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島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した

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Category「鎖国」への道
前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。

この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。

そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日本史』で確かめてみると、こう記されている。

島原の乱

「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.160-161)

この文章を普通に読めば、島原・天草地方のキリシタン弾圧がひどかっただけでなく、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったものと理解するしかない。学生時代にはこのような記述を何も考えずに鵜呑みにしていたのだが、よくよく考えるといくつも疑問が湧いてくる。

島原の乱地図

このブログで何度か事例を記してきたとおり、禁教政策はこの地域だけではなく各地で行われていたし、信仰の篤い多くのキリシタンは、迫害を受けた場合に抵抗もせずに殉教の道を選んでいる。なぜ島原・天草のキリシタンは、他の地域のように殉教の道を選ばずに、幕府と戦うことを選択したのだろうか。
また3万7千人とも言われる反乱勢が12万以上の幕府軍と4ヶ月間も戦っているのだが、これだけ長期戦になったのは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に、当時平戸にいたオランダ商館長クーケバッケルがバタビヤ総督に宛てた書状が引用されている。これを読むと、島原藩の領主松倉重政がどのような政治を行ない、島原の乱を主導したメンバーがどういう連中であったかが見えてくる。

松倉重政

「…有馬の君主[有馬直純]は、陛下[将軍]の命にて、他国へ移封せられたが、彼は僅かに若干の臣下を伴い行(ゆ)いた。これに反して新たに有馬に封ぜられたる新領主[松倉重政]は、ほとんど悉(ことごと)くその旧家臣を率いてきた。これがために先領主の旧家臣らは、その歳入を奪われ、非常に困窮して、何れも百姓となった。この百姓は、ただ名のみで、その実は、武器の使用に熟練した兵士であった
 新来の領主は、彼らの旧禄を奪ったにとどまらず、さらに彼らおよび従来よりの純農民に課税し、彼らの負担し得ざる程の米穀の高を徴した。而してもし上納し得ぬ者あれば、日本人の蓑(みの)と称するものを着せ、これを首と体とに捲き締め、縄(なわ)もて両手を背後にしかと縛(しば)り、しかる後この着物に火をつけた。かくて彼らは火傷するばかりでなく、中には焼死する者もあった。この悲劇を蓑踊りと称した。
 この執念深き領主は、また婦女を赤裸にして、両足を縛りて、さかしなに吊るし、その他種々の仕方もて、彼女らを侮辱した。
 しかも人民はかろうじてこれに耐え忍んだだが、その嗣子にして江戸に住する領主[松倉重治]に至りては、さらにその上に重税を課したから、むしろ坐して餓死を待たんよりも、自殺するに若(し)かずと、まず自らの妻子を手刃するにいたった。
 長崎港の南方、有馬領の対岸に位し、退潮の時は、徒歩にても渡り得べき島がある。これが天草島だ。ここの農民もまた、その領主に虐げられた。彼らの領主[寺澤堅高]は、平戸の北方15哩(マイル)の唐津にありて、恒に誅求を事とした。而して彼らは有馬の農民と、互いに相呼応して、一揆を爆発せしめた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/187

このように、島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことをオランダ人が記録していることは重要なポイントである。

外国人の記録だけではなくわが国にも史料があるようだ。たとえば『天草征伐記』には、一揆の中心メンバーの名前が記されているという。徳富蘇峰の同上書にその史料が紹介されている。

天草甚兵衛、同 玄札、大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、芦塚忠右衛門、赤星内膳、この六人一所に集まり、暫らく物語した。大矢野作左衛門曰く、さてさて口惜しきことよ。このままにて餓死に及ぶとは。時に天草玄札曰く、この島(天草島)の領主寺澤志摩守(廣高)は善人であったが、今の兵庫頭(堅高)は、法令苛(きび)しく、無法に百姓に課役をかけ、福分の百姓も悉く貧しくなり、恨み骨髄に徹している。今この時に於いて、一揆を起こし、運を開くか、左なくば、潔く討死しては如何と。芦塚忠右衛門曰く、尤も妙だ。この島は種子島に近く、島中の鉄砲五六百梃もあらん。百姓共も修練して鹿猿を打つ猟師なれば、武士たりとて、これには及ぶべくもあらず。かつこの島民は本来切支丹なれば、この宗門に託して、不思議を現わし、一味徒党を以て、一揆を企つべしと。これにて評定一決した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/189

天草四郎

徳川幕府の正史である『徳川実記』にも首謀者の名前が明記されているようだ。
徳富蘇峰の解説によると、「徳川実記には、小西行長の遺臣にして、朝鮮役に軍功のありたる大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、山善右衛門、森宗意の5人が、主謀者となり、大矢野村庄屋益田甚兵衛の子四郎(後に時貞)といえる、16歳の少年を擁して愚民を煽動した」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/190

『天草征伐記』と『徳川実記』とは首謀者の名前が微妙に異なるのだが、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、そのまわりに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したという点は同じである。しかし、なぜ、戦後の教科書やマスコミなどの解説に、そのことをしっかり伝えないのだろうか。

島原の乱の起こる数年前から、天候異変や台風などにより農作物の不作が続き、農民たちが重い年貢の取立てに困窮していたことや、キリシタンに対する厳しい迫害があったことは史実である。だから、農民たちが年貢の減免を求めて蹶起したというのが国民の常識になってしまっているのだが、この説が作り話である事は当時の史料を読めば明らかなようである。



神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に、当時の記録をもとに「一揆勢」の行動が紹介されているので紹介したい。

「…大矢野村で、大庄屋の小左衛門が百姓ら四、五十人を引き連れて栖本の代官のところに押しかけたことが天草での蜂起の発端であったが、代官のもとに押しかけた百姓たちは、自分達はキリシタンに立ち返る*と宣言したのみで、年貢を減免せよとは言っていない。…この事件についての別の証言では代官自身にキリシタンになるよう迫った、というから、これが百姓側の主要な訴えであったことは確かだと思われる。とすると、年貢の苛酷な取立てに憤った百姓の言い分としては、いかにも奇妙な感は免れない。いったい農民たちは代官に年貢を減免させたいのだろうか、それてもキリシタンに改宗させたいのだろうか。
 また一揆勢は他の村々や周囲の人々にキリシタンになるよう迫り、それに従わない村に対しては攻撃を加えた。天草御領村の住民たちに対して一揆は、キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったという。(『御書奉書写言上扣』)…
通常の百姓一揆では一揆に加わらない村々に制裁を加えたことが知られているが、一揆に加わることとキリシタンに改宗することは別である。一揆勢が迫ったのは改宗であり、下手をすれば『異教徒』の村を敵に回しかねないことである。なぜ、このように、一揆勢力は改宗にこだわったのか。苛酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰を結束軸として立ち上がったという筋書きは、如何にもそれらしくは見えるものの、一揆勢の行動はこれでは説明できないだろう。」(『宗教で読む戦国時代』p.178-179)
*立ち返る:キリスト教を棄教した者が再び信者に戻ること

「まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当杢左衛門覚書』)…

 寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有馬村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すよう伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。また島原の町の水頭にある寺で火事があったとの報に、城内から侍三人が現場へ駆けつけたところ、火事ではなく寺の住持の首を切り三本の竹を組んだ上に指物にして載せて一揆が城へ向かう所であったという(『松竹吉右衛門筆記』)」(同上書 p.179-180)

このような寺社への放火は島原だけでなく天草大矢野島でも行われているのだが、こういう記録を読むとキリシタン連中が立ち上がったのは、重税に抗議したという政治的なものでは全くなく、極めて宗教的色彩の強いものであったと考えるしかない。

天草四郎陣中旗

寺社に火をつけたメンバーの証言も残されている。
「一揆の副将であったが幕府方に内通したために原城落城の後に生きのびた山田右衛門作の証言では、にわかに立ち帰った村の主だった者たちが、人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、『他宗の出家、キリシタンにならないもの』を残らず切り殺して蜂起したのが乱の発端だったという(『山田右衛門作口書写』)。代官林兵左衛門を殺害したのち、佐志喜作右衛門、山善左衛門二人の名前で出された村々への廻状が『耶蘇天誅記』に収められているが、そこでは林兵左衛門が『デウス様』へ敵対したから殺害したことを述べ、早く村々の代官はじめ『ゼンチョ(異教徒)』を一人残らず殺害すべきことが指示されている
 寺社の放火、破壊、僧侶・神官の殺害が等しく『異教徒』を撲滅する行為の一環であったことがうかがえるが、これらの行為が島原藩や、天草地方を統治する唐津藩の苛酷な年貢徴収に対する抗議活動や反対運動と見なすことができないことは言うまでもない。」(同上書 p.180-181)

当時の島原・天草のキリシタン達は、「異教徒」や「異教施設」は世の中から排除すべき存在であると考え、そのために異教徒を殺すことも寺社を破壊することも正しいと考えたようなのだが、「一神教」というものは純粋化すればするほど異教徒に対して排撃的となり、神の名を借りて過激な行動を正当化することがよくある。
このことはキリスト教だけが問題なのでなくて、イスラム教においても同様なことが起きている。

島原の乱においては、このような過激なキリシタンが大量の武器を手にしたから厄介なことになったのだが、この戦いがどう進行し、幕府は如何にして鎮圧したのだろうか。
そのことを記述するとまた長くなってしまうので、次回に続きを書くことにしたい。

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18Comments

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2015/11/10 (Tue) 09:44 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 年貢問題

シークレットコメントは議論がオープンにならないので、原則は返信しないのですが、返信なさる場合は必ずオープンコメントでお願い致します。

神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に紹介されている農民や領主らの記録を読めば、一揆勢が立ち上がったのは圧倒的に宗教的動機です。「一揆勢」が代官のところに押しかけたのは、年貢の減免を要求したのではなく、公の場でキリシタンに立ち返ることを宣言することでした。もし経済的動機が第一であれば、寺社を放火し僧侶を殺害した彼らの行動をどう説明されるのでしょうか。
もし、農民側の訴状で年貢の減免を要求している史料を御存知でしたら、原文が掲載されているURLや書籍をご教示下さい。

2015/11/11 (Wed) 22:39 | EDIT | REPLY |   

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キリスト教徒が寺社仏閣を焼くのは別に珍しいことやないで
キリスト教OKだった大友の軍勢は佐賀龍造寺や日向で寺社仏閣を焼き討ちしてるし、別に普通のこと

2015/12/06 (Sun) 16:03 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

ご指摘の通り、「普通」のことです。
当時イエズス会の宣教師で日本にいたルイス・フロイスが『日本史』に記していることをこのブログで紹介ています。

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

またフロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセも、『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。
「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
この本は、国会図書館のデジタルライブラリーで、PCで読むことが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

2015/12/06 (Sun) 17:21 | EDIT | REPLY |   

kats  

FBに書いたコメントです。

丁度興味がある事だからシェアしてみました。
随分違和感があったので。

島原の一揆側にイエズス会が武器を供与するのは無理じゃないか?1619年の元和禁教令から18年もたっているし1622年の元和大殉教からも15年が過ぎている。
当時外国人神父は島原天草にはいなかった。それが証拠に一揆の加担者は誰一人バチカンにて列福されていない。神父が洗礼しなければカトリック信者にはなれないのよ。
第一スペインはそのころフランスと戦争していて遠く島原に武器を送る余裕はなかっただろう。

当地が有馬領だったころすでに寺社は打ち壊されていたはずだ。
僕が先月訪ねた時は、神社は天神さん。お寺は浄土真宗など中央色の薄いのが目についた。そういう気分なんだろう。
「なぜこの地方はこんなにもキリシタンが浸透したのか?」
から考えるのが大人の姿勢だろう。

在来宗教を打ち壊すだけでISSと同一視するのであれば、比叡山を焼いた信長なんかもISSの流れってこと?
加賀の一向一揆もそれだな。平家も東大寺を焼いたっけ。
それとも、ISSの側にも正当な理由があると言う事か…。確かにな。

1637年、島原で37000人の民が、中央官僚の言う「正義と使命」によって皆殺しにされた。
加害者だけが生き残ったのが「島原の乱」だ。

松倉重政親子の悪魔のような所業は思い出すのも嫌になる。
「人間はここまで残酷になれるとてつもない生物だ」
平和を望む人間として忘れてはならない事件であり、場所である。

2016/04/14 (Thu) 05:31 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: FBに書いたコメントです。

katsさんへ

誰が、Facebokでどんな書き方をしたのかは知りませんが、私はイエズス会が武器を供与したとは一言も書いておりません。他の人の記事を読まれて感情的になられて書かれた文章をそのままこのブログに書き込まれても戸惑うばかりです。

随分凝り固まっておられるようなので、もう少し冷静になって、別の観点からこの事件やわが国キリスト教布教の問題点を、現在残されている史実や記録を踏まえて考察されてはいかがでしょうか。
島原の乱については、katsさんの疑問点については、私のブログでこの記事に続けて島原の乱に関して5本の記事を書いていますので、先ずそれを読んで頂きたいと思います。

2016/04/14 (Thu) 12:55 | EDIT | REPLY |   

某  

松倉重政さんってのは、島原の乱の責任を一身に背負わされたため、不当な評価をされがちですが。
彼の前任地、大和吉野。当時産業のなかった地に、彼が設計し、丹精込めて作った宿場町が、鉄道に街道の機能を奪われた今も尚、残っています。

松倉さんが外征計画を建言して島原に赴任したことを知る人が、このあたりの史実の隠ぺいを図ろうとコメント欄まで躍起になってるわけですな。

2016/04/15 (Fri) 13:29 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

某さん、コメントありがとうございます。

松倉重政は前任地では五條新町地区の礎を築いた名君として「豊後様」と称えられているようですね。江戸時代には重政に感謝して松倉祭りが行なわれたという記録もあるようです。

家光の時代になって徳川幕府がキリシタンの弾圧を強化したことから、どこの藩でも幕府の命令に従って実行していますので島原だけの問題ではありません。もともとあった城を破棄して島原城を築いたのも、一国一城制の幕府の方針に従ったまでのことです。

ご指摘の通り重政は寛永7年(1630)に幕府に対し、フィリピンからの宣教師潜入をストップさせるためにマニラ侵攻を提案し、家光も乗り気でした。当時のフィリピンの国防は日本人の傭兵(即ち日本人奴隷)と日本製の武器に頼っていましたから、スペインを追い払うことは不可能であったとは思えません。この企ては重政の死によって中止となりました。家光は寛永14年(1637)にも、ルソン征伐を企てましたが、島原の乱が起きたために中止となりました。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html

このような歴史は、多くの人に知ってもらいたいですね。

2016/04/15 (Fri) 21:13 | EDIT | REPLY |   

-  

ISの中枢はフセイン政権下の元官僚や軍人で、末端戦闘員は貧乏人や宣伝に感化された愚民
というのとそっくりな話。陽の下に新しきものなし。

2016/05/18 (Wed) 14:10 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

コメントありがとうございます。
島原の乱は通説で読んでも全くリアリティがないと感じていたので調べてみましたが、このような真実は、キリスト教国にとっては「日本人に知らせたくない歴史」のようですね。

2016/05/18 (Wed) 18:42 | EDIT | REPLY |   

一体感を感じる名無し  

すばらしく画期的な学説です

はやく学会に発表してください。

2016/06/06 (Mon) 16:14 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: すばらしく画期的な学説です

お褒めの言葉を戴き、ありがとうございます。

私は単なるサラリーマンなので、学会などで発表できる人間ではありませんが、このような説はおそらく学者の先生は既に御存知だと思います。
このブログで書きましたが、『宗教で読む戦国時代』を著された東洋大学の神田千里教授や早稲田大学の大橋幸泰准教授は、島原の乱が宗教戦争であったことを明確に書いておられます。

問題は、そのような説を通説に一行たりとも書かせない日本史学会の大御所先生なのですが、多くの若手の日本史7研究者が大御所に逆らえないムラ社会のような世界が戦後長らく続いてきました。そしてそういう人々が学界を支配することで「戦勝国にとって都合の良い歴史叙述」が護られてきましたが、読者が日本人に今まで押し付けられてきた歴史叙述に疑問を感じる度合いが強くなれば、いずれは歴史が書き替えられることになるでしょう。
はやくそういう日が来ることを期待しています。


2016/06/06 (Mon) 20:30 | EDIT | REPLY |   

ホツマツタヱ史学研究家 吉田六雄  

島原の乱、杉谷村の住民はどちらに組みしたか

島原の乱について、次の調査を行っております。わかるようでしたら、ご教授をお願いします。
現地の原城址に立つ「原城攻防布陣図」を見ますが、現在の島原市の中に、明治22年まで存在した「杉谷村」の表示がありません。もし、わかれば、どちらに組みしたを教えて下さい。
もし、杉谷村の名がなければ、島原の乱の以降に、三会村、または、島原村より別れたと思っております。

2016/08/20 (Sat) 12:48 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 島原の乱、杉谷村の住民はどちらに組みしたか

吉田六雄さま、コメントありがとうございます。

地元にはもっと詳しい資料が残っているとは思いますが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 』のなかに「島原領内村々之内より一揆に成村家数人数之覚」という資料が出ています。国立国会図書館のデジタルコレクションに公開されているので、誰でも確認ができますが、ここには他の村は載っていますが「杉谷村」の記録はありません。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/193

2016/08/20 (Sat) 14:07 | EDIT | REPLY |   

みかん  

島原の乱について興味を持って色々記事を見ていたらこちらにたどりつきました
不勉強な身ですがコメント失礼いたします
しばやんさまは勝者が叙述する歴史というものに懐疑的ですが、こちらで一揆は圧倒的に宗教的動悸だったものとする根拠としてあがっている各資料は勝者側である幕府の下にいる人、幕府側についた人のものではないのでしょうか
少なくとも勝者側に協力したオランダの記録で松倉重政が重税を課して拷問を行っていた、と書かれいて、鈴木重成の訴えからも生きていくのが苦しい重税であったのは間違いなかったわけですよね
どういう立場からの資料であれ複数同じことを書いてあるのなら寺への放火などは事実であった可能性が高いと思いますが・・・
それでも重税による貧しい生活とキリシタン弾圧の2つが重なったことによる「宗教的側面のある一揆」という従来のイメージを抱きます

2018/12/29 (Sat) 15:06 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

みかんさん、コメントありがとうございます。

この記事だけだと理解し難かったかもしれませんが、「宗教的側面のある一揆」という捉え方にしては乱の規模が半端ではありません。3万7千人と言われる反乱軍が12万以上の幕府軍と4ヶ月以上も戦ったのですが、これだけ大規模かつ長期の戦いになったのは、反乱軍が大量の武器弾薬を保有し武器の使い方にも習熟していたからにほかなりません。

ではなぜ、反乱軍にこれだけの兵力が存在したのかということを説明するとなると、スペイン、ポルトガルがわが国で何をしようとしていたかを知る必要があります。このブログの「大航海時代の西洋と日本」「鎖国への道」というカテゴリでイエズス会等の宣教師がどのようなレポートを残しているか、秀吉や家康、秀忠、家光はキリスト教とどう向き合ったかをいろいろ書いていますので、参考にしていただくとありがたいです。

戦前の書物には書かれていても、戦後の書物には封印されている史実がいくらもあることに気付けば、教科書などで書かれている歴史叙述の「従来のイメージ」に疑問を持つことになるのではないでしょうか。

2018/12/29 (Sat) 21:08 | EDIT | REPLY |   

ラングドック・ラングドシャ  

武器供与

横から失礼します。
私は以前アルゼンチンに住んでいたのですが、かの地にスペイン人が来た当初、そちら側についた現地人に武器を与え、他の部族を攻撃させたので、スペイン人が単独で攻略するよりも、遙かに短時間でアルゼンチンを支配することができたと言う文を見たことが有ります。本多勝一の『マゼランが来た』の中にも、ウルグアイでも同様なことが行われたという記述があったと記憶しています。
アフリカでは、海岸部に住む部族に武器を与え、その部族が他の部族を襲い、奴隷を確保することが行われていたそうです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8975185.html
北米でのフレンチ・インディアン戦争も、現地人を戦力として利用した点では同様な気がします。
日本の場合、文化・文明が進化した国であり、攻撃される側の勢力が、武器を貸与された側よりも強力な武力と理性を持っていたという、特異なケースだったのではないかと思います。

2018/12/30 (Sun) 09:56 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 武器供与

「現地人に武器を与え、他の部族を攻撃させ」るという手法は、スペインに限らす西洋諸国が世界各地で用いた、植民地拡大のための常套手段でした。大航海時代にスペインやポルトガルは、日本についても同様の方法で植民地化を図ろうとしましたが失敗しました。
すなわち、キリスト教を布教を広めキリシタン大名を育てて支援することで日本国内に対立軸を作ろうとしたのですが、日本の為政者が早い段階でスペインやポルトガルの魂胆を見抜き、それを許さなかったことが大きかったと考えています。

2018/12/30 (Sun) 19:33 | EDIT | REPLY |   

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  • 島原の乱は宗教的動機による内戦だった
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