白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて
白馬落倉高原の朝を迎えて、いい天気なので朝食までの時間に高原の散歩に出かけることにした。ペンションで貰った地図を片手に歩き始めたのだが、野鳥のさえずりや川のせせらぎの音を聴き、景色を楽しみながら歩く高原の散歩は心地の良いものである。

しばらく東に進んでいくと、白馬岳の大雪渓が見えてきた。訪れた日はまだ梅雨明け宣言が出ていなかったのだが、こんなにきれいに晴れ渡った空を背景にして、白馬連峰の写真が撮れたことは幸運だった。
白樺通りを一回りして433号線に戻ると、「風切地蔵」があり、何気なく立ち寄ってみると、案内板に興味深いことが記されていた。

「農作物を風や病気や虫から守るということは、農民が何千年来かにわたって持ちつづけてきた悲願であった。風害や病虫害を恐れるのは、今日にあっても同じことであるが現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている。
かつては、風祭・虫送り・鳥追いなどは、いずれも農耕儀礼の一種で、近年までは庶民信仰という形の中で、年中行事ともなっていた。風切地蔵(風除地蔵)は道祖神や庚申様が、何でも聞き届けてくれる神様となっているように風害防除というだけでなく風邪や疫病をもたらす悪霊も、追い払ってくれという祈願にもこたえてくださったもののようである。
白馬村内には、何体かの風切地蔵が存在しているが、西方白馬連山の北橋にある大日岳と東方の野平武士落から鬼無里村に通ずる柄山峠にあるものはここ(落倉)のものを中にして一直線上に置かれている。白馬村には、鎌を立てて風を断ち切るという風習も残っているが昔人の風から農作物を守り、災厄から身を守る切なる願いを知って心が痛む。」
白馬村に3つの風切地蔵があり、それらが1直線状に並んでいるというのだが、自宅に帰ってパソコンで調べると、このことについて詳しく調べている人が何人も見つかった。

例えば内田一成氏のブログによると、この直線は冬至の日の出を指し示す直線上にあり、「地元の古老によれば、それが『結界』を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられている」のだという。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/07/1---super-mappl.html

そして、さらに面白いのは、前回の記事で紹介した戸隠神社奥社につながる杉並木の長い参道は、風切地蔵の並ぶ直線と平行なのだそうだ。一体誰が、何のために、またどうやって、冬至の太陽の登る方向に参道を作り、風切地蔵をその参道と平行な直線上に設置したのか、非常に興味深いところである。
おそらく古来からの太陽信仰と無縁ではないだろうし、もしかすると修験道のルーツにもつながるものがあるのかもしれない。

いくら科学が進歩しても、人間の力では解決できないことが、今も数えきれないくらいに存在する。地域の人々が力を合わせれば最悪の事態を防ぐ道があるのにもかかわらず、みんなの価値観がバラバラで、それぞれが好き勝手に行動するのではそれは不可能だ。
昔の日本人は、地域の人々が自然災害に遭わないよう、みんなが幸せに暮らせるようにと、メンバーが心を一つにして祈る世界が存在した。その祈りがあったからこそ、地域の人々とのつながりを強めて、もし災害が起きてもみんなで助け合う価値観を共有できたのではなかったか。
風切地蔵の案内板に、「現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている」と書いてあったが、何でもお金で解決しようとする都会の多くの日本人は、何か大切なものを失ってしまってはいないだろうか。
そんな事を考えながら宿に戻ると、オーナーがパンを焼く香ばしい匂いがした。

これがコットンスノーの朝食のメニューだが、パンはもちろんおかわり自由で、ジャムもオーナーが昨晩造ったものだという。昨夜ここに宿泊したのは私達1組だけだったのだが、そのためにジャムまで作って用意していただいたのが嬉しくて、無理を言って両方のジャムを安く分けていただいたのだが、チェックアウトするときに、「主人からのプレゼントです。お昼にどうぞ」と手造りのハンバーガーまで用意して下さった。
至れり尽くせりのサービスに感激してしまった。
お世話になったコットンスノーのママにお別れをして、信州旅行3日目の最初の目的地である神明社(白馬村神城)に向かう。
神明社の創建時期は不明だが、弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(長野県宝)が現存しており、国重文の本殿は棟札から天正16年(1588)に建築されたものであることが判明している。
古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心になっているという。
予めよく調べておけばよかったのだが、昨年の11月に長野県の北部でかなり大きな地震があり、その時境内に亀裂が入って、国の重要文化財である神明社の本殿、諏訪社本殿を守る覆屋の柱が変形して大きく傾き、文化財に少しの被害が出たために修理工事が行われており、境内は立入禁止となっていた。
次のURLに地震直後の神明社の画像がある。
http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/2event/2014/jishin2.pdf

せっかく来たのだからとお願いして、覆屋をカメラに収めてきたが、国重文の神明社本殿と諏訪者本殿はこの中にあって観賞することはできなかった。

神明社の参道を降りていくと、白馬連邦の山並みが綺麗だったので思わずシャッターを押したのだが、残念ながら山の名前が良く分からない。
.

自宅に戻ってGoogle Earthで確認すると、偶然かもしれないが、この神明社の参道の方向も、戸隠奥社の参道や風切地蔵の指し示す方向と同じのようだ。
次の目的地は大町市にある若一(にゃくいち)王子神社(0261-22-1626)である。
Wikipediaによると、
「鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が紀伊国熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降『若一の宮』(若一王寺、王子権現)と称されるようになった。その際、盛遠は後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士として仕えた。仁科氏が主家の武田氏とともに滅亡すると、織田信長以後の天下人は安曇郡を歴代松本城主の所領とし、松本藩の庇護を受けるようになった。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称した。…」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B8%80%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
この神社も明治の神仏分離以前は「若一王寺」という名の寺であったのだが、注目すべきは、廃仏毀釈によって「神社」とされながらも寺の施設である三重塔と観音堂を残して、神仏習合の姿を今に伝えている点である。

上の画像が若一王子神社の全景だが、江戸時代まではこのような景色が全国各地にあったはずである。
できれば車はあまり写したくなかったのだが、この日はたまたまこの神社の例祭の1週間前で、近隣の方が大勢集まって境内の草刈りの奉仕をしておられたために、三重塔の周囲は車が何台も停まっていたので、車が写ることは仕方がなかった。

この神社の本殿は戦国末期の弘治2年(1556年)に仁科盛康により造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。拝殿は昭和50年(1975)に伊勢神宮の旧社殿の一部を譲り受けたものだという。

本殿の東に長野県宝に指定されている観音堂がある。その内陣の中央の厨子に十一面観音坐像御正体(みしょうたい:長野県宝)があるのだが、その右隣には廃仏毀釈以前に本尊であった平安時代の仏像を納めた小さな厨子がある。ネットで探すと、その無残な姿に変貌してしまった仏像の画像を容易に見つけることが出来るが、この画像を見てさすがに私もショックを受けた。

もともとはこの仏像が観音堂の御本尊として中央の厨子に安置されていたのである。詳しく知りたい方は、次のURLに詳しくレポートされているので参考にしていただきたい。
http://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16
実のところ信濃国で最も激しく廃仏毀釈が行われたのは松本藩だった。にもかかわらず、なぜ若一王子神社は観音堂と三重塔を守り通せたのかと誰でも思う。
長野県の解説によると、
「『信濃日光』として知られていた若沢寺(波田町)をはじめ無住・廃寺となった寺が全寺院の74%にも達した(『長野県史』通史編7)。そうした中で、若一王子神社では、三重塔は『物見の高楼』、観音堂は『神楽殿』とされ(『明治28年北安曇神社明細帳』)、仏具を移転撤去し、建物の名前を変更することで破却を免れたようである。また、寺と神社に明確に区画すれば破却されないというので境界石を置いて免れたともいわれる(『大町町史』第4巻)」
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h23/teireikai/documents/930-2.pdf
簡単に書かれてはいるが、実際には松本藩とは相当激しいやり取りがあったはずである。

このブログで何度か紹介させていただいた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』の本記(13)に松本藩の廃仏状況がかなり詳しく記されており、それによると、明治3年8月に松本藩は廃仏の藩令を発し、寺院は悉くこれを破却し、仏像仏具はみな焼き捨て、僧侶は、すべて帰農せしめんとしたという。
松本藩の藩吏が大町市に出張し、54ヶ寺と檀徒総代と名主らを集めて、廃寺と帰農を伝達したのは明治4年(1871)3月のことだという。この時に彼らは衆人の面前で何度も僧侶を辱しめ、だから帰農せよと迫ったのだが、その席で敢然と命令に抵抗した僧侶が二名いたのである。
羽根田氏の著書から、霊松寺の達淳和尚の発言を引用する。
「…大町の巨刹、曹洞宗、霊松寺住持達淳和尚出て曰く、全体貴官方は何所よりの命を帯びて、廃寺、帰農を促さるるや、太政官よりか、また何時、何所よりかかる命令が出たか、特に寺院には、各自、其宗本山との、密接不離なる関係あり、このこと果たして、各宗本山との、協議を遂げられたのかと詰問し、拙僧が、帰農すると否とは貴官に返答する義務なし、むしろ貴官が、命令の出所を、明了にせられたしとて、あくまで役人を詰責し、かえって和尚が、翻弄したという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/106
この席で廃寺に抵抗する発言をした大澤寺、霊松寺は、ともに廃寺を免れたそうだが、もしこの2ヶ寺が反対の発言をしていなければ、おそらく寺は破却されていたことだろう。
若一王寺はこの席では発言しなかったようだが、おそらく檀徒らが抵抗して知恵を絞ったからこそ、観音堂も三重塔も残すことが出来たのだと思う。

松本藩の廃仏毀釈を積極的に推進した藩知事の戸田光則*は、明治4年7月の廃藩置県で藩知事が廃官となって東京に移り、それ以降、廃仏・廃寺の藩令はうやむやになったようだ。
もしも、もっと早く廃藩置県が行なわれていれば、長野県に限らず、全国でもっと多くの文化財が残されていただろうが、廃仏毀釈で多くの文化財が灰燼に帰してしまった原因は寺院側にもあったと思われる。霊松寺の達淳和尚のような気骨のある僧侶がもっと多くいれば、この時期にわが国の大量の文化財を失うことはなかっただろう。
*戸田光則:信濃松本藩の最後の藩主(第9代)。戸田松平家14代。上画像
羽根田文明氏は、こう纏めておられる。
「各藩とも、廃仏に、廃寺願書の提出を迫っているのは、これが朝旨*でないからのことである。故に少し強硬に出て、廃寺の朝命を拝するまで、現状を維持せんと、頑張ったら、廃寺の厄は免れたのである。然るに当時、僧侶の意志、薄弱、護法、扶宗の念、皆無であったから、藩吏の奸策に乗り、廃寺の難に罷ったのは、遺憾の極みであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/107
*朝旨:朝廷の意向
このように、激しい廃仏毀釈のあった藩では、多くの場合、寺から「廃寺願書」を提出させてから、仏教施設や仏具類を破壊したようなのである。こんなものを提出してしまっては、寺院側が廃仏毀釈をお願いしますと言ったのと同じではないか。
羽根田氏の指摘の通り、自分の寺と檀徒を守るために身命を賭す僧侶が少なかったことは残念なことである。
若一王子神社をあとにして、国宝・仁科神明宮(0261-62-9168)方面に向かう。

途中で、国の重要文化財に指定されている盛蓮寺(じょうれんじ)観音堂に立ち寄った。
この寺は領主であった仁科氏の祈願寺であったそうだが、この観音堂は室町時代の文明2年(1470)の建築だという。案内板には何も書かれていなかったが、この寺も廃仏毀釈の難を逃れるのに苦労があったと思われる。
ここから1kmほど南に走ると仁科神明宮がある。
参道の脇に空地があり「仁科二十四番 神宮寺」と書かれた道標が建てられていた。この寺は明治の廃仏毀釈で破却され、不動明王と薬師如来は先程紹介した盛蓮寺に移され、本堂は北安曇郡池田町の浄念寺という寺に移築されたという。

この鳥居が仁科神明宮の二の鳥居で、奥に三の鳥居があり神門がある。そしてその奥に、わが国で現存する最古の神明造である国宝の社殿がある。

一番奥が本殿で、本殿は手前の中門と釣屋とよばれる屋根で繋がっている。ここまでが国宝指定となっている。
宝物館があるので中に案内していただくことにした。

仁科神明宮は20年に一度式年遷宮が行なわれているのだが、南北朝時代の永和2年(1376)の棟札をはじめ620年間の33枚が目の前に残されているのに驚いた。このうち江戸時代幕末の安政3年(1856)までの27枚が国の重要文化財に指定されている。

次の画像は懸仏(かけぼとけ)であるが、神仏習合の考えによりご神体である鏡に本地仏の像を毛彫りにして奉納されたもので御正体(みしょうたい)とも言われる。仁科神明宮には懸仏が16面あるのだが、そのうち5面が国の重要文化財に指定されている。
懸仏のほとんどが天照大神の本地仏である大日如来で、古いものは鎌倉時代中頃のものがあるという。神仏習合の時代を髣髴とさせる貴重な懸仏が、神社の宝物館でこんなに多く見学できるとは思わなかった。
最近はネットで簡単にいろんなことが調べられるようになってありがたい限りなのだが、『長野県立歴史館/信濃史料』をデジタルアーカイブで調べていると、弘安9年(1286)の記録にこんな記述があるのが見つかった。
「弘安九年一二月二二日(1286) 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏」
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht042680
なんと弘安9年(1286)に懸仏を仁科神明宮に寄進した尼妙法という人物が、この日の朝一番に訪れてきた白馬村神城の神明社にも、同じ年に懸仏(長野県宝)を寄進したことが書かれている。
神明社では見ることは叶わなかったが、おそらくこの懸仏と同様のものが奉納されたのであろう。それにしても、長野県がこの様な古文書までデータベースにして公開していることも驚きだ。
今回の旅行で、神社にある三重塔や観音堂や懸仏をいくつか見てきたが、長野に来て、修験道や神仏習合の多神教的祈りの世界が残されていることに親近感を覚えた。
明治政府の宗教政策で、仏教は衰退を余儀なくされ多くの文化財を失わせた一方、伝統的な神道をも否定して、多神教的な神道から天皇という現人神を崇拝する宗教に変質させてしまったとは言えないか。天皇という存在は、本来は多神教的な神々を祀る存在であったのだが、明治政府によって一神教的で絶対的な存在として祀り上げられてしまったと言えば言い過ぎであろうか。
戦国時代にキリスト教宣教師が先導して寺院や仏像を破壊したことと同じことが明治初期に激しく起こったわけだが、特定の神的存在を絶対視する宗教は、純粋化すればするほど異教に対して排撃的となり過激となる。
しかし太平洋戦争でわが国が敗戦したのち、天皇は現人神であることを自ら否定したため、戦後になって多くの日本人は、自分の家族や先祖に対して祈ることはあっても、地域や国のために祈る習慣を失ってしまった。
ある時は太陽に祈り、ある時は山に祈り、またある時には川に祈って、地域の人々が幸せに暮らせることを願う。日本人はそのようにして平和に暮らして来た民族ではなかったか。
その祈りの世界を少しでも日本人が取り戻し、自分や先祖が生まれ育った地域を愛することの大切さを忘れないようにしたいものである。それができなければ、いずれ、わが国の各地で何百年も受け継がれてきた地域の伝統文化や価値ある文化財や歴史的景観の多くを、失ってしまうことになるのではないだろうか。
そんな事を考えながら3日間の信州の旅を終えて、帰途につくことにした。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html
島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html
江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html
神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html
日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

しばらく東に進んでいくと、白馬岳の大雪渓が見えてきた。訪れた日はまだ梅雨明け宣言が出ていなかったのだが、こんなにきれいに晴れ渡った空を背景にして、白馬連峰の写真が撮れたことは幸運だった。
白樺通りを一回りして433号線に戻ると、「風切地蔵」があり、何気なく立ち寄ってみると、案内板に興味深いことが記されていた。

「農作物を風や病気や虫から守るということは、農民が何千年来かにわたって持ちつづけてきた悲願であった。風害や病虫害を恐れるのは、今日にあっても同じことであるが現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている。
かつては、風祭・虫送り・鳥追いなどは、いずれも農耕儀礼の一種で、近年までは庶民信仰という形の中で、年中行事ともなっていた。風切地蔵(風除地蔵)は道祖神や庚申様が、何でも聞き届けてくれる神様となっているように風害防除というだけでなく風邪や疫病をもたらす悪霊も、追い払ってくれという祈願にもこたえてくださったもののようである。
白馬村内には、何体かの風切地蔵が存在しているが、西方白馬連山の北橋にある大日岳と東方の野平武士落から鬼無里村に通ずる柄山峠にあるものはここ(落倉)のものを中にして一直線上に置かれている。白馬村には、鎌を立てて風を断ち切るという風習も残っているが昔人の風から農作物を守り、災厄から身を守る切なる願いを知って心が痛む。」
白馬村に3つの風切地蔵があり、それらが1直線状に並んでいるというのだが、自宅に帰ってパソコンで調べると、このことについて詳しく調べている人が何人も見つかった。

例えば内田一成氏のブログによると、この直線は冬至の日の出を指し示す直線上にあり、「地元の古老によれば、それが『結界』を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられている」のだという。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/07/1---super-mappl.html

そして、さらに面白いのは、前回の記事で紹介した戸隠神社奥社につながる杉並木の長い参道は、風切地蔵の並ぶ直線と平行なのだそうだ。一体誰が、何のために、またどうやって、冬至の太陽の登る方向に参道を作り、風切地蔵をその参道と平行な直線上に設置したのか、非常に興味深いところである。
おそらく古来からの太陽信仰と無縁ではないだろうし、もしかすると修験道のルーツにもつながるものがあるのかもしれない。

いくら科学が進歩しても、人間の力では解決できないことが、今も数えきれないくらいに存在する。地域の人々が力を合わせれば最悪の事態を防ぐ道があるのにもかかわらず、みんなの価値観がバラバラで、それぞれが好き勝手に行動するのではそれは不可能だ。
昔の日本人は、地域の人々が自然災害に遭わないよう、みんなが幸せに暮らせるようにと、メンバーが心を一つにして祈る世界が存在した。その祈りがあったからこそ、地域の人々とのつながりを強めて、もし災害が起きてもみんなで助け合う価値観を共有できたのではなかったか。
風切地蔵の案内板に、「現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている」と書いてあったが、何でもお金で解決しようとする都会の多くの日本人は、何か大切なものを失ってしまってはいないだろうか。
そんな事を考えながら宿に戻ると、オーナーがパンを焼く香ばしい匂いがした。

これがコットンスノーの朝食のメニューだが、パンはもちろんおかわり自由で、ジャムもオーナーが昨晩造ったものだという。昨夜ここに宿泊したのは私達1組だけだったのだが、そのためにジャムまで作って用意していただいたのが嬉しくて、無理を言って両方のジャムを安く分けていただいたのだが、チェックアウトするときに、「主人からのプレゼントです。お昼にどうぞ」と手造りのハンバーガーまで用意して下さった。
至れり尽くせりのサービスに感激してしまった。
お世話になったコットンスノーのママにお別れをして、信州旅行3日目の最初の目的地である神明社(白馬村神城)に向かう。
神明社の創建時期は不明だが、弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(長野県宝)が現存しており、国重文の本殿は棟札から天正16年(1588)に建築されたものであることが判明している。
古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心になっているという。
予めよく調べておけばよかったのだが、昨年の11月に長野県の北部でかなり大きな地震があり、その時境内に亀裂が入って、国の重要文化財である神明社の本殿、諏訪社本殿を守る覆屋の柱が変形して大きく傾き、文化財に少しの被害が出たために修理工事が行われており、境内は立入禁止となっていた。
次のURLに地震直後の神明社の画像がある。
http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/2event/2014/jishin2.pdf

せっかく来たのだからとお願いして、覆屋をカメラに収めてきたが、国重文の神明社本殿と諏訪者本殿はこの中にあって観賞することはできなかった。

神明社の参道を降りていくと、白馬連邦の山並みが綺麗だったので思わずシャッターを押したのだが、残念ながら山の名前が良く分からない。
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自宅に戻ってGoogle Earthで確認すると、偶然かもしれないが、この神明社の参道の方向も、戸隠奥社の参道や風切地蔵の指し示す方向と同じのようだ。
次の目的地は大町市にある若一(にゃくいち)王子神社(0261-22-1626)である。
Wikipediaによると、
「鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が紀伊国熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降『若一の宮』(若一王寺、王子権現)と称されるようになった。その際、盛遠は後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士として仕えた。仁科氏が主家の武田氏とともに滅亡すると、織田信長以後の天下人は安曇郡を歴代松本城主の所領とし、松本藩の庇護を受けるようになった。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称した。…」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B8%80%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE
この神社も明治の神仏分離以前は「若一王寺」という名の寺であったのだが、注目すべきは、廃仏毀釈によって「神社」とされながらも寺の施設である三重塔と観音堂を残して、神仏習合の姿を今に伝えている点である。

上の画像が若一王子神社の全景だが、江戸時代まではこのような景色が全国各地にあったはずである。
できれば車はあまり写したくなかったのだが、この日はたまたまこの神社の例祭の1週間前で、近隣の方が大勢集まって境内の草刈りの奉仕をしておられたために、三重塔の周囲は車が何台も停まっていたので、車が写ることは仕方がなかった。

この神社の本殿は戦国末期の弘治2年(1556年)に仁科盛康により造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。拝殿は昭和50年(1975)に伊勢神宮の旧社殿の一部を譲り受けたものだという。

本殿の東に長野県宝に指定されている観音堂がある。その内陣の中央の厨子に十一面観音坐像御正体(みしょうたい:長野県宝)があるのだが、その右隣には廃仏毀釈以前に本尊であった平安時代の仏像を納めた小さな厨子がある。ネットで探すと、その無残な姿に変貌してしまった仏像の画像を容易に見つけることが出来るが、この画像を見てさすがに私もショックを受けた。

もともとはこの仏像が観音堂の御本尊として中央の厨子に安置されていたのである。詳しく知りたい方は、次のURLに詳しくレポートされているので参考にしていただきたい。
http://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16
実のところ信濃国で最も激しく廃仏毀釈が行われたのは松本藩だった。にもかかわらず、なぜ若一王子神社は観音堂と三重塔を守り通せたのかと誰でも思う。
長野県の解説によると、
「『信濃日光』として知られていた若沢寺(波田町)をはじめ無住・廃寺となった寺が全寺院の74%にも達した(『長野県史』通史編7)。そうした中で、若一王子神社では、三重塔は『物見の高楼』、観音堂は『神楽殿』とされ(『明治28年北安曇神社明細帳』)、仏具を移転撤去し、建物の名前を変更することで破却を免れたようである。また、寺と神社に明確に区画すれば破却されないというので境界石を置いて免れたともいわれる(『大町町史』第4巻)」
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h23/teireikai/documents/930-2.pdf
簡単に書かれてはいるが、実際には松本藩とは相当激しいやり取りがあったはずである。

このブログで何度か紹介させていただいた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』の本記(13)に松本藩の廃仏状況がかなり詳しく記されており、それによると、明治3年8月に松本藩は廃仏の藩令を発し、寺院は悉くこれを破却し、仏像仏具はみな焼き捨て、僧侶は、すべて帰農せしめんとしたという。
松本藩の藩吏が大町市に出張し、54ヶ寺と檀徒総代と名主らを集めて、廃寺と帰農を伝達したのは明治4年(1871)3月のことだという。この時に彼らは衆人の面前で何度も僧侶を辱しめ、だから帰農せよと迫ったのだが、その席で敢然と命令に抵抗した僧侶が二名いたのである。
羽根田氏の著書から、霊松寺の達淳和尚の発言を引用する。
「…大町の巨刹、曹洞宗、霊松寺住持達淳和尚出て曰く、全体貴官方は何所よりの命を帯びて、廃寺、帰農を促さるるや、太政官よりか、また何時、何所よりかかる命令が出たか、特に寺院には、各自、其宗本山との、密接不離なる関係あり、このこと果たして、各宗本山との、協議を遂げられたのかと詰問し、拙僧が、帰農すると否とは貴官に返答する義務なし、むしろ貴官が、命令の出所を、明了にせられたしとて、あくまで役人を詰責し、かえって和尚が、翻弄したという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/106
この席で廃寺に抵抗する発言をした大澤寺、霊松寺は、ともに廃寺を免れたそうだが、もしこの2ヶ寺が反対の発言をしていなければ、おそらく寺は破却されていたことだろう。
若一王寺はこの席では発言しなかったようだが、おそらく檀徒らが抵抗して知恵を絞ったからこそ、観音堂も三重塔も残すことが出来たのだと思う。

松本藩の廃仏毀釈を積極的に推進した藩知事の戸田光則*は、明治4年7月の廃藩置県で藩知事が廃官となって東京に移り、それ以降、廃仏・廃寺の藩令はうやむやになったようだ。
もしも、もっと早く廃藩置県が行なわれていれば、長野県に限らず、全国でもっと多くの文化財が残されていただろうが、廃仏毀釈で多くの文化財が灰燼に帰してしまった原因は寺院側にもあったと思われる。霊松寺の達淳和尚のような気骨のある僧侶がもっと多くいれば、この時期にわが国の大量の文化財を失うことはなかっただろう。
*戸田光則:信濃松本藩の最後の藩主(第9代)。戸田松平家14代。上画像
羽根田文明氏は、こう纏めておられる。
「各藩とも、廃仏に、廃寺願書の提出を迫っているのは、これが朝旨*でないからのことである。故に少し強硬に出て、廃寺の朝命を拝するまで、現状を維持せんと、頑張ったら、廃寺の厄は免れたのである。然るに当時、僧侶の意志、薄弱、護法、扶宗の念、皆無であったから、藩吏の奸策に乗り、廃寺の難に罷ったのは、遺憾の極みであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/107
*朝旨:朝廷の意向
このように、激しい廃仏毀釈のあった藩では、多くの場合、寺から「廃寺願書」を提出させてから、仏教施設や仏具類を破壊したようなのである。こんなものを提出してしまっては、寺院側が廃仏毀釈をお願いしますと言ったのと同じではないか。
羽根田氏の指摘の通り、自分の寺と檀徒を守るために身命を賭す僧侶が少なかったことは残念なことである。
若一王子神社をあとにして、国宝・仁科神明宮(0261-62-9168)方面に向かう。

途中で、国の重要文化財に指定されている盛蓮寺(じょうれんじ)観音堂に立ち寄った。
この寺は領主であった仁科氏の祈願寺であったそうだが、この観音堂は室町時代の文明2年(1470)の建築だという。案内板には何も書かれていなかったが、この寺も廃仏毀釈の難を逃れるのに苦労があったと思われる。
ここから1kmほど南に走ると仁科神明宮がある。
参道の脇に空地があり「仁科二十四番 神宮寺」と書かれた道標が建てられていた。この寺は明治の廃仏毀釈で破却され、不動明王と薬師如来は先程紹介した盛蓮寺に移され、本堂は北安曇郡池田町の浄念寺という寺に移築されたという。

この鳥居が仁科神明宮の二の鳥居で、奥に三の鳥居があり神門がある。そしてその奥に、わが国で現存する最古の神明造である国宝の社殿がある。

一番奥が本殿で、本殿は手前の中門と釣屋とよばれる屋根で繋がっている。ここまでが国宝指定となっている。
宝物館があるので中に案内していただくことにした。

仁科神明宮は20年に一度式年遷宮が行なわれているのだが、南北朝時代の永和2年(1376)の棟札をはじめ620年間の33枚が目の前に残されているのに驚いた。このうち江戸時代幕末の安政3年(1856)までの27枚が国の重要文化財に指定されている。

次の画像は懸仏(かけぼとけ)であるが、神仏習合の考えによりご神体である鏡に本地仏の像を毛彫りにして奉納されたもので御正体(みしょうたい)とも言われる。仁科神明宮には懸仏が16面あるのだが、そのうち5面が国の重要文化財に指定されている。
懸仏のほとんどが天照大神の本地仏である大日如来で、古いものは鎌倉時代中頃のものがあるという。神仏習合の時代を髣髴とさせる貴重な懸仏が、神社の宝物館でこんなに多く見学できるとは思わなかった。
最近はネットで簡単にいろんなことが調べられるようになってありがたい限りなのだが、『長野県立歴史館/信濃史料』をデジタルアーカイブで調べていると、弘安9年(1286)の記録にこんな記述があるのが見つかった。
「弘安九年一二月二二日(1286) 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏」
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht042680
なんと弘安9年(1286)に懸仏を仁科神明宮に寄進した尼妙法という人物が、この日の朝一番に訪れてきた白馬村神城の神明社にも、同じ年に懸仏(長野県宝)を寄進したことが書かれている。
神明社では見ることは叶わなかったが、おそらくこの懸仏と同様のものが奉納されたのであろう。それにしても、長野県がこの様な古文書までデータベースにして公開していることも驚きだ。
今回の旅行で、神社にある三重塔や観音堂や懸仏をいくつか見てきたが、長野に来て、修験道や神仏習合の多神教的祈りの世界が残されていることに親近感を覚えた。
明治政府の宗教政策で、仏教は衰退を余儀なくされ多くの文化財を失わせた一方、伝統的な神道をも否定して、多神教的な神道から天皇という現人神を崇拝する宗教に変質させてしまったとは言えないか。天皇という存在は、本来は多神教的な神々を祀る存在であったのだが、明治政府によって一神教的で絶対的な存在として祀り上げられてしまったと言えば言い過ぎであろうか。
戦国時代にキリスト教宣教師が先導して寺院や仏像を破壊したことと同じことが明治初期に激しく起こったわけだが、特定の神的存在を絶対視する宗教は、純粋化すればするほど異教に対して排撃的となり過激となる。
しかし太平洋戦争でわが国が敗戦したのち、天皇は現人神であることを自ら否定したため、戦後になって多くの日本人は、自分の家族や先祖に対して祈ることはあっても、地域や国のために祈る習慣を失ってしまった。
ある時は太陽に祈り、ある時は山に祈り、またある時には川に祈って、地域の人々が幸せに暮らせることを願う。日本人はそのようにして平和に暮らして来た民族ではなかったか。
その祈りの世界を少しでも日本人が取り戻し、自分や先祖が生まれ育った地域を愛することの大切さを忘れないようにしたいものである。それができなければ、いずれ、わが国の各地で何百年も受け継がれてきた地域の伝統文化や価値ある文化財や歴史的景観の多くを、失ってしまうことになるのではないだろうか。
そんな事を考えながら3日間の信州の旅を終えて、帰途につくことにした。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html
島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html
江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html
神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html
日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html
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