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島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

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Category「鎖国」への道
島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。

寛永15年(1638)5月2日に
一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/241

キリスト教禁教

同年9月20日には
「一 伴天連門徒、累年御制禁たりと雖(いえど)も、断絶する無く、この度九州に於いて悪逆を企ておわんぬ。これによりいよいよ諸国これを相改む。彼の宗門これありて訴人致すやからは、たとい同宗なりとも、その咎を許され、公儀よりご褒美をくださるべき旨、これを仰せ出ださる。この趣を在国大名へ老中より奉書並びに相添えご褒美の覚書、これを差し遣わさる。…
  覚
一 ばてれん*の訴人  銀子二百枚
一 いるまん*の訴人  同百枚
一 きりしたん*の訴人 同五拾枚 又は三拾枚、訴人によるべし。
右訴人致し候やからは、たとい同じ宗門たりというとも、その宗旨をころび申出るにおいては、その咎を許し、ご褒美御書付のごとく下さるべき旨、仰せ出ださるものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/242
*「ばてれん」「いるまん」はいずれもキリスト教宣教師だが、「ばてれん」は司祭職で、「いるまん」はその補佐。「きりしたん」はキリスト教信徒を意味する。

このように江戸幕府は、キリスト教の信仰を棄てない者に懸賞金を付けて衆人環視させようとしたのだが、それでも充分ではないとして、寛永16年(1639)7月5日には、さらに、このような法令を出している。

「條々
一 日本国御制禁なさるる、きりしたん宗門の義、その趣を存じながら、彼の法を弘める者。今に密々差し渡しの事。
一 宗門の族(やから)徒党を結び邪義を企つれば、すなわち御誅罰の事。
一 伴天連(ばてれん)同宗旨の者、かくれ居る所へ、彼の国よりつゝけの物送り与うる事。
右これにより自近以後、がれうた*渡海の義これを停止せられおわんぬ。この上もし差し渡すにおいては、その船を破却し、乗り来たる者は悉(ことごと)く斬罪に処すべきの旨、仰せ出ださるところなり
。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/244
*がれうた:貨物船という意味。主としてポルトガル、スペイン船を対象にしたもの。

良く知られているように、江戸幕府はすべての国との交易を閉ざしたのではなく、オランダと中国とはある制限の下に交易を許していた。

オランダ船

たとえば、オランダ人に対しては次のような申し渡しをしているが、中国に対しても同様な申し渡しがあったようだ。

「覚
一 切支丹宗門の儀、堅く御禁制の上、いよいよその旨を守り、彼の法を弘むる者乗せ来たるべからず。違背致し候わば、その船中ことごとく曲事たるべし。自然隠し乗せ来たるにおいては、同船のものたりというとも、これを申し上ぐべく、きっとご褒美下さるべきのものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/245

このように、オランダも中国もキリスト教の布教につながる宣教師などの渡来が厳禁され、それに違反する行為の密告を奨励してその取締りの徹底を期していたのである。

よくよく考えると、オランダもキリスト教を奉じる国であり、1568年から1648年にかけて宗主国スペインとの間で独立戦争を戦いつつ、東インドに進出してポルトガルから香辛料貿易を奪い、1624年には台湾島を占領するなど植民地を拡大していった国である。
なぜ江戸幕府は、危険な国であったはずのオランダとの交易を許したのかと誰でも疑問に感じるところだが、江戸幕府は島原の乱の直前にオランダとの外交交渉で勝利していることを知って納得した。

以前このブログでタイオワン事件(ノイツ事件)のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

簡単にこの事件の概要を振り返っておこう。

1624年にオランダが台湾島を占領し、台南の安平(アンピン)をタイオワンと呼び始め、タイオワンに寄港する外国船にいきなり10%の関税をかけはじめたのだが、その港はそれまで朱印船貿易の台湾における拠点であった。
新参者のオランダに対しわが国の朱印船はその関税支払いを拒否したことから、寛永2年(1625)には初代台湾総督ソンクが千五百斤の生糸を日本人から没収するなど様々なトラブルが起こり、オランダは寛永4年(1627)6月12日に第三代台湾総督のペーテル・ノイツを特使として日本に向かわせて、台湾を占領した事情を徳川幕府に説明し、幕府から日本商船の台湾渡航を一時禁止してもらおうとした。それを知った朱印船船長の浜田弥兵衛が先に日本に戻り、オランダ人の無法な仕打ちを長崎奉行や江戸幕府に訴えたことから、ノイツらは将軍との謁見も許されず、早々に日本を立ち去ることを命じられている。ノイツらオランダ人の弥兵衛に対する怒りは相当なものであったという。

一方、寛永5年(1628)に浜田弥兵衛を船長する船が台湾に着くと、船の荷物はオランダ人に没収された上、弥兵衛や船員は謀反人として捕えられてしまう。ところが浜田弥兵衛は十数人の部下と共に、ノイツ総督の部屋を訪ねて武器の返還と出航の許可を求めに行き、断られたタイミングで弥兵衛はノイツに飛びかかり素早く剣を抜き、ノイツを捕縛することに成功する。

浜田弥兵衛

この日から6日間ノイツは縛られたまま弥兵衛たちと交渉を続け、没収した商品の返却と、日蘭両国がそれぞれ人質を出して、相手の人質を乗せて両国の船がともに日本に向かい日本到着後に人質を釈放することで6月3日に和解が成立した。

ところが無事に両国の船が長崎に着くと、今度は江戸幕府が長崎奉行に命じてオランダ船の人質を監禁し、大砲などの武器を取り上げたばかりではなく、平戸にあったオランダ商館の帳場を閉じ、オランダ人の商売を禁じた上、その後入港してきたオランダ船まで取り押さえてしまったのである。

日本側の怒りを鎮めるために寛永9年(1632)にノイツ総督が派遣されて、オランダの人質が解放され、オランダとの貿易も再開されたのだが、このノイツは牢に入れられ、解放されたのはなんと寛永13年(1636)と、島原の乱の前年である。この年に日光東照宮の社殿が落成し、その式典にオランダのバタビア総督から日光廟に青銅製の大燭台やそのほかの珍しい唐物を献上したのを機会に、江戸幕府はノイツを牢から放してやり、この事件はようやく解決したのである。

日光東照宮 オランダ灯籠

タイオワン事件の経緯を知ると、江戸幕府がオランダに対し、外交交渉で決して負けていなかったことが理解できる。島原の乱で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことは、タイオワン事件で幕府がオランダとの間で優位に交渉を進めたことと無関係であるとは思えない。

西洋諸国の中で、オランダにだけわが国との貿易を許した江戸幕府だが、その交渉においてもオランダに対して強気の交渉を行なっていることはもっと広く知られて良いと思う。

徳富蘇峰の同上書にはこう解説されている。わかりやすいように、和暦の後に西暦年を付記しておいた。ちなみに文中の松平信綱は幕府より討伐上使として派遣され、島原の乱を鎮圧した人物である。

orandasyoukan-400.jpg

松平信綱は、島原よりの凱旋の途次、平戸に立ち寄り、オランダ商館を視察し、その宏壮城郭の如きを見て、すこぶる戒心するところあった。蓋(けだ)し平戸におけるオランダ商館は、慶長17年(1612)に第1回の建築を了し、元和2年(1616)には倉庫一棟、および埠頭を増築し、また商館を去る約一マイルの所に、木材貯蔵用の藁葺家屋を建築し、元和4年(1618)には、領主松浦氏の許可を得て、付近の家屋五十余戸を破壊し、本館を増築し、倉庫二棟、及び石造の火薬庫、病室、その他に充つべき家屋数戸を建築し、石塀をもてこれを囲んだ。その宏壮偉麗であったことは、英国商館長コックスが、驚嘆したほどでわかる
しかるにオランダ人は、これに満足せず、寛永14(1637)年、同16年(1639)には、さらに間口152フィート半、奥行45フィート、高さ24フィートの倉庫を増築した。されば当時の記録に『家倉を建て、或は2階、3階を揚げて、内には金銀珠玉を飾り、蔵は切り石をもって畳み上げ、つまりつまりに塀をかけ、その美々たる有様、奢りの至り、往還の人見るに目を驚かし、聞くにまして夥(おびただ)し』と評したのは、理(ことわ)りあることだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246

平戸オランダ商館

平戸オランダ商館の跡地は国指定史跡となっていて、1639年に建築された倉庫が復元されているが、当時はもっと多くの建物があり、広大な敷地に建てられた城郭のような有様であったという。そして江戸幕府は、オランダに命じてこの大規模で建てられたばかりの倉庫を、破壊させているのである。
江戸幕府はどのような交渉を行なったのだろうか、徳富蘇峰の解説を続けたい。

「この寛永14年(1637)から16年(1639)に建築したる倉庫前面の破風に、会社の徽章を刻して、その左右に、耶蘇起源の年号*を割りて彫りたることが、幕府の咎めるところとなった。すなわち寛永17年(1640)9月25日、井上筑後守は、長崎奉行柘植平右衛門とともに平戸に来たり、翌日商館長以下重要館員と城内に召喚し、蘭(オランダ)人が幕府の禁令を顧みず、耶蘇生誕の年号を、倉庫の前面に彫刻するを咎め、爾後日曜日を守り、宗教の儀式を行うを禁じ、耶蘇教の年号を掲げたる倉庫は、北の新築倉庫をはじめとして、悉くこれを破壊すべきを命じた。
 日本の事情に通じたる当時のオランダ商館長カロンは、直ちにその命を遵奉し、入港中の蘭船乗組員200人を上陸せしめ、さらに約同数の日本人を使役し、即日倉庫の荷物を他に移し、破壊に着手し、5日にしてこれを終わった
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246
*耶蘇起源の年号:西暦のこと。「耶蘇」はキリストのこと。

倉庫の破壊は寛永17年(1640)11月24日に行なわれたのだが、もしオランダ商館長のカロンが倉庫破壊にすぐに応じていなければ、オランダ人もポルトガルと同様に国外退去を命じられていたのではないだろうか。井上筑後守は、オランダが倉庫破壊に応じない場合は、威力を以てこれを強行する準備をしていたという。
しかしオランダは倉庫破壊に応じたものの、これから先日本との交易がどうなるかについては江戸幕府からの回答を長い間待たなければならなかった。

カロンに代わってオランダ商館長となったルメールが、寛永18年(1641)4月2日に江戸に呼ばれて徳川将軍家光に謁見したのち、老中から将軍の命を伝えられている。徳富蘇峰の同上書に、徳川実紀(『大猷院殿御実紀』巻四十六)の該当部分が紹介されている。

「4月2日。和蘭人2人拝し奉る。よて老臣井上筑後守政重仰せを伝う。蘭船この後長崎に着船互市すべし。天主教の徒、他の蛮船に乗り来たる事ありて、これを知らば、速やかに訴え出づべし。もし、匿し置いて後日露わるるにおいては、蘭船も通商を禁断せらるべしとなり。訳官これを伝えしかば、蘭人この後固く国禁を守り奉るべき由申して退く。[徳川実紀]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/248

とは言いながら、オランダは従来通りの活動が許されたわけではなかった。江戸幕府は、オランダ商館員以外のオランダ人は悉くジャワに放逐されたのち、寛永18年(1641)5月4日に商館員の一部を長崎に送り、6月17日には全員平戸を引き揚げさせ、狭い出島に閉じ込めたのである。

dejima10.jpg

徳富蘇峰はこう解説している。
「オランダ人はポルトガル人の後を襲(つ)いで、大いにその力を伸ばす望みを懐(いだ)いたであろう。しかも事実は全くポルトガル同様、出島に閉じ込められた。出島は扇の地形にて東西各35間余、陸に接したる北側96間余、南側118間余にて、総坪数3900余坪に過ぎぬ。周囲には板塀を廻らし、長崎の町とは、一の石橋もてこれを連絡している。橋のたもとに番小屋がある。…島内には、商館長以下の住宅、乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、また遊園を設け、牛、羊、豚等を飼養している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/250

こんな狭い出島に閉じ込められた上に、オランダ人には自由がなかった。
出島の入口にはこのような制札が建てられていたという。
「禁制  出島
一 傾城*の外女入る事。
一 高野ひじりの外出家山伏入る事。
一 諸勧進**並びに乞食入る事。
一 出島廻り榜示杭より内、船乗り込むこと。附り 橋の下船乗り通る事。
一 故なくしてオランダ人出島より出る事。
右の條々これ相守るべきものなり。」
*傾城:遊女  
**勧進:仏教の僧侶が寺社の修理の為に必要な寄付を募る事


オランダ船の入港

出島には日本人の公用以外の出入りも禁止されており、日本人と話すこともままならなかったという。寛永19年(1642)にはオランダ東インド会社総督より老中にあてて待遇の改善を嘆訴したようだが、幕府は応じようとしなかったそうだ。
オランダ人にとっては、無条件に幕府に従うか、ポルトガルの様に追放されるかのどちらかしか選択肢は存在しなかったことになる。

今のわが国は、政治家も官僚も近隣諸国に振り回されているのが現状だが、徳川幕府は、17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪って黄金時代を迎えていた強国オランダを、長い間コントロール下に置いていたことはもっと広く知られるべきだと思う。

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4Comments

大伴細人  

日本の歴史を知ることは、自分を知ることだと思っています。

2015/05/27 (Wed) 23:59 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

そのとおりですね。日本人のルーツを探ることは、現代社会を深く知り、自分を深く知ることに繋がりますね。

2015/05/28 (Thu) 07:01 | EDIT | REPLY |   

-  

幕府がオランダとの交易を許可したのは、同じキリスト教でも
プロテスタントだったので、布教という面から見て無害だったからだと思います。
予定説を採用するプロテスタントは、有色人種を神の救済対象に含みません。
従って、日本への布教の必要はありませんでした。


2015/07/04 (Sat) 03:11 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

オランダが布教をしなかったのは、江戸幕府と布教しないことを約束していたという記述を読んだことがありますが、「予定説」という考え方が背景にあるという指摘は初めて読みました。なぜオランダが布教しないこと同意したかという点は興味があるので、調べてみます。情報ありがとうございました。

2015/07/04 (Sat) 08:09 | EDIT | REPLY |   

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