国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ
http://grading.jpn.org/y2308a05.html#map

次に「国宝・重文の建造物数ランキング」を見てみると、第1位が京都府で292件、第2位が奈良県で261件、滋賀県は第3位で182件である。
http://grading.jpn.org/y2308a04.html

この2つのランキング件数の差が、仏像や仏画や経典、障壁画、刀剣など、美術品・工芸品・文書等の国宝・国重文の合計値と考えれば良いと思うのだが、これも滋賀県は631件とかなり多く、全国的にも第4位の水準にあることがわかる。
1位は東京都で2657件にもなるのだが、東京都は建造物のランキングでは9位72件と決して多くなく、国宝・重要文化財の大半は美術館や博物館に収まっていることを意味している。
以上の数字からわかることは、滋賀県は京都・奈良に次ぐ仏教文化財の宝庫であり、古い建物とともに仏像や仏画などが多数残されていることが推定できる。
以前このランキングを見つけた際に、滋賀県の文化財をもっと探訪しようと考えていたのだが、たまたま、大津市歴史博物館の開館25周年を記念して『比叡山―みほとけの山―』という企画展示を11月23日まで開催しているということを教えてもらった。
次のURLがその案内である。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1510.html
滋賀県には、せっかく美しい仏像を所蔵していても一般観光客には公開していない寺院が多いのだが、今回の企画展はそれらの非公開寺院の仏像などが多数展示されているようなので是非観賞したいと思い、大津市にある国宝や文化財指定の社寺とともに、先日訪問してきた。

大津市役所(077-523-1234)の駐車場に車を停めて、最初に訪れたのは、弘文天皇陵。
この場所は車では行けず、しかもわかりにくい場所にあるので上の地図を参考にして訪れていただきたい。市役所の駐車場から一旦表通りに出て北に進み、一筋めの道を左手に折れて、しばらく進むと天皇陵への細い参道の入口が見えるので、その道を南に進めばすぐに見えてくる。

天智天皇がなくなった翌年(672年)に、天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)と天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)との間に皇位をめぐる争いが起こり(壬申の乱)、大海人皇子が勝利し翌年飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となったのだが、天智天皇が正式に皇太子としたのは、『日本書紀』には大海人皇子であったとされ、漢詩集『懐風藻』や『万葉集』には、大友皇子であったと書かれている。
私は、大友皇子が正式の皇太子であったと考えるがこの問題についてはいずれ書くことにして、この大友皇子が皇位についたかどうかは古くから議論があって非即位説が有力なのだそうだが、面白いことに明治3年(1870)に明治天皇が大友皇子に弘文天皇の諡号(しごう)を贈られて、陵墓については滋賀県令・籠手田安定(こてだやすさだ)がこの地を申請して、明治政府もこれを認めて、弘文天皇陵と定められたという。
しかし、この陵は年代があわず、大友皇子の墓である可能性は低いのだそうだ。

弘文天皇陵から少し南に行って右折し突き当りを右に折れると、園城寺(三井寺)の鎮守社の1つであり、国宝に指定されている新羅善神堂(しんらぜんしんどう)がある。
この建物は足利尊氏が貞和3年(1347)に再建した、三間社流造の神社本殿の建築で、明治の神仏分離以前は新羅社・新羅明神社と呼ばれていたそうだ。
建物も内部も公開されておらず塀の外から観るだけなのだが、中には平安時代に制作された木造新羅明神坐像(国宝)があるという。
新羅明神と源氏との関係は深く、源頼義は前九年の役(1051-62)の出陣に当たり、新羅明神に戦勝を祈り、頼義の3男義光はここで元服し、新羅三郎義光と名乗ったと大津市の案内板に書かれていた。

元の道に戻って、再び西に進むと法明院という寺がある。この寺は三井寺の北院として江戸時代の初めに創建された寺だそうだが、一時廃絶され、その後享保9年(1724)に再興されたという。
この寺にはこれといった文化財があるわけではないのだが、明治11年(1878)に来日したアーネスト・フェノロサが、東京大学で哲学や政治学を講じるかたわら、日本美術に深い関心を寄せて、弟子の岡倉天心とともにその素晴らしさを世界に伝えたのだが、その墓がこの寺の墓地にあるのだ。

墓の前にあった大津市の立札にはこう解説されていた。
「明治18年(1885)に、景勝をこよなく愛した法明院で得度受戒し、法名を諦伸という。…明治41年(1908)の死後、その遺言によってこの地に葬られた。…また隣には博士の親友・ハーバード大学のビゲロー博士の墓もある。」
廃仏毀釈で日本の仏教美術が見捨てられていた時代に来日し、日本美術に心酔してその価値を世界に広め、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定(1897)に道を開いた人物であり、もしフェロノサが明治時代に来日していなければ、もっと多くの寺院が廃寺となって、多くの文化財が失われたことは確実である。
フェロノサはロンドンで客死後、遺言によりこの地に葬られ、墓碑には「玄智明徹諦信居士」と彫られていた。死後107年も経つのだが、墓前には新しい花が供えられていた。
大津市役所の駐車場に戻り、車で大津市歴史博物館(077-521-2100)に向かう。

開館25周年記念企画展『比叡山―みほとけの山―』の会場は2階にあり、70躯を越える仏像の展示には圧倒された。
比叡山は京都盆地の東側に連なる山の中では最も高く目立つ山で、古くから信仰の山として崇められ、延暦7年(788)に最澄が延暦寺を建立して以来、膨大な数の堂宇や山坊が周囲に建てられ、そこに仏像や仏画が造られて安置されていったのである。
今般この大津市歴史博物館に、御膝元の大津市坂本の寺院だけでなく、仰木、堅田、さらには比良山や京都側の寺院からも、比叡山にゆかりのある仏像や仏画などが多数集められていて、しかも、その多くが初めて出展されたものであることが私には嬉しい。
この企画展示の仏像で国の重要文化財は10躯、滋賀県の指定文化財が2躯、大津市の指定文化財が5躯あるのだが、昔は文化財指定のある仏像の方が指定のない仏像よりも価値が高いと単純に考えていた。
しかしながら、たとえ価値のある仏像であっても、所有する寺院が文化財指定を求めないことが良くあるのだという。
というのは、もし文化財の指定を受けてしまうと、「文化財保護法」に基づき文化庁から管理方法や修理の方法まで、その命令や勧告に従うなどの制約を受けることになってしまう。そうなることを避けるために、あえて文化財指定を求めない寺院が少なからず存在するようだ。
もう少し具体的に書こう。文化財保護法第三十六条にはこう記されている。
「重要文化財を管理する者が不適任なため又は管理が適当でないため重要文化財が滅失し、き損し、又は盗み取られる虞(おそれ)があると認めるときは、文化庁長官は、所有者、管理責任者又は管理団体に対し、重要文化財の管理をする者の選任又は変更、管理方法の改善、防火施設その他の保存施設の設置その他管理に関し必要な措置を命じ、又は勧告することができる。」
有名な社寺に行くと、よく「宝物館」という名のコンクリートの建物があって、その中に国宝や重要文化財の指定を受けた仏像などが施錠管理されてしまっているのだが、それでは「美術工芸品」としての仏像などの価値は守れても、何百年もの長きにわたり地域の人々によって守られてきた「祈りの空間」としての建物の価値や、「祈りの対象」としての仏像の価値の多くが失われてしまうことになる。寺は本来「祈りの空間」を提供するためにあり、そのために仏像は欠かせない存在であるのだが、文化財保存法は文化財を維持・管理することに焦点が絞られてすぎてはいないか。寺は美術館や博物館とは違うことは言うまでもないのだが、法律は寺に博物館並みであることを要求しているのだ。
もし文化財保護法に基づき修理をすることになると、文化財としての価値を減じないために、制作された当時の伝統技法で昔と同様の素材を用いて修理をすることとなる。そのため、国庫の一部補助があると言っても多額の出費を求められることになるし、適切な温度・湿度を維持するための装置や、盗難に遭わないための装置の設置のみならず、セキュリティ費用や火災保険なども今まで以上に経費をかけざるを得なくなってしまう。
そのような制約を受けることを嫌って、価値ある文化財であることを知りながら、文化財指定を敢えて求めない寺が少なくないようなのである。そのことは仏像・仏画だけでなく、建物についても同様である。
拝観料を主たる収入源としたい寺は、箔付けのために文化財指定をとることにそれなりのメリットがあるのだろうが、それ以外の多くの寺にとっては文化財指定を取ることのメリットをあまり感じないので文化財の指定を求めない。だから文化財の指定がなくとも、価値のある仏像や仏画などが全国に少なからず存在するのである。

話を大津市歴史博物館開館25周年記念企画展に戻そう。
今回の企画で展示されている仏像は白鳳時代のものから江戸時代のものまでさまざまだが、無名の寺院から初めて公開されたものや、所有者の希望により寺院名を伏せて展示されている仏像のなかに、文化財の指定が無くても魅力的なものがいくつもあって、私自身、会場を巡りながら、仏像の放つオーラを感じて何度か立ち止まってしまった。
信長の時代に比叡山の焼き討ちがあり多くの堂宇が焼かれて、仏像も焼かれたとばかり思っていたのだが、平安・鎌倉期の仏像が数多く展示されているのは意外であった。

元亀2年(1571)の比叡山の焼き討ちについて、『信長公記』にはこのように記されている。
「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1_(1571%E5%B9%B4)
ここまで激しく焼かれたなら、価値のある文化財の大半がこの時期に失われたと誰でも考えるところなのだが、延暦寺やその里坊や、ゆかりのある周辺の寺院に、平安時代、鎌倉時代の仏像が多数残されており、それらを目の前で観ることができる。次のURLは出品された仏像・仏画などのリストだが、仏像は信長の時代よりも古いものがほとんどである。
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/image/201510/hieizantennrist_0.pdf
今までに何度か焼失したり奪われる危機があったと思うのだが、それぞれの時代の多くの人々の信仰に支えられ、必死に守られて今日に残された仏像が、この博物館に一堂に集められて展示されていることはすごいことだと思う。
もうすぐ比叡山が紅葉の季節を迎え、麓の大津市の寺社の庭が鮮やかに色づく時期が近い。
秋の週末に、比叡山ゆかりの仏像鑑賞に立ち寄られてはいかがだろうか。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。
良かったら覗いてみてください。
唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html
慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
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光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-346.html
南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-347.html
世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-348.html
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