文化財の宝庫・室生寺とそのルーツを訪ねて
朝早く自宅を出て、最初に訪れたのは室生寺の末寺である大野寺(おおのじ:0745-92-2220)。かつては室生寺の西の大門とも呼ばれていたという寺だ。
寺伝によるとこの寺は、白鳳9年(681年)に役小角(えんのおづぬ)により創建され、天長元年(824)に弘法大師が堂を建立して本尊弥勒菩薩を安置し「慈尊院弥勒寺」と称したのがはじまりだとされている。

これが大野寺の本堂だが、残念ながらこの寺は明治33年(1900)に火災に遭い、現在の堂宇はその後再建されたものである。中には国重文の木造地蔵菩薩立像が安置されているという。
境内には、樹齢300年を超える小糸桜や、樹齢100年の紅枝垂れ桜が30本もあり、桜の季節には多くの観光客が訪れるという。
この寺を訪れたかったのは、宇陀川を挟んだ対岸の正面の巨岩に彫られている、像高約11mの弥勒如来立像(国史跡)を観賞したかったからである。

この磨崖仏は、興福寺の僧・雅縁が笠置寺の磨崖仏を模して造立する事を発願したといい、承元元年(1207)10月から1年かけて、宋人の石工伊行末(いのゆきすえ)とその一派が線刻を施したという。承元3年(1209)3月7日の落慶供養には後鳥羽上皇の御幸があり、盛大に行われた記録があるという。それから800年以上が経過しているにもかかわらず、今も線刻がしっかりと確認できる。
しかし、この大野寺の磨崖仏も地下水の滲出等で剥落する危険があったため、1993年から1999年にかけて保存修理工事を実施したという。その工事によって地下水の流路が変わって、ようやく線刻が鮮明に見えるようになったのだそうだ。

この大野寺から車で10分ほど走ると室生寺(045-93-2003)がある。

朱塗りの太鼓橋を渡り、右に進んで昭和時代に再建された仁王門を潜ると、左にばん字池と石段が現われる。鎧(よろい)坂と呼ばれるこの石段を登ると、左に弥勒堂(国重文)、正面に金堂(国宝)がある。

弥勒堂は鎌倉時代前期に建立された建物で、中央の厨子に木造弥勒菩薩立像(国重文)があり、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)が安置されている。

金堂は平安時代前期の建物で、内陣には中央に木造釈迦如来立像(国宝)が、向かって左には木造文殊菩薩立像(国重文)・木造十一面観音菩薩立像(国宝)が、右には木造薬師如来立像・木造地蔵菩薩立像(ともに国重文)が安置されているがいずれも平安時代前期の仏像である。
そして5体の平安仏の前には鎌倉時代の十二神将立像(国重文)が並んでおり、本尊の背後の板壁には国宝の帝釈天曼荼羅図が描かれている。

上の画像はJR東海が2009年に制作した室生寺キャンペーンのポスターだが、ここに写っているのは、室生寺金堂の内陣である。
最近は古刹を訪れても、国宝などの仏像がガラスケースに入れられて、宝物館で拝観するケースが多くなっているのだが、室生寺の良いところは、観光客と文化財である仏像との間に遮るものが何もないところである。
金堂だけではなく室生寺の他の堂宇もそうなのだが、千年以上の歴史のある仏像などが、参拝者の目の前に祈りの対象として存在し、観光客は昔の人と同様に、これらの仏像に手を合わせることが出来る。この当たり前のことが出来る空間が、ずいぶん減ってきていることは悲しいことだ。

金堂から石段をさらに登ると国宝の本堂がある。鎌倉時代の延慶(えんぎょう)元年(1308)に建てられもので、内陣にある厨子には、御本尊の木造如意輪観音坐像(国重文)が安置されている。密教系の6本の腕を持った仏像で、観心寺(大阪)・神咒寺(かんのうじ:兵庫)の如意輪とともに日本三如意輪の一つと称されているのだそうだ。

本堂左の石段を登って行くと、国宝の五重塔が姿を見せる。この建物は室生寺の草創期である9世紀前半頃に建てられたとされ、屋外に建てられた五重塔としては法隆寺の塔に次いでわが国で2番目に古く、高さは16.1mで、屋外にあるものとしては日本最小なのだという。
この塔は平成10年(1998)の台風による倒木で大きな被害を受けてしまったが、2年後に修復されて、今も色鮮やかである。
ここで、少しばかり室生寺の歴史を振り返ってみよう。
室生寺の草創期については『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)という文書に記録があり、それによると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)に、皇太子山部親王(やまべしんのう)の病気平癒のため、5人の僧侶が室生の龍穴にて延寿法(えんじゅほう)を行なったところ、親王は龍神の力で見事に回復したという。
そこで朝廷の命で興福寺の僧賢璟(けんけい)がこの場所に寺院を造ることになったのだそうだが、その後賢璟が没し、山部親王は即位をして桓武天皇となり、この寺の造営は興福寺の僧・修円に引き継がれ、それから相当の年月をかけてこの寺の伽藍が整えられたと考えられている。
以降、室生寺は興福寺の僧侶を中心とする修業の場として発展したのだが、江戸時代に、5代将軍綱吉の母桂昌院(けいしょういん)の命により興福寺から分離独立し、当時女人禁制であった高野山とは異なり、女性にも開けた寺として「女人高野」と呼ばれるようになったのだそうだ。
このような室生寺の歴史を知ってから、室生寺のルーツとも言える「龍穴」を祀る、室生龍穴(むろうりゅうけつ)神社に興味を覚え、今回の旅行で是非訪れたいと思っていたので、今回の旅行では室生寺の奥の院をカットして旅程に入れていた。

室生寺から室生川に沿って東に1kmほど進んだ場所に室生龍穴神社(0745-93-2177)がある。
この神社は室生寺よりも古く、この神社の上流に龍神が住むと伝わる「龍穴」があり、古代からこの場所が聖地とされてきたようだ。
そしてこの神社は請雨の神として国家的崇拝を受けてきた記録が残されている。
『日本後紀』をネットでテキストを探して「室生」で文字検索を試みると、嵯峨天皇の御代に室生で雨乞いをした記事がヒットする。
巻第二十六の弘仁8年(817)6月の記録
「六月己未朔、庚申。遣律師伝統大法師修円於室生山祈雨。(6月2日 律師伝灯大法師位修円を室生山に派遣して、祈雨をした)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.40)
この雨乞いの祈禱をした修円は、先ほど紹介した、室生寺の草創期に伽藍を整えた興福寺の僧のことである。
また巻二十七の弘仁9年(818)7月の記録。
「丙申。遣使山城国貴布禰神社・大和国室生山上竜穴等処。祈雨也。(7月14日 使いを山城の国の貴布禰神社・大和国の室生山上の竜穴等に遣わして、祈雨を行なった。)」(訳文は講談社学術文庫『日本後紀 下』p.57)
「貴布禰神社」というのは京都の「貴船神社」の事だと思うが、どうやら室生の「龍穴」は、貴船神社とともに日本有数の雨乞いの聖地のような存在であったようだ。

上の画像は寛文11年(1671)の建立と伝えられている本殿で、奈良県の文化財に指定されている。
また、この神社の狛犬もまた素晴らしい。

このように由緒ある神社なのだが、社務所は無人だった。あまり寄付が集まっているようではなさそうだが、過疎化の進む山合いの地で、このような歴史ある文化財を後世に守り伝えることは大変な事だと思う。
「龍穴」へは、神社の境内から山に入る道があるだろうと思っていたのだが、境内からは聖地に繋がる道がないようだった。
境内を見渡すと「龍穴」への案内地図の看板があるが、わかりにくいので地元の人に聞くと、この神社から28号線をさらに東(室生寺と反対側)に400mほど進むと途中で左に折れる道があり、その山道をまっすぐ進むと「龍穴」があるという。その道は舗装されているとのことだったので車で行くことにした。
道は決して広くはないが、対向車はほとんどなく、待避所もいくつかあるので、運転は心配なかった。
「龍穴」に向かう途中で、天照大神が籠もったとされる「天の岩戸」と呼ばれる巨石があり、その巨石が見事に2つに割れている。

そこから少し進むと「龍穴」の入口を示す鳥居がある。この辺りは道幅が広くなっていて、2-3台の車は路肩に駐車が可能だ。

鳥居を潜り川の方向に進むと遥拝所があり、そこから「龍穴」を拝することになる。
上の画像が「龍穴」で、大きな岩にぽっかりと洞穴が開き、しめ縄が架けられている。
この辺りには土はほとんどなく、一帯が大きな岩のようで、岩の割れ目が龍の鱗のようにも見える。

遥拝所の右手には、巨大な岩盤の上を滑るように水が流れ落ちていく「招雨瀑」(しょううばく)という小さな滝がある。
この滝の上もずっと岩山であり、いかにも巨大な龍が「龍穴」に向かって何度もここを通ったために、岩が平らになっているようにも見える。
何万年かかって自然が造りあげたのだろうがなかなか見事な眺めで、この地に神が宿っていると考えて、古代の人々がこの地を大切にしてきた気持ちが伝わってくる。この日は水量が少なかったが、雨上がりの後の水量の多い時にはかなり見ごたえがありそうだ。
室生寺を訪れる観光客は多くても、その近くに千年以上前から歴史に残される祈禱が行なわれた場所があり、それが室生寺のルーツであり、今も手つかずの自然が残されていることを記した旅行書のようなものがないので、この地を訪れる人はほとんどいないと言って良い。
室生寺に行く予定のある方は、古代の日本人が祈りをささげて来たこの場所に立ち寄ってみられてはいかがだろうか。
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