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昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目

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Category長野県
旅館の朝風呂につかってから、昼神温泉の「朝市」に出かける。
観光地で「朝市」を行なっているところは少なくないが、昼神温泉の朝市の規模は思ったよりも大きかったし、朝の6時だというのになかなかの賑わいだった。昼神温泉の朝市は朝の4月~10月は6時から8時まで、11月~3月は6時半から8時までの短い時間なのだが、毎日欠かさず開催されているというのがすごい。

昼神温泉朝市

地元の農産物やその加工食品などをたくさん並べておられて、浴衣姿の観光客が袋をいくつもぶら下げて宿に戻っていく。私もブルーベリーやトマトやトウモロコシやジュースなどを買い込んだが、販売しておられる方の表情を見れば、温泉の宿泊施設と地元の生産者とが共存共栄の関係になっていることがよくわかる。

昔は有名な温泉地に行くと、土産物屋や饅頭屋や飲食店などがいくつも並んで賑わっていて、浴衣姿の観光客がいろんな店に入って買い物をしたりする風景が情緒を感じさせたのだが、最近はどこでも大きなホテルや旅館が建てられて、建物の中に大きな食事処や土産物コーナーや喫茶コーナーや大浴場などを作ってしまったために、観光客が外に出て買い物をしたりする必要がなくなってしまった。
宿泊施設の中にそういう施設を作ることは観光客の利便性を高めるためではあるのだが、そのために街を歩く観光客が激減し多くの土産物屋などの商売が成り立たなくなって、昔のような温泉地の情緒を失いつつある観光地は少なくない。
昔は宿泊施設と地元の土産物屋や飲食店とは共存共栄の関係にあったと思うのだが、今では多くの観光地で、せっかく多くの観光客が集まっても、潤うのは宿泊施設ばかりで、地元の店舗はあまり恩恵を受けなくなってしまっている。

昼神温泉の朝市は、温泉の近くに住む農家の方が、高齢化・過疎化が進み遊休荒廃地が拡大していく中で、地域の活性化と温泉観光客のために何かできないものかと、昭和56年1月から村営鶴巻荘の前に箱を並べ、毎日曜日の朝のみ持ち寄りの農産物等の販売を始めたことが予想以上に反響を呼んだことから始まったのだそうだ。

昼神温泉朝市2

しかしながら、ただ余剰農産物を販売するだけでは村おこしにはならないので、昭和59年に農産加工センターを建設し、「漬物」「味噌」「菓子」などの製造をはじめ、その後はメンバーのアイデアで「五色もち」「柿酢」「阿智のふるさと漬」などのヒット商品を生み出し、今では地元で働くことを希望してUターンする若者も出てきたという。

長野県阿智村智里東農事組合法人の方が書いた「朝市で築く生きがいの里活動」という文章を読むと、昼神温泉朝市がどうやって拡大し、活性化していったが良くわかる。
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f89/17.htm

新製品の開発などが軌道に乗るまでは苦労の連続であったとは思うが、この成功事例は、観光地に近い他の農村地帯の村おこしの参考になるのではないだろうか。前回の記事で伊那食品工業のことを書いたが、地方の生産者が成功するためには、消費者に直接販売することに力を注ぐことが重要なのだと思う。

この日の当初の旅程は、ロープウェイに乗って富士見高原で遊ぶ予定であったのだが、時折雨が降る天候のために取りやめ、最初に信濃比叡広拯院(しなのひえいこうじょういん)というお寺に向かうことにした。

信濃比叡広拯院伝教大師像

昼神温泉のある場所は長野県阿智村だが、この村に櫻井三也(さくらいみつなり)さんという宮大工がおられる。私と同世代の方だが、この方が棟梁になってこのお寺が建築されたことをネットで知って、今回の信州旅行で是非訪れてみたいと思っていた。

伝教大師(最澄:767-822)は比叡山を開いたわが国の天台宗の開祖だが、「叡山大師伝」という書物に、伝教大師が弘仁8年(817)に東国教化のために東山道の神坂峠(みさかとうげ)を超えて美濃から信濃に入られた際、あまりに急峻な峠道に難儀され、旅人の便宜を図るために、美濃側に「広済院(こうさいいん)」、信濃川に「広拯院(こうじょういん)」という布施屋(旅行者の一時救護・宿泊施設)を建てたという記録があるのだそうだ。

広拯院月見堂

美濃側の「広済院」の位置は特定されていないが、信濃側の「広拯院」は現在の「広拯院月見堂」が、その跡だと言われている。上の画像が「広拯院月見堂」だ。

信濃比叡根本中堂

伝教大師の足跡が明らかであるこの「広拯院月見堂」の近くに、浄財を集めて新たな天台宗の宗教施設が建てられることとなった。比叡山延暦寺から「信濃比叡」の称号を授かり、比叡山にあるものと同一の伝教大師像が建てられて、平成17年には櫻井三也さんらによってこの根本中堂が完成したのだ。

根本中堂彫刻1

根本中堂はなかなか立派な建物だった。
モデルとなる建物がない建物の図面を描き、必要な資材を集め、均整のとれた美しい出来栄えで完成させ、柱の彫刻もなかなか見事なものである。これから何百年もの間通用するだけのものを残そうとする宮大工の心意気を感じた。

根本中堂天井

この建物の建築にどれだけの資金が必要だったかは聞かなかったが、伝教大師の聖地でもあることから、全国の天台宗の寺院や信者の方から多くの浄財が集まったそうである。根本中堂の中には、浄財を奉納された方の芳名帳が掲示されている。

宮大工の櫻井さんの会社(三清建築)のHPで櫻井さんのプロフィールが読める。
http://miyadaiku.info/

櫻井さんは観光旅行で訪れた英国で、古い建築物や道具を大切にする習慣を目の当たりにして古民家を守る必要性を痛感され、古民家のある景色を守る古民家再生事業実行委員会委員長をも務めておられるという。

上記HPの中から、櫻井さんの言葉をいくつか引用させていただく。
「減りつつある古民家は地域の宝。田舎らしい風景をみせることこそが、これからの観光だ」
「このままでは、日本から田舎らしい風景がなくなる。今動き出さねば次世代に技術も引き継げず、古民家が残せなくなる」
「100年の歴史を感じさせる柱や梁(はり)を見て育った人が帰って来るのは、家族に会うためだけではなく、建物に郷愁と愛着を感じているから。それがなくなれば、ふるさとへの思いは薄れる。Uターンや交流人口を増加させるためにも、古民家は残さねば」

いくら古い文化財が残されていても、その周りの古い街並みが消滅してしまっていれば、観光地としての価値は半減してしまう。古民家に住むことは不便なことかもしれないが、古い街並みを残すことが、将来的に大きな価値を生み、人々の郷土愛の拠り所になるという櫻井さんの考え方を大切にしていきたいものである。

信濃比叡広拯院の駐車場の近くに、門前屋というお店がある。
広拯院の尼僧から、根本中堂が完成してまだ日も浅い頃にこの店の玄関に白い蛇が現われ、今もその白蛇を門前屋で見ることができると聞いたので、ここでコーヒー休憩を取ることにした。
店主に白蛇を見せてもらったが、ウサギのように胴体が白く目が赤い、実に綺麗な蛇だった。撮影は遠慮したが、美しい蛇の写真は門前屋のHPで見ることができる。
http://shinanohiei-monzenya.com/meibutsu.html

次に、武田信玄公の終焉史跡とされる「長岳寺(ちょうがくじ)」に向かう。
この寺は平安時代の弘仁年間に伝教大師によって創建されたとされているのだが、詳しいことはよくわからない。

長岳寺

武田信玄は元亀三年(1572)の10月に、将軍足利義昭の求めに応じて織田信長を討つために甲府を発っている。そして遠江の三方ヶ原(みかたがはら)において徳川家康軍を圧倒的な強さで打ち破り、三河の野田城に進んだという。

長岳寺のパンフレットによると、信玄公は野田城攻めの最中に病が重くなり、三河からの帰途、元亀4年(1573)4月12日に信州国駒場(長野県下伊那郡阿智)の山中で亡くなり、信玄公の身代わりを甲州に送り、遺体は裏山で火葬に付した旨のことが書かれているが、信玄の墓が昔からあったというわけではなく、寺の境内にある信玄の供養塔が建てられたのは昭和49年とかなり新しいものである。

長岳寺供養塔

その供養塔が建てられた経緯が記された案内板を読むと、近くに信玄公火葬塚と伝えられる場所があり、そこに灰と骨粉が確認できたので、それをこの供養塔に収めたと説明されていたが、どうも釈然としない。その火葬塚の場所も書かれておらず、その骨粉が信玄の物であると断定する根拠もよくわからない。
信玄が亡くなった場所が、信州国駒場の山中でということについては、『小山田信茂宛御宿堅物書状写』という古文書で確認ができるようなのだが、この長岳寺に信玄の遺体が運びこまれたことが明記されているわけでもなさそうだ。

そもそも信玄公終焉の地については愛知県北設楽郡田口(現在・設楽町)・長野県下伊那郡根羽村・平谷村・浪合村・駒場(現在・阿智村)と諸説がある。中でも有力とされるのが阿智村駒場説と根羽村横畑説なのだそうだ。
信玄の墓とされているものも、根羽村横旗の信玄塚のほか、山梨県甲府市の大泉寺と恵林寺、長野県佐久市の竜雲寺や諏訪湖などもあるという。
私には、長岳寺の伝承をそのまま素直に信じて良いものとはとても思えない。

また信玄の死因についても、結核説やら胃がん説やら鉄砲で狙撃されたという説やらいろいろある。一人の武将の死がこれほど謎に包まれていることは珍しいことだと思う。

武田信玄

武田家の逸話や事績などが書かれている『甲陽軍鑑』によると、武田信玄は遺言として、「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」と述べたそうなのだが、信玄の死後わずか10日後の4月25日付の越中の河上富信という人物から上杉家家臣の河田長親に宛てた書状には「信玄が病気だという噂だが、死んだとも言われていて怪しい」という趣旨のことが書かれているそうだ。織田信長も徳川家康も、信玄が死亡した報告を受けていたという。
信玄の終焉の地や死因などに諸説があるのは、それでも信玄の死を3年間秘匿しようとした武田家が、信玄が死亡したという伝聞を打ち消そうとして、敵を攪乱するためにわざといくつもの嘘の情報を流して工作したからなのかも知れない。

それにしても、なぜ信玄は遺骸を諏訪湖に沈めよと言ったのだろうか。
諏訪湖は武神の諏訪大明神の鎮まるところであり、武田信玄は諏訪大明神を篤く信仰していたという。諏訪大社ゆかりの側室・諏訪御料人との間で生まれた勝頼を後継者とした信玄は、死しても諏訪大明神の加護を得て、諏訪湖から勝頼の活躍を見届けたかったのだろうか。

11時を過ぎたので、早目の昼食に信州そばで有名な「おにひら本店」に行く。
人気の店舗だけあってこんな時間から客席はほぼ満席状態だった。ほとんど全員が3人前の「おにひらそば」を注文していたので、私も同じものを注文した。

おにひら本店そば

画像の通り今まで見たことのないような大ざるで、2人で食べるのにちょうど良かった。

天候が良くなかったために富士見高原に行けなかったのは残念だったが、3日目も結構楽しんで帰途に就くことができた。
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