壊されたからであろう。

上の画像は『多賀明神社頭古絵図』で、徳川幕府寛永造営後の景観を描いたものだと考えられているが、境内の中に三重塔や本地仏堂や経蔵などの仏教施設が描かれている。
その後何度か大火に遭い、特に安永2年(1773)の大火で社殿・堂塔のほとんどが焼失してしまい、それ以降多くの建物が再建されたのだが、三重塔は再建されないまま明治維新を迎えたようだ。
上の古絵図はminaga氏のHPに紹介されており、このHPには他にも多くの画像を観ることができるのだが、minaga氏の解説によると、明治4年(1871)に社家側は不動院、観音院、成就院、般若院に乱入して社僧を排撃し、仏像・仏器を投棄し、本地堂に祀られていた平安時代の阿弥陀如来坐像をも路上に遺棄したという。
その仏像は多賀大社の西にある真如寺が保護を願い出て同寺の本堂に安置されたそうだが、その仏像は今も真如寺に残されていて、国の重要文化財に指定されているそうだ。
また、不動院は破壊を免れたものの改造されて社務所にされ、観音院、成就院、般若院は破壊され、本地堂は後で何者かによって火をつけられたようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_taga.htm

多賀大社の奥書院(県文化)は江戸中期の建物で、庭園が国の名勝に指定されているので中に入ったのだが、この建物も庭も、明治の廃仏毀釈以前は不動院の所有であったという。

雨が降っていたので、庭園はガラス越しに観るしかなかったのは残念だったが、建物はなかなか格調が高く、障壁画もなかなか見ごたえがあった。
また、参集殿につながる廊下を歩いていると、昭和の時代に各界で活躍した著名人が奉納した絵馬が両側の壁に展示されていて、結構楽しむことができた。
次の目的地は国友鉄砲の里資料館(長浜市国友町534:0749-62-1250)。多賀大社からは30分程度で到着する。

以前このブログで天文12年(1543)、種子島に2挺の鉄砲が伝来した翌年に、我が国で鉄砲の大量生産に成功したことを書いた。
『鉄炮記』によると、2挺の火縄銃を手に入れた種子島時尭は、1挺を室町幕府将軍足利義晴に献上し、もう1挺は鍛冶職人の八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲の生産に成功させたとあるが、金兵衛が最も苦労したのは、銃身の底を塞ぐネジの製造方法であったという。金兵衛の娘の若狭が、ポルトガル人から教えを乞い、種子島では鉄砲伝来からわずか数年で、本物に劣らない鉄砲を生産するようになったという。
また、足利将軍に献上されたもう1挺は、根来の砲術家・津田堅者算長が手に入れ、堺の刀工・柴辻清右衛門に命じて堺鉄砲の元を作らせ、さらに大量生産にも成功したという。
では国友の鉄砲生産はどういう経緯で始まったのか。
湯次行孝氏の『国友鉄砲の歴史』によると、こう解説されている。
「『国友鉄砲記』などによると、足利義輝*は、細川晴元を通じて、国友の鉄匠、善兵衛、藤九左衛門を知り、手許の鉄砲を貸し渡して製造を命じた。当時、国友は京極氏の支配下にあり、京極氏は細川党であった関係上、国友鍛冶の技術が細川氏に見出されたのである。」(別冊淡海文庫5『国友鉄砲の歴史』p.10)
*足利義輝:室町幕府12代将軍・足利義晴の嫡男で、のちに13代将軍(在職:1546~1565年)となる。
当時の刀工の技術では銃身を作ることは難しくなかったようだが、ネジの製造については苦労した記録があるようだ。『国友鉄砲記』によると、「次郎介、小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻というもの出来云々」と、ネジを国友で独自に開発したことが記されているという。
刀工たちは天文13年(1544)8月12日に、足利将軍に完成した鉄砲を2挺献上したというから、種子島で鉄砲が伝来した翌年に、国友でも鉄砲の生産が成功していたようなのだ。

国友で生産された鉄砲は品質が高かったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、また各地の大名に召し抱えられるなどしてその技術を発展させていったのだが、徳川家康が江戸幕府を開いて以降、鉄砲を必要としない時代が到来する。
慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」
これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったことや、特に島原の乱以降は大量注文を受けることが少なくなって、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が農業に従事したり、花火を製造したり、刀鍛冶や金属加工などで収入の道を求めたという。
戦国時代に鉄砲の生産で栄えた日野も堺も早い時期に衰退したにもかかわらず、国友だけが滅亡を免れたのは、国友一貫斎という人物の存在が大きいと言われている。

天明3年(1783)以来大飢饉がわが国を襲ったのだが、一貫斎が制作した反射式天体望遠鏡や空気銃などが大名家などに買われて、国友の住民に仕事と現金収入をもたらしたのだそうだ。国友鉄砲の里資料館から少し北に行くと国友一貫斎の生家があり、上の画像はその門を写したものである。個人の家なので内部は公開されていない。
1日目の旅程を終えて、宿に向かう。
この日に予約を入れていたのは、江戸時代から料理旅館を営んでいるという長治庵(0749-84-0015)。
http://chojian.com/index.html

長浜市の中心部からかなり離れて、木之本町の山間部にある杉野という小さな集落にある茅葺の1軒宿である。
近くに観光名所があるわけでもなく、こんな田舎にと言っては失礼であるが、創業来270年も続く宿があることに驚いた。

上の画像は私が食事をした茅葺の母屋だが、こういう場所で食事をすると随分ほっこりとした気分になる。
夕食は地元で採れた山菜や川魚や肉を素材にしたものばかりであるのが良い。お米もオーナー自らが無農薬で作っておられるのだそうだ。

上の画像はしか肉のルイベと、ますの竹皮蒸しと長治なべ(いのしし鍋)だが、次から次へと出てくる10品近くのすべての料理がとても美味しくいただけて大満足だった。
近くに店らしきものが見当たらない、自然たっぷりの田舎の集落の一軒宿であるからこそゆっくりと時間が流れて、静けさに心が休まる宿で泊まる旅行もなかなか良いものである。
<つづく>
**************************************************************

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。
鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html
鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html
秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html
多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html
第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html
鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html
日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html
日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

この寺は平安時代の承和(じょうわ)元年(834)に三修上人が、仁妙天皇の勅願により開創されたと伝えられ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があったという。
しかしながら、元亀2年(1571)に織田信長はこの寺にも「焼き討ち」をかけたとされ、幸い本堂・三重塔・二天門だけが焼け残ったという。
その後は、天海大僧正や公海大僧正の尽力により復興に務められたが、旧観に復すことは出来なかった。

惣門をくぐり参道を進むと左手に天然記念物のフダンザクラ(不断桜)が見ごろを迎えていた。
西明寺にはフダンザクラが7本もあるのだそうだが、上の画像は本坊の庭に咲いていたものである。
フダンザクラは、何も知らなければ普通の桜のようにみえるのだが、バラ科の植物で毎年の9月上旬から 翌年の 5月上旬まで花を咲かせるのだそうだ。

本坊庭園を抜けて参道を登って行くと二天門(国重文)があり、増長天像と持国天像が安置されている。

この門を抜けると、正面に国宝の本堂が建っている。この本堂は入母屋造・檜皮葺の純和風様式の建物で、鎌倉時代の初期に造営されたのだそうだ。秘仏の木造薬師如来立像(国重文)は公開されていなかったが、木造十二神将像(県文化)の両脇にある多聞天・広目天の木造二天王立像(国重文)など見ごたえのある仏像が多い。

本堂の左にある三重塔(国宝)は鎌倉時代後期建てられたもので、高さが約24mの均整のとれた美しい建物である。塔の内部中央には木造大日如来坐像が安置され、壁には法華経曼荼羅図などが描かれているそうだが、普段は公開されていないようだ。
次の目的地である多賀大社(0749-48-1101)に向かう。西明寺からは14分程度で到着した。
「伊勢へ参らばお多賀へ参れ、お伊勢はお多賀の子でござる」という里謡があるそうだが、「お多賀の子」というのは、伊勢神宮の祭神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)両神の御子であることをさしている。中世になって多賀信仰が広まり、庶民から「お多賀さん」として親しまれただけでなく、戦国武将の崇敬も篤かったようだ。

天正16年(1588)に豊臣秀吉が、母の病気平癒のため米1万石を寄進して、それにより社殿が整備され、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。
上の画像の石橋が太閤橋だが、御神門の前の桜がほぼ満開だった。

御神門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が見えてくるのだが、境内が随分広く感じるのは、以前は神仏習合で多くの仏教施設があり明治初期の廃仏毀釈でそのほとんどが破壊されたからであろう。

上の画像は『多賀明神社頭古絵図』で、徳川幕府寛永造営後の景観を描いたものだと考えられているが、境内の中に三重塔や本地仏堂や経蔵などの仏教施設が描かれている。
その後何度か大火に遭い、特に安永2年(1773)の大火で社殿・堂塔のほとんどが焼失してしまい、それ以降多くの建物が再建されたのだが、三重塔は再建されないまま明治維新を迎えたようだ。
上の古絵図はminaga氏のHPに紹介されており、このHPには他にも多くの画像を観ることができるのだが、minaga氏の解説によると、明治4年(1871)に社家側は不動院、観音院、成就院、般若院に乱入して社僧を排撃し、仏像・仏器を投棄し、本地堂に祀られていた平安時代の阿弥陀如来坐像をも路上に遺棄したという。
その仏像は多賀大社の西にある真如寺が保護を願い出て同寺の本堂に安置されたそうだが、その仏像は今も真如寺に残されていて、国の重要文化財に指定されているそうだ。
また、不動院は破壊を免れたものの改造されて社務所にされ、観音院、成就院、般若院は破壊され、本地堂は後で何者かによって火をつけられたようだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_taga.htm

多賀大社の奥書院(県文化)は江戸中期の建物で、庭園が国の名勝に指定されているので中に入ったのだが、この建物も庭も、明治の廃仏毀釈以前は不動院の所有であったという。

雨が降っていたので、庭園はガラス越しに観るしかなかったのは残念だったが、建物はなかなか格調が高く、障壁画もなかなか見ごたえがあった。
また、参集殿につながる廊下を歩いていると、昭和の時代に各界で活躍した著名人が奉納した絵馬が両側の壁に展示されていて、結構楽しむことができた。
次の目的地は国友鉄砲の里資料館(長浜市国友町534:0749-62-1250)。多賀大社からは30分程度で到着する。

以前このブログで天文12年(1543)、種子島に2挺の鉄砲が伝来した翌年に、我が国で鉄砲の大量生産に成功したことを書いた。
『鉄炮記』によると、2挺の火縄銃を手に入れた種子島時尭は、1挺を室町幕府将軍足利義晴に献上し、もう1挺は鍛冶職人の八板金兵衛に命じて、鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲の生産に成功させたとあるが、金兵衛が最も苦労したのは、銃身の底を塞ぐネジの製造方法であったという。金兵衛の娘の若狭が、ポルトガル人から教えを乞い、種子島では鉄砲伝来からわずか数年で、本物に劣らない鉄砲を生産するようになったという。
また、足利将軍に献上されたもう1挺は、根来の砲術家・津田堅者算長が手に入れ、堺の刀工・柴辻清右衛門に命じて堺鉄砲の元を作らせ、さらに大量生産にも成功したという。
では国友の鉄砲生産はどういう経緯で始まったのか。
湯次行孝氏の『国友鉄砲の歴史』によると、こう解説されている。
「『国友鉄砲記』などによると、足利義輝*は、細川晴元を通じて、国友の鉄匠、善兵衛、藤九左衛門を知り、手許の鉄砲を貸し渡して製造を命じた。当時、国友は京極氏の支配下にあり、京極氏は細川党であった関係上、国友鍛冶の技術が細川氏に見出されたのである。」(別冊淡海文庫5『国友鉄砲の歴史』p.10)
*足利義輝:室町幕府12代将軍・足利義晴の嫡男で、のちに13代将軍(在職:1546~1565年)となる。
当時の刀工の技術では銃身を作ることは難しくなかったようだが、ネジの製造については苦労した記録があるようだ。『国友鉄砲記』によると、「次郎介、小刀の欠けたるをもって大根をくりぬくと刃の欠けたる通りに道つきたり、この道理に惑解け、捻というもの出来云々」と、ネジを国友で独自に開発したことが記されているという。
刀工たちは天文13年(1544)8月12日に、足利将軍に完成した鉄砲を2挺献上したというから、種子島で鉄砲が伝来した翌年に、国友でも鉄砲の生産が成功していたようなのだ。

国友で生産された鉄砲は品質が高かったことから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受け、また各地の大名に召し抱えられるなどしてその技術を発展させていったのだが、徳川家康が江戸幕府を開いて以降、鉄砲を必要としない時代が到来する。
慶長12年(1607)に徳川家康は国友の鉄砲鍛冶年寄4名を侍身分にとりたてて、鉄砲鍛冶の管理に関わる法度を申し渡している。
「…一、諸国より大小の鉄砲多く誂候はば、早速相届け申すべきこと
ならびに惣鍛冶新筒受け取り候はば、年寄へ相届もうすべきこと」
一、 鉄砲職分の者猥(みだり)に他国え出で候こと堅く無用たること
一、 鉄砲細工猥に余人へ相伝え申すまじきこと
一、 鉄砲薬調合のこと、ならびに力様薬込、年寄の外、他見他言すまじきこと…」
これらの規則が遵守されるように鉄砲代官が任命され、この年から鉄砲は徳川幕府の許可がなければ製造が出来なくなったのである。
鉄砲代官は幕府の注文以外はほとんど許可しなかったことや、特に島原の乱以降は大量注文を受けることが少なくなって、国友の鉄砲鍛冶の生活はまもなく困窮し始め、かなりの者が農業に従事したり、花火を製造したり、刀鍛冶や金属加工などで収入の道を求めたという。
戦国時代に鉄砲の生産で栄えた日野も堺も早い時期に衰退したにもかかわらず、国友だけが滅亡を免れたのは、国友一貫斎という人物の存在が大きいと言われている。

天明3年(1783)以来大飢饉がわが国を襲ったのだが、一貫斎が制作した反射式天体望遠鏡や空気銃などが大名家などに買われて、国友の住民に仕事と現金収入をもたらしたのだそうだ。国友鉄砲の里資料館から少し北に行くと国友一貫斎の生家があり、上の画像はその門を写したものである。個人の家なので内部は公開されていない。
1日目の旅程を終えて、宿に向かう。
この日に予約を入れていたのは、江戸時代から料理旅館を営んでいるという長治庵(0749-84-0015)。
http://chojian.com/index.html

長浜市の中心部からかなり離れて、木之本町の山間部にある杉野という小さな集落にある茅葺の1軒宿である。
近くに観光名所があるわけでもなく、こんな田舎にと言っては失礼であるが、創業来270年も続く宿があることに驚いた。

上の画像は私が食事をした茅葺の母屋だが、こういう場所で食事をすると随分ほっこりとした気分になる。
夕食は地元で採れた山菜や川魚や肉を素材にしたものばかりであるのが良い。お米もオーナー自らが無農薬で作っておられるのだそうだ。

上の画像はしか肉のルイベと、ますの竹皮蒸しと長治なべ(いのしし鍋)だが、次から次へと出てくる10品近くのすべての料理がとても美味しくいただけて大満足だった。
近くに店らしきものが見当たらない、自然たっぷりの田舎の集落の一軒宿であるからこそゆっくりと時間が流れて、静けさに心が休まる宿で泊まる旅行もなかなか良いものである。
<つづく>
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら、覗いてみてください。
鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html
鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-6.html
秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html
多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html
第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html
鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html
日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html
日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
- 関連記事
-
-
三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3 2011/12/11
-
唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて 2014/09/14
-
慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと 2014/09/20
-
世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って 2014/10/06
-
石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて 2015/04/08
-
湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる 2015/04/13
-
「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて 2015/04/18
-
国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ 2015/10/30
-
三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて 2015/11/06
-
近江八幡の歴史と文化を楽しんで 2016/09/14
-
誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記 2016/09/20
-
白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり 2016/09/26
-
藤の咲く季節に、日野町の歴史と文化を楽しんで 2017/05/19
-
蒲生氏郷が生んだ日野商人の豊かさ 2017/05/26
-
滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他 2018/04/19
-