明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
修験道は仏教でも神道でもなく、日本古来の山岳信仰と、仏教の密教、道教、儒教などが結びついて平安時代末期に成立した宗教なのだが、霊験を得るために山中の修行や加持祈祷、呪術儀礼を行なう者を修験者、または山に伏して修行する姿から山伏とも呼ばれている。
修験道は神仏習合の信仰であり、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られてきたのだが、それが明治維新後に激変することになったのである。

仏教学者・五来重氏の著書『山の宗教 修験道案内』(角川ソフィア文庫)で、熊野信仰の解説の中の文章を引用させていただく。
「熊野は、神々の信仰の非常に卓越した修験道の霊所でした。したがって本地仏はあるが神として拝まれており、その結果、近世に入ると紀州藩の宗教政策もあり、神道を表に立てるようになります。
ふつうは江戸時代に入っても、神社にはそれぞれ別当*がおり、別当の方が優越して、神主というのは、ただ祝詞(のりと)をあげるときだけ頼まれる、というのが実態でした。経済的なものはすべて別当か神宮寺が握っており、神主はあてがい扶持だったのです。しかし歴史的には、中世の中ごろから神主側の巻き返しがあり、いわゆる伊勢神道というのが出来、あるいは唯一神道、吉田神道というものになり、江戸時代に入って復古神道でもって仏教の地位を落していく。それが結果として明治維新の排仏毀釈になったので、山伏も一時なくなるわけです。」(『山の宗教 修験道案内』p.9)
*別当:神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺を神宮寺と呼び、その寺の社僧の長を別当と呼んだ。別当は神前読経など神社の祭祀を仏式で行っていた。

今では山伏の姿を見ることがめったにないのでこのような記述を読んでもピンと来なかったのだが、明治維新以前には全国で17万人もの山伏がいたという記述を読んで驚いてしまった。
愛知県清洲にある日吉神社の宮司・三輪隆裕氏はこのように述べておられる。
「私の神社は、江戸時代、境内にお薬師様を斎っておりました。また、山王宮と称していました。山王とは、山王権現、つまり山の霊魂が神として出現したという程の意味です。…日本では、仏教が、聖徳太子によって正式に国の宗教として認められて以来、本来の伝統宗教である神道、そして仏教以前に大陸から入った儒教とともに、さらに儒教以前に大陸から入ったと考えられる中国の民間宗教としての道教、占いや呪い、そして仙人思想をもっている道教を合わせ、それらが、一千年以上の長い間に渡ってさまざまに習合してきたのです。
江戸時代の民間の宗教的エートスはどんなものであったでしょうか?私はよくイメージが湧かないのですが、少なくとも神主が主役でなかったのは事実でしょう。仏教は、ご承知の通り、江戸幕府の手で戸籍管理を任され、檀家制度を整備しますので、大変強い力を持っていました。しかし、民衆の宗教的な情念は、私は、山岳信仰、修験に強かったのではないかと思っています。呪術、占い、修行による超能力の獲得、霊界との交流、こういったことを内容とする修験は、明治政府にとって近代化を妨げる迷信の源と見做されたのではないでしょうか。修験宗は明治になって政府の命令により廃止されますが、これは、逆に、修験が民間信仰のなかで如何に勢力を持っていたかの証ではないかと思います。この当時、修験の先達は17万人いたといいます。現在神職が1万2千人、お坊さんの数も、神職の数と大差無いはずですので修験者の多さが理解できます。」
http://hiyoshikami.jp/hiyoshiblog/?p=66
「修験の先達」というのは山伏のことだが、明治の初めには山伏が17万人いたというのはどう理解すれば良いのだろうか。
内閣統計局が昭和5年に公表した『明治5年以降我国の人口』によると、明治5年の人口数は3480万6千人だという。山伏は全員男性なので、単純に考えると、当時のわが国の男性のうち約100人に1人が山伏であったという計算になるのだが、これは半端な数字ではない。
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14167501.pdf
その山伏が、慶応4年(1868)の神仏分離令に続き明治5年(1872)には修験禁止令が出されて、山伏の活動が禁止されだけではなく、信仰に関する建物や文化財の多くが破壊されてしまった。

前回まで5回に分けて書いた奈良旅行のレポートで、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺や、琵琶山白飯寺(現天川弁財天神社)が明治初期の廃仏毀釈で徹底的に破壊されたことを書いたが、いずれの寺も修験道の聖地であった。このような明治維新期の宗教政策が、山伏達に多大な影響を与えたことは間違いないのである。

では江戸時代の山伏達はどのような仕事で生計を成り立たせていたのであろうか。
和歌森太郎氏の『山伏』(中公新書)にはこう書かれている。
「…江戸時代の山伏にもピンからキリまであったのであって、なお中世的な果敢な山岳修行にいそしもうとする、修行本位に生きる山伏もいたとともに、祭文語りからごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプがあったのである。全体的にいえば、町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、代願人になる、そうしたタイプのものが、江戸時代には最も支配的だったのである。
…江戸時代の山伏は、…中世的な修行者という意味での行者ではなくて、祈禱者としての行者であった。だから平安朝以来、漸次民間にも浸透してきた陰陽師が、そうとうに祈禱者的な面をもっていたので、彼らの伝える陰陽道を、山伏も自然に受け持つほどになっていた。」(『山伏』(中公新書)p.21-22)

ところが、近代化への道を急ぐ明治政府にとっては、このような山伏は不要であったようだ。
「山伏の道、修験道は今後いっさい廃止するとして、明治5年9月15日の太政官布達をもって全国にふれられたのであった。そうして、およそ18万人もいた山伏たちは帰俗を促され、あるいは天台、真言の僧侶になるか、あるいははっきりと神職に転ずるものもあったのである。」(同上書p.23)
和歌森氏の著書では、山伏の数は18万人とあるが、正式な統計がないのでどちらが正しいかはよく分からない。いずれにせよ、現在よりも山伏の数が桁違いに多かったことは同じである。
では具体的に政府からどのような布達が出されたのであろうか。次のURLに神仏分離に関するすべての布達等の原文が掲載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
重要なものだけ内容を簡単に意訳しておく
◎慶応4年(1868)3月17日 神祇事務局達
神社において僧形で神勤している別当・社僧は復飾せよ。つまり僧侶の身分を棄てて還俗することを命じて、その際に差支えがある場合は復飾のうえで神職となり、浄衣を着て神勤することを定めている。
◎慶応4年(1868)3月28日 神祇官事務局達
○○権現・牛頭天王などといった神仏混淆的な神号を一掃し、神号の変更を行なうこと。また、仏像を神体としている神社は、仏像を取り除いて神体を取り替えること。また神社から仏具である鰐口や梵鐘などをすべて取り除くこと。
◎明治5年(1872)9月15日 太政官第273号 いわゆる「修験道廃止令」
修験道を廃止し、本山派修験・羽黒修験は天台宗に、当山派修験は真言宗に所属するものとした。
「修験道廃止令」以降、公には山伏は存在しなくなり、真言宗、天台宗のいずれかに属するか、神官となるか、帰農するしかなくなったのだが、さらに追い打ちをかけるように明治政府は、山伏の収入源であった行為を禁止する命令を相次いで出している。
◎明治6年(1873)1月15日に出された教部省達第2号
狐憑きを落すような祈禱をしたり、玉占いや口寄せを業としている者が庶民を幻惑しているので、そのような行為を一切禁止する。
◎明治7年6月7日 教部省達第22号別紙教部省乙第33号
禁厭、祈祷等を行ない、医療を妨げ、湯薬を止めることの禁止。
◎明治13年7月17日 太政官布告第三十六号 … 旧刑法第427条第12号
妄りに吉凶禍福を説き、又は祈祷、符呪等を為し、人を惑わして利を図る者を拘留または科料に処す
◎明治15年7月10日 内務省達乙第42号別紙戊第3号
禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること
具体的にどこまでが取締りの対象でなっていたかは定かではないが、明治以降山伏の収入が激減したことは言うまでもないだろう。
なぜここまで明治政府は山伏を徹底的に叩いたのかと誰でも思うところであるが、その理由を論じる前に、江戸時代に「山伏」の評判がどのようであったかを知る必要がある。
天保14年(1843)に江戸幕府が禁奢令を出し、当山派修験道の本山である醍醐寺三宝院から末徒に出された御触書にこのようなことが書かれていたという。
「『諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡』とはじまり、文中に『不如法之僧徒多有』『貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候』『略服美服ヲ着シ』などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。」
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index227.htm

もちろん真面目に修行し励む山伏が多数いたとは思うのだが、一部のメンバーが評判を落とすような行動をとると、すべてのメンバーに悪評が及ぶことはいつの時代にも良くあることである。しかし、多くの場合はそのような悪評は意図的に広められて、特定勢力を徹底的に叩くために利用される。
明治政府は、中央集権的国家の確立を目的として、天皇を中心とした祭政一致国家の建設をはかろうとした。そこで形成されたのが「国家神道」で、その基盤となる尊王思想を普及させ、神社神道を国家の宗祀とするための政策が進められたのだが、そのためには神仏習合の山伏や修験道は不要な存在であって、山伏の悪評を最大限に利用して仏教施設や仏具ともども強引に修験道を消滅させようと考えていたのではなかったか。
以前このブログで、戦国時代から江戸時代にかけて、キリスト教の宣教師やキリシタン大名が寺社や仏像等を破壊し焼却した記録が残されていることを何度か書いてきたが、明治初期にも同様なことが起り、全国規模で激しい「廃仏毀釈」が行なわれたのである。
明治期に広められた「国家神道」は現天皇を現人神として崇拝し、天皇による祭・政・軍が一体化した国家体制であり、国家自体が「一神教」の教団と化したようなところがある。
一神教の熱心な信徒は過去において、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名のもとにテロ行為や他国の侵略や異教文化の破壊をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。このような原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や文化破壊を行ないながら、自分の行為を正しいと信じて疑わない信徒が少なからず存在する点にある。
しかしながら、本来の日本の神道は、自然現象を敬い八百万の神を見出す多神教であり、明治期の国家神道とは根本的に異なる。そして江戸時代のわが国においては、山伏は地域の人々の生活に欠かせない存在であったことは確実だ。

和歌森太郎氏は前掲書でこう書いておられる。
「村の人にとって、その生業が豊かであることは絶対の願望であったから、稲作を中心にこれを妨げるような虫送りをするとか、水を迎えるための雨乞いをするとか、また天気祭りをするとか、いろいろな行事が臨時にも行なわれたが、その中心を占めるのはほとんど山伏であった。ことに雨乞いは古い信仰のなかに、山に入って大きな音を立てるとか、火を焚くとかいうことによって天に響かせ、その結果、雨を呼び起こすという観念があったから、最も山伏のかかわりやすいものであった。」(前掲書 p.172)
厳しい自然をともに克服しながら、地域の人々とともにみんなが豊かで幸せに暮らせることを祈る山伏が、地域の人々同志の連帯感を強めて、地域を住みやすくすることに役立っていたといえば言い過ぎであろうか。
公式には明治5年9月に山伏はいなくなったのだが、その後も峯入り修行の指導者としての山伏が存続した。
また、ネットで調べると、最近では一般人で山伏姿になって山伏体験をする人も増えているという。体験者のブログを読んでいると、自然の霊威を感じて心底から感動したという記録が多く、森羅万象に神が宿るという日本古来の自然観を私も体で感じたい気持ちが湧くのだが、残念ながら、この脚力で難所をいくつも登りきることは難しそうだ。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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