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徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

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Category秀吉の死~関ケ原前後
前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。

徳川家康
徳川家康

家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に江戸に還らしめた。彼は一度は大老、及び奉行等に制止せられたにかかわらず、ほしいままに他の大名と婚約を実行した。要するに法度は、彼を制約せずして、彼は却って法度を左右した。
手短く言えば、彼は取りも直さず、傲然として秀吉に代わったのだ
。…

家康は随意に私党を樹てた。随意に私恩を売った。秀吉の法度によれば、秀頼の成人迄は、現状維持であった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/76

家康は、秀吉の法度を平気で蹂躙したとあるが、具体的にはどのような事をしたのか。その一部を紹介しよう。

「しかも家康は、慶長4年2月、堀尾吉晴の己(おのれ)のために周旋したる徳として、越前府中の五万石に封じ、本領遠州浜松の十二万石をその子忠氏に譲らしめた。これは吉晴もて、加賀の前田氏に備えしめんが為であった。また細川忠興が、家康と利家の間を朝廷したるを徳として、豊後杵築五万国を与えた。而して森忠政が、伏見の騒動に際して、他に先んじて兵を率いて、家康を援護した功に酬ゆべく、美濃の兼山より川中島四郡の地、十二万七千石に移封した。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/77

家康は論功行賞や信賞必罰を独断で決定したことが記されているが、それだけではなかった。

家康は慶長4年の2月には、大老、奉行等の抗議のため、私婚取消の誓紙を書きつつその4月には、伊達政宗と互いに結納を取交わした。而して同年の冬には、その養女を、加藤、福島、蜂須賀三氏に嫁すべく、新たに婚約を結んだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/78
と、まさにやりたい放題である。

豊臣秀頼
【豊臣秀頼】

こんな調子で家康は、いよいよ大坂城に乗りこんでいる。
宇喜多秀家や毛利輝元らが帰国したのち家康は、秀頼公に重陽の賀儀を伝えることを口実として、慶長4年(1599)9月7日に大坂に下っている。その際に、家康を暗殺する陰謀があったとして、大野修理と土方勘兵衛を常陸に流し、浅野長政を領地の甲斐に追いやっているのだが、本当にそのような陰謀があったのならば関与したメンバーを生かしておくことは不自然だ。徳富蘇峰が示唆しているように、この陰謀は家康の自作自演であった可能性が高いと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/83

浅野長政
【浅野長政】

この時に家康は、浅野長政らを追いやっただけではなく、陰謀の背後には加賀の前田利長があるとして、さらに前田征伐の準備にとりかかろうとした
前田利長
前田利長

その情報を聞いた前田利長は驚き、家康の要求通りに芳春夫人(前田利長の正室)を人質に出している。またこの事件の調停にあたった細川忠興も、前田利長とともに謀るところありとの噂が流れたために、三男の細川忠利を人質として江戸に送っている。

家康はしばらく大坂の石田正澄(三成の実兄)邸に入っていたが、9月下旬に北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、空いた西の丸を自分の居所としている。
大坂城

そして慶長5年(1600)の正月を迎えると、諸大名は本丸で秀頼に年賀を述べたあと、西の丸の家康にも年賀の儀礼を行なったのだそうだ。

上杉景勝
上杉景勝

さて、家康の次の攻撃目標は、会津の上杉景勝だった。
景勝は2年前の正月に、秀吉の命により会津百二十万石に国替えとなり、砦の修復や道路の修復などに取り組んだ後、慶長5年(1600)2月からは新城の建築に着手していた。
この動きをみた戸沢政盛(出羽仙北郡の領主)と堀秀治(越後春日山城主)が「上杉は謀反の準備を行なっている」と訴えるに至る。
そこで家康は景勝に詰問する書状を発し、弁明の為に上洛することを命じたのであるが、景勝はこれを拒否し、特に側近の直江兼続は家康に強く反発し、家康を非難するような書状を送っている。これを世に「直江状」と呼ぶ。

直江状

Wikipediaに「直江状」の書状の内容と口語訳がでているが、口語訳の一部を紹介しよう。
「一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。」
「一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6

家康は5月3日に到着したこの書状を読んで激怒し、上杉討伐を決定して、伊達政宗をはじめ諸大名に会津出兵の指令を出している。前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は聞く耳を持たなかった。
そして自らも6月16日に大坂城を発って遠征の途につき、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられているが、伏見城に残された徳川軍勢は1800程度だったのだそうだ。

東海道53次で江戸から京都までの所要日数は男性で13~15日程度と言われているが、家康の軍勢は随分旅人よりも遅いペースで東海道を下っている。家康が江戸に到着したのは7月2日で、途中鎌倉などを見学したりしたという。
江戸に5万8千以上の兵が集まり、徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣したのが7月19日、家康が会津に向かったのが7月21日なのだが、家康がこんなにゆっくりと兵を進めたのは、佐和山城にいた石田三成の挙兵を誘おうとしたためである。

家康の軍勢が大坂を発ってから三成に接近した時期のことを、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の『東照宮御実紀』巻四ではこう記されている。

石田三成、この時未だ佐和山にありしに、その謀臣島左近、今夜佐和山より急に水口の御旅館へ夜討ちをかけんと言う。三成聞きてそれにも及ばず。かねて長束に諜(しめ)し合わせ置きたれば、長束水口にて謀(はかりごと)を行なうべしという。左近、天狗も鳶と化せば、蛛網(くもあみ)にかかるたとえあり。今夜の期を過すべからずと、是非に三成を勧め、三千人にて、蘆浦(あしのうら)観音寺辺より大船二十余艘に取りのり、子刻(ねのこく)に水口まできてみれば、はや打ち立て給う御跡なりしゆえ、あきれはてて帰りしという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/40

『東照宮御実紀』の記述には作り話や誇張が多く割り引いて読む必要があるところだが、家康が伏見や大坂の守りを手薄にして上杉討伐に動くことは、石田三成をはじめとする反徳川派にとってはクーデターを挙行する願ってもないチャンスであったことは間違いがない。家康はわざとそのお膳立てをしたのである。
徳川家家臣の戸田氏鉄が記した『戸田左門覚書』には、「十八日石部御泊り。この時長束大蔵、内府公を我城へ入り奉り、打ち申さんと謀るよし、世間に言い、雑説也」と書かれているが、家康が水口城に入らなかったのは水口城主の長束正家を警戒していたと解釈するしかないだろう。

石田三成
石田三成

家康が期待した通りに、石田三成が動き出した。挙兵を決意した三成は、家康に従って関東に行こうとした大谷吉継を味方に引き込み、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布している。
安国寺恵瓊の活躍もあって、大坂に吉川広家、小早川秀秋、宇喜多秀家、蜂須賀家正、長宗我部盛親、小西行長、島津義弘、鍋島勝茂など多くの西国大名が参陣し、総勢十万に近い兵力が結集したのだが、この兵力はおそらく家康の予想を上回るものであったと思われる。

大谷吉継
大谷吉継

蘇峰はこれだけの武将が集まった西軍をこう評している。
「…彼らの中には、多数に圧せられ、余儀なく脅従したものもあった。形勢を観望して、当面を誤魔化したものあった。両股(ふたまた)を掛けたものもあった。味方顔をして敵に内通したものもあった。要するに十万に垂(なんな)んとする大衆を擁しても、その実は十万人の心にて、まず烏合の衆というより、他に適評はなかった
関原(せきがはら)役を語る者は、西軍の運動の著々(ちゃくちゃく)機を失し、その統一なきを咎(とが)むる者が多い。しかも平正に観察すれば、真剣に西軍方で、心も、身も働かしたのは、唯だ石田三成と、大谷吉継二人であった。しかも吉継は、病廃の余であったから、真に一人前の仕事に耐えたものは、三成ひとりであったと言わねばならぬ。それにしては、能くもあれ程のことが出来たかと、むしろ感心する方が、至当の判断であろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/133

また西軍は、家康に従って東下している諸将の妻子を人質として大坂城に収容している。そして、会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣、岐阜の織田秀信なども西軍に加わり、家康を東西から挟み討つ状況を形成したのだが、それからあとのことは次回に記すことにしたい。
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つねまる  

水口の旅を

こんにちは。いつもお世話になっております。いよいよ師走も押し迫った感がありますが、しばやん様にはご実家のお手伝い等でご多忙のことと拝察致します。

家康が水口で立ち寄った家松山大徳寺は忠勝の伯父が住職。寺号と寺名はこの時家康が与えたとか。
また、正家の魂胆を告げ家康を鈴鹿峠まで送ったとされる大原篠山氏の篠山景春は三河以来の甲賀武士で、鳥居元忠と共に伏見城で死亡しています。
甲賀市の鳥居野が彼の領地ですが、篠山城跡に鎮座する大鳥神社が素晴らしいです。

春になってからの旅にいかがでしょう?
鬼が笑いますかしら。

2015/12/27 (Sun) 17:23 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 水口の旅を

つねまるさん、こんばんは。いつも読んで頂いて感謝です。

昨日は実家に帰って、お墓や本堂の掃除をしてきました。秋から冬にかけては落葉が多いので、実家も人手が欲しい季節です。

Wikipediaに、長束正家の息子と家臣が「水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀っているとの噂が立ち、甲賀衆篠山景春の通報によって家康は城下を素通りした」と記されていますが、篠山景春が長束正家の魂胆を告げて家康を鈴鹿峠まで送ったという話は初めて聞きました。
会津征伐の際には家康は水口で泊まらず、その後に大徳寺に泊まったようですね。

滋賀県はまだ知らないところがいっぱいあります。また観光したいと思います。

2015/12/27 (Sun) 20:09 | EDIT | REPLY |   

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