島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量に保有していたからなのだが、では、彼らはこれらをどうやって調達したのだろうか。

「一揆勢」の突然の蜂起を鎮圧するだけの兵力がなかったために、島原藩は領民に武器を貸し与えて鎮圧しようとしたのだが、中にはその武器を手にして一揆軍に加わる者もいたという。しかし、そんなやり方で調達できる武器と弾薬はたかが知れている。
通説では「一揆勢」が島原藩の倉庫や富岡城から武器や弾薬を奪ったと書くのだが、そもそも島原藩の武器倉庫が無防備な状態にあったとは考えにくく、富岡城が落城したわけでもないのに大量の武器が奪えたことも考えにくい。大した武器を持たずに、城内の武器庫から大量の鉄砲・弾薬を奪えたとしたら、余程島原城や富岡城を守る兵士の中に多数の内応者がいたということしかありえないが、もしそうだとしても、満足な訓練もしてこなかった者が、鉄砲のような武器を使いこなせるはずがないのだ。
はじめから「一揆勢」がかなりの武器・弾薬を持っていて、しかも、かなりの訓練を受けていなければ、農民を中心とする部隊が正規軍を相手に戦えるはずがないのだが、それを頭から否定する論者に、かなり臭いものを感じている。
以前このブログで、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰の内容を紹介したことがある。そこには、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであり、そのためにはどのような方法を取るべきかが詳細に記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html
このクルスの考え方でイエズス会あるいはポルトガル、スペインが戦う準備していたと考えると、全てが矛盾なく説明ができるのだが、私見を述べる前に、まずクルスの書簡のポイント部分を振り返っておく。文中の国王(陛下)はスペイン王フェリペ3世(当時スペイン王はポルトガル王を兼務し、ポルトガル王としてはフィリペ2世と呼んだ)を意味している。

「日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。
…
隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう。
…
金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。
…
われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.140-142)
このようにクルスは、キリスト教を受けいれた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしているのだが、少なくとも当時の九州には有力なキリシタン大名が多数いて、その条件は整っていた。
ではどうやって勝利するというのか。クルスの文章は島原の乱の起こる38年も前に記されたものだが、この時点で島原の乱の舞台となった天草に注目しているのは驚きだ。

「このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)
そのような拠点を確保したうえで、シナ[中国]をまず征服すべきだと説いている。
「スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服の事業のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。このシナ征服については、…次の3点だけを提言したい。
(1) シナを改宗させるためには、征服による以外に手段があるとは到底考えられない。
(2) シナ征服を成就し得る武力は、日本から調達する以外にありえない。
(3) このようなスペイン人と日本の国々との結束を見る者は、主がその信仰の大規模な宣布のためにそれを命じ給うたことを信ずることが出来よう。そして当地に充分基礎を固めた都市を所有することが、このような結果を作るきっかけとなる。…」(同上書p.149-150)
クルスはスペイン人なので、スペインが日本に拠点を持つべきだと最初に述べているが、ポルトガル人も同様に拠点を持つべきであるとし、九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視していることに注目したい。前回および前々回に記したとおり、島原の乱を主導したメンバーには小西行長の遺臣が多数いたこともあわせて考えるべきだと思う。

「…日本人はポルトガル人のことを、何ら征服の意図をもたずにマカオに居留していると思いこんでいるので、このような企てが成就する可能性は大きい。その上、この下(シモ:九州)が上(カミ)から離反すると信じられているが、もしそうなれば、下の殿達がポルトガル人にそのような基地を与えることは疑いない。またアウグスチノ津守殿(小西行長)が諸手をあげて志岐の港を彼等に与えることは間違いない。…」(同上書 p.150-151)
このブログで何度か書いてきたが、わが国の為政者はスペインにわが国を占領しようとする意図があることを読みとっていた。しかしポルトガルについてはそれほど警戒していなかったとクルスは述べている。その上でクルスは、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということにも言及している。彼の考えでは九州はポルトガルに任せるのが良いとしている。

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…」(同上書 p.154)
クルスの書翰がその後イエズス会でどのように取り扱われたかは知る由もないが、わが国のキリシタン大名を使ってまずシナを攻めることについては、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、秀吉の時代からスペイン国王に提案していたことを知るべきである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html
そして、シナと朝鮮半島がポルトガルかスペインの植民地とすることに成功すれば、次はわが国が狙われることになることは言うまでもないだろう。
彼らはまずシナを征服し、大陸で布教を拡げようと考えていたことは確実だが、征服するための武力については「日本から調達する以外にありえない」とクルスは断言している。では、彼らはシナに送り込む日本兵および武器・弾薬をどうやって調達するつもりであったのだろうか。
もちろん徳川幕府が諸藩に命じてポルトガルとともに中国を攻めることはあり得ないことなので、彼らはキリシタン大名に頼らざるを得ないと思うのだが、もしキリシタン大名がポルトガル支援に前向きであったとしても、幕府の許可なくしては不可能だし、幕府の許可が出るとも思えない。
とすると、ポルトガルは徳川幕府の支配の及ばない地域をわが国の領土の中に確保するしか方法がない。すなわちキリシタン大名が支配する九州の一部をわが国から独立させるか、キリシタン大名の支援を得てポルトガルが支配する地域を九州に作らなければ、堂々と日本兵をシナに派兵できないのである。そのためには、彼らはどこかの時点で幕府と戦わざるを得ないことは誰でもわかる。
クルスの書翰で特に気になるのは、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が天草島の志岐港を与えることを確実視している点である。なぜこ小西行長の名前が出せたのだろうか。イエズス会と小西行長は、シナの侵略とその協力について相当話を進めていた可能性を感じさせる部分である。
もし彼らが、徳川幕府の支配の及ばない地域を確保し、さらに日本の武力を用いてシナを征服するためには、ポルトガルが大量の武器・弾薬をいざという時の為に蓄えていたと考えるのが自然ではないか。その武器が島原の乱に使われたとは考えられないか。

少し時代は遡るが、天正8年(1580)に大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進している。そしてイエズス会東インド管区の巡察師ヴァリニヤーノが同年の6月に日本準管区長コエリョに宛てて長崎を軍事拠点とせよという指令を出している。

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその指令が翻訳されている。
「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

こうして長崎に築かれたイエズス会の城塞は、天正16年(1588)に豊臣秀吉が長崎を直轄領にした際に破壊されたと思っていたが、1590年のオルガンティーノの書簡によると「火縄銃や弾薬、その他の武器で有馬の要塞の防御工事を行ない、有馬にはいくつかの砲門があった」とあり、さらにフランシスコ会のサン・マルティン・デ・ラ・アセンシィオンの報告によると、長崎は再び軍事要塞化されていたとある。上の画像はマカオに残っている17世紀に造られたイエズス会の要塞の址である。

高橋氏の『イエズス会の世界戦略』にアセンシィオンの報告の一部が引用されている。
「イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(同上書 p.225-226)
このような記述を読むと、イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたことが明らかである。
高橋氏の著書では江戸時代におけるイエズス会の動きについては何も書かれていないのだが、この様な大量の武器弾薬をもし江戸幕府が分捕っていたらそれなりの記録があるはずなのだが、そのような記録は存在しないようだ。
また、イエズス会による火縄銃の訓練がいつまで続けられたかは想像するしかないが、江戸幕府がキリスト教の弾圧を高めたくらいで彼らが諦めて武器・弾薬ごとポルトガルに持ち帰ることは考えにくい。また、徳川幕府の記録では、島原の乱の乱徒は「三万七千名」と記されているそうだが、アセンシィオンの報告では、キリスト教徒たち「三万名の火縄銃兵」が訓練を続けたようなのだが、この数字が近いのは偶然ではないのではないか。
私の考えだが、この訓練で用いられていた大量の武器は島原か天草か、ポルトガル船など何箇所かに分散して隠されていて、訓練は江戸時代に入ってからも何らかの形で続けられていたのではなかったか。そう考えないと、島原の乱の「一揆勢」が島原藩や唐津藩などの正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だと思う。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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