日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
高取城は標高583メートルの高取山山上に築かれた山城で、Wikipediaの解説によると
「曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる」とある。

山城では、今は竹田城がすごい人気で多くの観光客を集めているのだが、竹田城は山城でも「日本三大山城」には入っていないのである。
竹田城の面積は18,473㎡というから高取城の方がはるかに大規模であるのだが、にもかかわらず観光客が少ないのは、高取町の宣伝力の弱さもその理由の一つだろうが、最大の理由はそのアクセスにある。
もし壺阪寺の駐車場から歩いていくとしたら片道1時間は覚悟が必要だ。
もし近鉄電車を利用して壺阪山駅から歩くとすると、片道2時間程度もかかってしまうし、近くまで運んでくれるようなバスも存在しない。
大阪方面から電車で行く人には良く出来たアクセスマップが次のURLにあるが、1日かけて近隣の社寺とともに周ることになる。
http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/siroato_access.html
せっかく車で行くのだから高取城址往復の時間をできるだけ短くしたいと思って、ネットで高取城址近辺の駐車場情報を探していたが、『奈良に住んでみました』というブログにかなり詳しく出ているのを見つけた時は嬉しかった。このブログは他のページも写真が沢山あって非常にわかりやすい。
http://small-life.com/archives/14/06/1420.php
結論から言うと、駐車場は道路終点にある「七ツ井戸」の駐車場に4台程度と、八幡神社付近の路肩に3台分程度の駐車スペースしかないのだが、ハイキング客が多いことを勝手に期待して高取城の近くまで車で行くことにした。
午前中の雨が幸いしたのか、お昼時にここに着いたことが良かったのか、八幡神社付近の路肩に駐車できたのはラッキーだった。ここからなら、本丸まで15分程度で登ることができる。

ここで簡単に高取城の歴史を振り返っておく。
この城は南北朝時代に南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城したのが始まりと伝えられるが、織田信長の時代に大和国内の城は郡山城のみと定められ、天正8年(1580)に廃城となっている。
信長より大和一国を与えられて郡山城主となっていた筒井順慶が、本能寺の変の後天正12年(1584)にこの城を本格的城塞に改めたのだが、翌天正13年(1585)に伊賀国上野へ転封となり、大和国は豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の支配下となり、その重臣・本多利久がこの城の城主となり大改修を敢行したという。
関ヶ原の戦いの後高取藩が成立し、本多利久の子・俊政が初代藩主となるも、その長男・本多政武に嗣子がなかったために本多氏は改易となり、寛永17年(1640)に旗本の植村家政が高取城主となって、以降明治4年(1871)の廃藩置県まで植村氏が14代234年にわたってこの城の城主であったのだが、明治6年(1873)に廃城が決定し、その後入札により建造物の一部が近隣の寺院などに売却されている。
明治20年(1887)頃までは天守をはじめとした主要な建造物の多くが城内に残されていたようだが、明治24年(1891)頃に建物のすべてが取り壊されたという。今では立派な石垣だけが残されている。

車から降りて、よく整備された坂道をしばらく登っていくと「壺坂口門」があり、もう少し行くと二ノ丸の高い石垣(上画像)が続いて、右に折れると高取城大手門址に到る。下の画像は「大手門址」の石垣である。

明治時代に取り壊される直前に、大手門から撮影された高取城の貴重な写真が1枚残されている。
城の写真を撮るとすれば天守閣をアングルに入れようとするのが普通だと思うのだが、当時はすでに取り壊されていたか、相当傷んでいたのではないだろうか。この写真で言えば、本丸や天守閣はもう少し左に存在していたはずである。

奈良産業大学が高取城をコンピューターグラフィックで再現していて、この写真のアングルからの高取城の雄姿を次のURLで見ることが出来るのだが、こんな立派な城がこんな山奥に資材を運んで建立されていたというのは驚きである。
http://sightseeing.takatori.info/sightseeingspot/shiro_cg.project/old_photo.html

大手門を抜けると二の丸跡で、更に進むと本丸跡がある。本丸の高い石垣の前に「高取城址」と彫られた石碑があるが、石垣の大きさには不釣り合いなサイズだ。

天守閣はこの上に建てられていたそうだが、この石垣は石を平らにしてきっちりと積み重ねられており、数百年の年月を経たにもかかわらず今もなお堅牢な造りである。

本丸に到着すると、思った以上の広さで、南には吉野方面の山々を望むことができる。
壺坂口から城郭に入ったので城の中心部を観ただけだったが、もう少し時間があれば、国見櫓址や猿石なども観ておきたかったところである。
車に戻って山を下り壺阪寺(0744-52-2016)に向かう。10分程度で到着する。
この寺は高取山の中腹にあり、西国三十三ヶ所の第6番札所で正式名称は「壺阪山平等王院南法華寺」というのだそうだ。

寺のリーフレットによると「大宝3年(703)に元興寺の弁基上人がこの山で修業していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んで祀ったのが始まり」と記されているが、この大宝3年という年は持統天皇が火葬された年で、そのことと壺阪寺の創建とは関係があるという説がある。
壺阪寺のホームページに、『月刊ならら2003年6月号』の記事が紹介されているが、この記事がなかなか面白い。

関西外国語大学戸田秀典氏が指摘した「壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路を拡張した線上の高取山に位置する。」という事実と、岸俊男氏が指摘した「藤原京の中軸線上に7~8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在している」という事実をどう考えるかについての論考だが、この記事はこう結論付けている。
「…八角円堂はすべて、誰かの霊をなぐさめるために建てられている。
壷阪寺の八角円堂は、持統天皇の霊を弔うため、弁基が建立したという以外には考えられない。壷阪寺に伝わる『古老伝』に元正天皇が壷阪寺を南法華寺と称して勅願寺にし、長屋王が永代供養することになったという記事がある。元正天皇は持統天皇の孫であり、長屋王も義理の孫にあたる。壷阪寺は祖母の供養のための寺であったのである。」
壺阪寺の発掘調査で、本堂の基檀は創建当初から八角形であったことが判明しており、白鳳時代の瓦もそこから発掘されているという。
http://www.tsubosaka1300.or.jp/line.html

壺阪寺の仁王門を通って石段を登ると三重塔(国重文)が建ち、その奥に礼堂(国重文)と本堂、阿弥陀堂、弁天堂、権現堂、鐘楼などの堂宇が建っている。
随分建物が多いので昔の壺阪寺はどのようであったのかを知りたくなって、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で『大和名所図会』の記事を探してみる。

『名所図会』は江戸時代末期に、日本各地の名所・旧跡・景勝地の由来などを記し、風景画を多数添えた刊行物だが、『大和名所図会』は寛政3年(1791)に出版されている。大正8年(1919)以降4年がかりで、大日本名所図会刊行会が諸国の『名所図会』を集めて『大日本名所図会』としてシリーズ出版して、その第1輯 第3編が『大和名所図会』になっている。
その巻五に壺阪寺の絵があるが、今の堂宇と比べると随分建物が少ないことがわかる。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/278
堂宇や仏像等が増えることは寺が豊かになったと理解して良いのだろうが、この寺が大きく変わった要因のひとつは明治時代のはじめに人形浄瑠璃『壺阪霊験記』が大流行して、それ以降この寺の参拝者大幅に増加したことにある。
『壺阪霊験記』は、盲目の夫『沢市』の開眼を祈る妻『里』の純愛が、沢市の目を開けさせるという夫婦愛の物語なのだが、壺阪寺のHPにそのあらすじが出ている。
http://www.tsubosaka1300.or.jp/report.html

この寺を大きく変えたもう一つの要因は、先代住職が昭和40年インドにてハンセン病患者救済活動に参加されて以降、インド国内各地において奨学金事業、学校運営助成事業などの国際交流を展開され、そのご縁から南インドカルカラの三億年前の古石を切り出してインドで制作された石造物が、この寺に置かれるようになったことである。
その志は素晴らしく、また個々の作品はそれなりによく出来ているのだが、これらの石造物が白すぎて、古い木造の日本の伝統的な建物のある歴史的景観を損ねてはいないだろうか。

その点で、道路の反対側にある建立された高さ28mの大観音石像と全長8mの大涅槃石像は、周囲に古いものがないからか、特に違和感を覚えない。三重塔の裏のレリーフなども、こちらのエリアに設置したほうが良いと私は考える。

大観音像付近からは、生駒山や奈良盆地、大和三山などが良く見えてなかなかの眺めである。
先程、「藤原京の中軸線上に7~8世紀の天武・持統陵、中尾山古墳(文武陵)・高松塚古墳・キトラ古墳など、天武朝の皇族に関係する古墳が多く点在している」ということを述べたが、古代史学者の岸俊男氏はこのラインを『藤原京の聖なるライン』と名付けたという。そしてこのラインが上の画像の右寄りに存在することになる。
古代の人々は皇居に向かって遥拝をし、皇室の人々は先祖に対して祈りを捧げた。
その方角が一直線であることにより、祈りのパワーが高まるとでも考えたのであろうか。
以前このブログで若狭彦神社-平安京-平城京-飛鳥京-熊野本宮が直線上にあることを書いたが、有名な社寺や都が直線上にある事は少なくないのである。
(つづく)
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【ご参考】
このブログでこんな城址の記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。
日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html
「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html
白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html
津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html
若狭彦神社-平安京-平城京-飛鳥京-熊野本宮が直線上にある事を次の記事で書いています
東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html
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