高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて
前回の記事で『藤原京の聖なるライン』のことを書いた。すなわち壷阪寺は藤原京の中心道路である朱雀大路の延長線上にあり、そのライン上に天武・持統天皇陵や高松塚古墳・キトラ古墳など天武朝の皇族に関係する古墳が点在する。
壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。
飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も無料であることは有難い。

駐車場から高松塚古墳までは歩いて5~6分程度だが、思った以上に緑が多くて、軽いハイキング気分で歩けるのは楽しいものである。
高松塚は小さな古墳なのだが、昭和47年(1972)の発掘調査で彩色壁画が発見されたことで一躍有名になった。石槨内部の天井と側面には漆喰が塗布され、その上に彩色された高松塚古墳壁画(国宝)が描かれているのだが、もちろん本物を見ることは叶わない。

古墳の西側にある『高松塚壁画館』に入る。そこに国宝高松塚壁画の模写、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬品のレプリカなどが展示され、高松塚古墳の全貌がわかりやすく再現されている。

今まではテレビや書物などで何度見たかわからない壁画なのだが、レプリカとは言え実物大の絵はなかなか迫力がある。

そのすぐ近くに特別史跡『高松塚古墳』がある。
思いのほか小さな古墳で、鎌倉時代頃に石室の南壁に盗掘された孔が開けられていたのだそうだが、孔があったにもかかわらず、よくぞ壁画の彩色が、1300年以上の時を超えて鮮やかに残されていたものだと感心する。
ところでこの高松塚古墳の被葬者が誰であるのかについては諸説があるという。
Wikipediaによると、古墳が造られた時期については「2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された」のだそうだが、被葬者については、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説や、臣下の石上麻呂だとする説や朝鮮半島から来た王族の墓とする説などいろいろある。
しかし、この古墳が、ほぼ『藤原京の聖なるライン』の上にあるので、天武天皇の皇子の可能性を考えたくなってしまうところである。

『藤原京の聖なるライン』を離れて、天理市にある石上(いそのかみ)神宮(0743-62-0900)に向かう。
この神社は桜井市の大神(おおみわ)神社と並ぶ日本最古の神社とされているのだが、その理由は『日本書紀』の第十代崇神天皇の記述の中に大神神社と比定される神社があり、第十一代垂仁天皇の記述の中には『石上神宮』が実名で出てくるからなのであろう。
『日本書紀 巻第六』垂仁天皇39年10月の条にはこう記されている。
「五十瓊敷命(いにしきのみこと)*は、茅渟(ちぬ:和泉の海)の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)においでになり、剣1千口を造らせられた。よってその剣を…石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
*五十瓊敷命:景行天皇の皇子で、第12代景行天皇の異母兄
また石上神社のホームページにはその歴史についてこう記されている。
「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。」
http://www.isonokami.jp/about/index.html
この神社が物部氏の総氏神となった経緯については、『日本書紀』にしっかり記されている。
垂仁天皇87年2月5日条にはこんな記述がある。
「五十瓊敷命が妹の大中姫命(おおなかつひめ)に語って言われるのに、『自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい』と言われた。大中姫は辞退していわれるのに『私はか弱い女です。どうしてよく神宝を高い宝庫に登れましょうか』と。五十瓊敷命は『神庫が高いと言っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない』と。…そして大中姫命は、物部十千根大連(もののべとおちねのおおむらじ)に授けて治めさせられた。物部連らが今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
要するに、五十瓊敷命が石上神社の神宝を掌る役割を妹の大中姫命に引継ごうとしたのだが、重たい神宝を運ぶのは力のいる仕事なので大中姫命は物部氏に譲ってしまい、それ以来この神社は物部家の総氏神となったというのである。

これだけ古い伝承を残す神社であるので、価値あるものが数多く残されていることは注目して良い。
運悪く土塀が修理中であったが、国重文の楼門は文保2年(1318)の建立である。

中に入ると拝殿(国宝)がある。この建物は白河天皇が永保元年(1081)に皇居の神嘉殿(しんかでん)を移したとされている。面白いことに、石上神宮には大正時代までは本殿がなく拝殿後方の禁足地を神聖な地として、拝殿が本殿と同等の扱いを受けていたそうだ。
その禁足地に本殿を建てるべく明治7年(1874)以降に発掘すると、4世紀ごろの勾玉や武具類が大量に出土して、そのすべてが重要文化財に指定されているという。
またこの神宮の神庫に伝わる「七支刀(しちしとう:国宝)」は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられており、製作年は西暦369年と考えられている。

石上神宮のホームページには一言も書かれていないのだが、実はこの神社の摂社に国宝の建物が存在する。
修理中で良い写真を撮ることが出来なかったのは残念だったが、上の画像が国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿(文永年代[1264―75]の頃の建立)である。実はこの建物は、ここから800mほど南に存在した内山永久寺の鎮守住吉社の建物を明治時代に移築したものなのである。
江戸時代寛政3年(1791)に出版された『大和名所図会』には、内山永久寺の僧侶が、石上神社のお祭りに関与していた記述がある。
「祭礼にはかの浣布*にとどまりし剣とて、袋におさめて鳥居の外まで出し奉る。また笈渡しということあり。神前に護摩を修し、寶蔵の笈**三負い出して、僧の肩にかけて行いあり。この時内山永久寺・横尾山龍福寺、産沙数村の僧侶ここにあつまりて勤めけるとぞ。」
*浣布(かんぷ):対火性の布 **笈(おい):修験者などが仏具・衣服などを収めて背に負う箱
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/179
神仏習合時代の石上神宮の祭りの形が垣間見える文章だが、調べると内山永久寺は、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記され、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であった。
ところがこの寺は、明治の廃仏毀釈で完全に破壊されてしまったのである。

今回の奈良旅行で、最後に内山永久寺の跡地を訪れる計画を立てていた。
カーナビでは行けない場所なのだが、石上神宮から山の辺の道を南に歩けば辿りつけるはずである。
石上神宮の境内にわかりやすい地図が掲示されているが、山の辺の道を歩いて散策するには次のURLの地図が役に立つと思う。
http://kanko-tenri.jp/hiking_course/yamanobe_minami.html

山の辺の道はしばらく石上神社の境内の森の中を歩く。この辺りは緑に囲まれて非常に気持が良い。

そこから細い道を道なりに15分ほど歩いていると大きな池につきあたる。この池が内山永久寺の境内にあった大亀池である。この池に半島の様に突き出した場所があり、そこに「内山永久寺記念碑」が建てられている。

下の画像は江戸時代の享和年中から文化年中(1801-1818)に制作された『和州内山永久寺図』である。中央の池が大亀池で境内には多数の堂宇があったのがわかるのだが、明治初期にすべてが破壊されて今は果樹園になってしまっている。

先程紹介した『大和名所図会』にはこの寺の挿絵が2枚もあるのだが、同じ寺社についての記事で挿絵が2枚もある事例は珍しい。下の絵はその1枚目のものである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/181

またこの書物には、この寺についてこう記述されている。
「宗旨は真言にして、本堂は阿弥陀仏を本尊とす。奥の院の不動明王は、日本三体のその一なり。観音堂・千体仏堂・二層塔・大師堂、真言堂には大日如来を安ず。額は鳥羽院の宸筆(しんぴつ)なり。鎮守の社は清瀧権現・岩上明神・長尾天神を勧請す。また元弘年中笠置城没落の時、後醍醐天皇しのびて入御したまう遺跡、本堂の乾(いぬい)*にあり。また大塔宮(だいとうのみや)**もこの内山に隠れ給う。そのほか諸堂魏々として、子院四十七坊ありとなん。宗派は醍醐金剛院の法流にして、当山派の法頭なり。」
*乾(いぬい):北西の方角 **大塔宮:後醍醐天皇の皇子の護良(もりなが)親王
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/182
少し補足すると「当山派」というのは、真言宗系の修験道の一派である。Wikipediaによると、「平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした」とあり、「平安時代、9世紀に聖宝が金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、『当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)』と称し、毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。」と解説されているのだが、今回の旅行で宿泊した洞川温泉が内山永久寺と繋がっていたことは旅行を終えてから知って驚いてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E5%B1%B1%E6%B4%BE
S.Minagaさんのホームページ『がらくた置場』の「大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔」のページに、この寺に関する多くの史料が紹介されており、その文章の中に、昨年夏に行われた、天理大学の吉井敏幸教授の講演内容が紹介されている。
「永久寺東の山中に奥之院、行場が存在した。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織される。中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなす。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
内山永久寺は前々回の記事で紹介した洞川温泉の龍泉寺と同様に修験道の聖地であったのだが、修験道は神仏習合の信仰であったが故に、この寺が激しく破壊されてしまうことになったのだと思う。
内山永久寺はただ規模が大きかっただけではなく、数多くの価値ある文化財があったことを記さねばならない。
その多くは破壊されてしまったのだが、国内に残されたものの大半が、国宝や国重文に指定されている。また海外に流出した文化財もいくつかあり、ボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。
その点については以前このブログで「奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか」という題名で記事に書いたので、よかったら覗いてみて頂きたい。
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦の著書で昭和12年に出版された『十三松堂閑話録』の一部を紹介したが、これを読めば内山永久寺の優品がどういう経緯でわが国に残されたかを理解していただけると思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

内山永久寺の境内の中央にあった大亀池のほとりに芭蕉の句碑があったのでカメラに収めておいた。
松尾芭蕉(1644~1694)が伊賀上野に住んでいた頃に、たまたま春にこの地を訪れて、桜が満開であったことを詠んだ作品で、寛文10年(1670)に刊行された『大和順礼』に収録されているという。
「うち山や とざましらずの 花ざかり」
この場所を訪れて見事に咲き誇る桜を観賞した若き日の芭蕉が、その200年後に、この歴史ある大寺院が日本人の手によって徹底的に破壊されることになるとは、思いもよらなかったことであろう。
明治以降のわが国の歴史叙述では、薩長にとって都合の悪い歴史はほとんどが封印されてしまっており、こういう歴史に触れる機会がほとんどない現状ではあるが、明治維新から150年近く経って、そろそろ明治維新の功罪について公平な視点で議論されても良いのでないだろうか。この時期にわが国で大規模な文化破壊があった事実は、もっと多くの人に知っていただきたいものである。
梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるそうだが、現在わが国に残されている文化財の一つひとつが、わが国の歴史の中で何度も訪れた様々な危機を乗り越えて、我々の先祖によって代々護られてきた貴重なものであることを知ることが、文化財を大切にすることに繋がるのだと思う。
そんな事を考えながら2日間の奈良の旅行を終えるとにした。
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【ご参考】
このブログで、奈良の廃仏毀釈についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
悲しき阿修羅像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html
寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html
文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html
明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html
一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html
奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-127.html
奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html
廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html
壺阪寺の後は、ほぼ聖なるライン上にある高松塚古墳を訪れるため、国立飛鳥歴史公園館(0744-54-2441)に向かう。
飛鳥歴史公園は5地区からなり、その中心が高松塚周辺地区で、公園の入園料も駐車場料金も無料であることは有難い。

駐車場から高松塚古墳までは歩いて5~6分程度だが、思った以上に緑が多くて、軽いハイキング気分で歩けるのは楽しいものである。
高松塚は小さな古墳なのだが、昭和47年(1972)の発掘調査で彩色壁画が発見されたことで一躍有名になった。石槨内部の天井と側面には漆喰が塗布され、その上に彩色された高松塚古墳壁画(国宝)が描かれているのだが、もちろん本物を見ることは叶わない。

古墳の西側にある『高松塚壁画館』に入る。そこに国宝高松塚壁画の模写、棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬品のレプリカなどが展示され、高松塚古墳の全貌がわかりやすく再現されている。

今まではテレビや書物などで何度見たかわからない壁画なのだが、レプリカとは言え実物大の絵はなかなか迫力がある。

そのすぐ近くに特別史跡『高松塚古墳』がある。
思いのほか小さな古墳で、鎌倉時代頃に石室の南壁に盗掘された孔が開けられていたのだそうだが、孔があったにもかかわらず、よくぞ壁画の彩色が、1300年以上の時を超えて鮮やかに残されていたものだと感心する。
ところでこの高松塚古墳の被葬者が誰であるのかについては諸説があるという。
Wikipediaによると、古墳が造られた時期については「2005年の発掘調査により、藤原京期694年~710年の間だと確定された」のだそうだが、被葬者については、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子ら、天武天皇の皇子を被葬者とする説や、臣下の石上麻呂だとする説や朝鮮半島から来た王族の墓とする説などいろいろある。
しかし、この古墳が、ほぼ『藤原京の聖なるライン』の上にあるので、天武天皇の皇子の可能性を考えたくなってしまうところである。

『藤原京の聖なるライン』を離れて、天理市にある石上(いそのかみ)神宮(0743-62-0900)に向かう。
この神社は桜井市の大神(おおみわ)神社と並ぶ日本最古の神社とされているのだが、その理由は『日本書紀』の第十代崇神天皇の記述の中に大神神社と比定される神社があり、第十一代垂仁天皇の記述の中には『石上神宮』が実名で出てくるからなのであろう。
『日本書紀 巻第六』垂仁天皇39年10月の条にはこう記されている。
「五十瓊敷命(いにしきのみこと)*は、茅渟(ちぬ:和泉の海)の菟砥(うと)の川上宮(かわかみのみや)においでになり、剣1千口を造らせられた。よってその剣を…石上神宮に納めた。この後に、五十瓊敷命に仰せられて、石上神宮の神宝を掌らせられた」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
*五十瓊敷命:景行天皇の皇子で、第12代景行天皇の異母兄
また石上神社のホームページにはその歴史についてこう記されている。
「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。
総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰がれる御祭神は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られました。」
http://www.isonokami.jp/about/index.html
この神社が物部氏の総氏神となった経緯については、『日本書紀』にしっかり記されている。
垂仁天皇87年2月5日条にはこんな記述がある。
「五十瓊敷命が妹の大中姫命(おおなかつひめ)に語って言われるのに、『自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい』と言われた。大中姫は辞退していわれるのに『私はか弱い女です。どうしてよく神宝を高い宝庫に登れましょうか』と。五十瓊敷命は『神庫が高いと言っても、私が梯子を造るから、庫に登るのが難しいことはない』と。…そして大中姫命は、物部十千根大連(もののべとおちねのおおむらじ)に授けて治めさせられた。物部連らが今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」(講談社学術文庫『日本書紀(上)』P.148)
要するに、五十瓊敷命が石上神社の神宝を掌る役割を妹の大中姫命に引継ごうとしたのだが、重たい神宝を運ぶのは力のいる仕事なので大中姫命は物部氏に譲ってしまい、それ以来この神社は物部家の総氏神となったというのである。

これだけ古い伝承を残す神社であるので、価値あるものが数多く残されていることは注目して良い。
運悪く土塀が修理中であったが、国重文の楼門は文保2年(1318)の建立である。

中に入ると拝殿(国宝)がある。この建物は白河天皇が永保元年(1081)に皇居の神嘉殿(しんかでん)を移したとされている。面白いことに、石上神宮には大正時代までは本殿がなく拝殿後方の禁足地を神聖な地として、拝殿が本殿と同等の扱いを受けていたそうだ。
その禁足地に本殿を建てるべく明治7年(1874)以降に発掘すると、4世紀ごろの勾玉や武具類が大量に出土して、そのすべてが重要文化財に指定されているという。
またこの神宮の神庫に伝わる「七支刀(しちしとう:国宝)」は『日本書紀』の神功皇后摂政52年に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられており、製作年は西暦369年と考えられている。

石上神宮のホームページには一言も書かれていないのだが、実はこの神社の摂社に国宝の建物が存在する。
修理中で良い写真を撮ることが出来なかったのは残念だったが、上の画像が国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社の拝殿(文永年代[1264―75]の頃の建立)である。実はこの建物は、ここから800mほど南に存在した内山永久寺の鎮守住吉社の建物を明治時代に移築したものなのである。
江戸時代寛政3年(1791)に出版された『大和名所図会』には、内山永久寺の僧侶が、石上神社のお祭りに関与していた記述がある。
「祭礼にはかの浣布*にとどまりし剣とて、袋におさめて鳥居の外まで出し奉る。また笈渡しということあり。神前に護摩を修し、寶蔵の笈**三負い出して、僧の肩にかけて行いあり。この時内山永久寺・横尾山龍福寺、産沙数村の僧侶ここにあつまりて勤めけるとぞ。」
*浣布(かんぷ):対火性の布 **笈(おい):修験者などが仏具・衣服などを収めて背に負う箱
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/179
神仏習合時代の石上神宮の祭りの形が垣間見える文章だが、調べると内山永久寺は、鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光によって12世紀のはじめに創建され、後に石上神宮の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと記され、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれた大寺院であった。
ところがこの寺は、明治の廃仏毀釈で完全に破壊されてしまったのである。

今回の奈良旅行で、最後に内山永久寺の跡地を訪れる計画を立てていた。
カーナビでは行けない場所なのだが、石上神宮から山の辺の道を南に歩けば辿りつけるはずである。
石上神宮の境内にわかりやすい地図が掲示されているが、山の辺の道を歩いて散策するには次のURLの地図が役に立つと思う。
http://kanko-tenri.jp/hiking_course/yamanobe_minami.html

山の辺の道はしばらく石上神社の境内の森の中を歩く。この辺りは緑に囲まれて非常に気持が良い。

そこから細い道を道なりに15分ほど歩いていると大きな池につきあたる。この池が内山永久寺の境内にあった大亀池である。この池に半島の様に突き出した場所があり、そこに「内山永久寺記念碑」が建てられている。

下の画像は江戸時代の享和年中から文化年中(1801-1818)に制作された『和州内山永久寺図』である。中央の池が大亀池で境内には多数の堂宇があったのがわかるのだが、明治初期にすべてが破壊されて今は果樹園になってしまっている。

先程紹介した『大和名所図会』にはこの寺の挿絵が2枚もあるのだが、同じ寺社についての記事で挿絵が2枚もある事例は珍しい。下の絵はその1枚目のものである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/181

またこの書物には、この寺についてこう記述されている。
「宗旨は真言にして、本堂は阿弥陀仏を本尊とす。奥の院の不動明王は、日本三体のその一なり。観音堂・千体仏堂・二層塔・大師堂、真言堂には大日如来を安ず。額は鳥羽院の宸筆(しんぴつ)なり。鎮守の社は清瀧権現・岩上明神・長尾天神を勧請す。また元弘年中笠置城没落の時、後醍醐天皇しのびて入御したまう遺跡、本堂の乾(いぬい)*にあり。また大塔宮(だいとうのみや)**もこの内山に隠れ給う。そのほか諸堂魏々として、子院四十七坊ありとなん。宗派は醍醐金剛院の法流にして、当山派の法頭なり。」
*乾(いぬい):北西の方角 **大塔宮:後醍醐天皇の皇子の護良(もりなが)親王
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/182
少し補足すると「当山派」というのは、真言宗系の修験道の一派である。Wikipediaによると、「平安時代から江戸時代にかけて存在した真言宗系の修験道の一派。金峯山を拠点とし、三宝院(醍醐寺)を本寺とした」とあり、「平安時代、9世紀に聖宝が金峯山を山岳修行の拠点として以降、金峯山及び大峯山での山岳修行は真言宗の修験者によって行われるようになった。鎌倉時代に入ると、畿内周辺にいた、金剛峯寺や興福寺・法隆寺などの真言宗系の修験者が大峯山中の小笹(おざさ、現在の奈良県天川村洞川(どろがわ)地区)を拠点に結衆し、『当山方大峯正大先達衆(とうざんがたおおみねしょうだいせんだつしゅう)』と称し、毎年日本各地から集まる修験者たちの先達を務め、様々な行事を行った。」と解説されているのだが、今回の旅行で宿泊した洞川温泉が内山永久寺と繋がっていたことは旅行を終えてから知って驚いてしまった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E5%B1%B1%E6%B4%BE
S.Minagaさんのホームページ『がらくた置場』の「大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔」のページに、この寺に関する多くの史料が紹介されており、その文章の中に、昨年夏に行われた、天理大学の吉井敏幸教授の講演内容が紹介されている。
「永久寺東の山中に奥之院、行場が存在した。中世、当山派修験は興福寺金堂衆を中心とする興福寺末寺で構成する寺院の山伏で組織される。中世後期には内山修験(上乗院)は当山派修験の中で重きをなす。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_eikyuji.htm
内山永久寺は前々回の記事で紹介した洞川温泉の龍泉寺と同様に修験道の聖地であったのだが、修験道は神仏習合の信仰であったが故に、この寺が激しく破壊されてしまうことになったのだと思う。
内山永久寺はただ規模が大きかっただけではなく、数多くの価値ある文化財があったことを記さねばならない。
その多くは破壊されてしまったのだが、国内に残されたものの大半が、国宝や国重文に指定されている。また海外に流出した文化財もいくつかあり、ボストン美術館所蔵となっている鎌倉時代の仏画『四天王像』は、国内にあれば間違いなく国宝指定だと言われている。
その点については以前このブログで「奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか」という題名で記事に書いたので、よかったら覗いてみて頂きたい。
東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦の著書で昭和12年に出版された『十三松堂閑話録』の一部を紹介したが、これを読めば内山永久寺の優品がどういう経緯でわが国に残されたかを理解していただけると思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html

内山永久寺の境内の中央にあった大亀池のほとりに芭蕉の句碑があったのでカメラに収めておいた。
松尾芭蕉(1644~1694)が伊賀上野に住んでいた頃に、たまたま春にこの地を訪れて、桜が満開であったことを詠んだ作品で、寛文10年(1670)に刊行された『大和順礼』に収録されているという。
「うち山や とざましらずの 花ざかり」
この場所を訪れて見事に咲き誇る桜を観賞した若き日の芭蕉が、その200年後に、この歴史ある大寺院が日本人の手によって徹底的に破壊されることになるとは、思いもよらなかったことであろう。
明治以降のわが国の歴史叙述では、薩長にとって都合の悪い歴史はほとんどが封印されてしまっており、こういう歴史に触れる機会がほとんどない現状ではあるが、明治維新から150年近く経って、そろそろ明治維新の功罪について公平な視点で議論されても良いのでないだろうか。この時期にわが国で大規模な文化破壊があった事実は、もっと多くの人に知っていただきたいものである。
梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるそうだが、現在わが国に残されている文化財の一つひとつが、わが国の歴史の中で何度も訪れた様々な危機を乗り越えて、我々の先祖によって代々護られてきた貴重なものであることを知ることが、文化財を大切にすることに繋がるのだと思う。
そんな事を考えながら2日間の奈良の旅行を終えるとにした。
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【ご参考】
このブログで、奈良の廃仏毀釈についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
悲しき阿修羅像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html
寺院が神社に変身した談山神社
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html
文化財を守った法隆寺管主の英断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-80.html
明治期の危機を乗り越えた東大寺
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂
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奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方
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奈良の文化財の破壊を誰が命令したのか
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廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
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