天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に着こうとするのが当たり前のことではないか。
石田三成側に東軍を凌駕するほどの武将が着いたのは、多くの武将が西軍の方が有利と判断していたことを意味するのだが、ではなぜ西軍の武将が三成の思惑通りに動かなかったのだろうか。前回記事に少し触れたが、家康による様々な工作が無視できないようなのだ。
石田三成のプランでは背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、家康の工作により軍勢を山形方面の最上義光領に向けさせられ、東軍は清州城を先に拠点として確保し、さらに岐阜城、犬山城を落城させて、さらに西に向かった。

【毛利輝元】
東軍に岐阜城を落されて、石田三成は8月26日に使いを大坂に遣わして毛利輝元の出馬を要請したのだが、この使者が東軍に捕えられたために、書状が輝元に届かなかった。
三成は輝元に再度書状を送って再び出馬を要請したところ輝元の応諾を得て、9月12日か13日に輝元は秀頼を奉じて佐和山城に向かう予定であったが、今度は大坂城中で増田長盛が東軍に通じているという噂が流れたために、輝元は出馬を引き延ばして戦機を逸してしまったという。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/215
また、家康は豊臣家臣間の対立を利用するのがうまかった。
秀吉の晩年には、正室の北政所(木下家定の実妹:ねね)に近い武将と、側室の淀殿(浅井長政の娘:茶々)に近い武将との対立が激しかったようなのだが、家康はそれを見逃さず、北政所とそれに近い武将を取りこんでいった。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。
「石田(三成)と不倶戴天の七将*の如きも、敢て悉(ことごと)くとは言わぬが、その大半はみな北政所党であった。加藤、福島、浅野の如きは、その色彩もっとも濃厚のものだ。
思うに家康は、おもむろにこの豊臣氏の内部より出で来たる破綻を、多大の興味をもて、看取したのであろう。而して彼はあくまで超然たる態度を持しつつ、しかもこの争いを調停するよりも、これに油を注いだのであろう。関ヶ原戦役の前後の局面を観察するには、この事件の背後に、両夫人あるを忘却してはならぬ。
北政所にせよ淀殿にせよ、彼女らはもとより豊臣氏の天下を百世に保持するの一事においては依存なかった。いな、それが彼女らの本望であった。しかも豊臣氏の天下を転覆して、これを徳川氏に手渡したのは、この両夫人をもって殊勲者とせねばならぬ。その働きの方面については、北政所と淀殿とは互いに異なっているが、しかも彼女らの一挙一動が、期せずして徳川氏の利益となった一点に於いては両(ふたつ)ながら差別がない。」
*七将:福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政(資料によっては、蜂須賀家政、藤堂高虎が加わる)朝鮮出兵の査定などで石田三成に強い恨みを抱き、関ヶ原の戦いでは七将は東軍の中核となって戦った。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/218

【小早川秀秋】
教科書などで関ヶ原の戦いの解説を読むと、小早川秀秋が西軍を裏切って東軍に寝返ったことが書かれているのだが、蘇峰によると秀秋の裏切りの背後には北政所の意向が絡んでいる可能性が高いという。
「秀秋の背後には高台院(北政所)があった。彼女は当初より石田三成らの行動を是認していない。彼女は当初より、家康に倚りて豊臣氏を支持せんとしていたのであった。
…
元来小早川秀秋は、いずれの点から観察しても、石田等に組みすべき者ではない。彼は北政所の姪にて、万事その指揮を奉ずる一人だ。而して北政所は、当時家康と親しく、その縁辺、もしくは懇意の人々は、いずれも東軍の重(おも)なる連中だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/219
東軍の浅野幸長と黒田長政が連署にて小早川秀秋に宛てた8月28日付けの書状が残されている。
そこにはこう書かれている。
「尚なお急ぎ御忠節尤もに存じ候。以上。
…貴様いずかたに御座候とも、この度御忠節肝要に候。二三日中に内府(家康)公御著に候條、その以前に御分別この処に候。政所様へ相つづき御馳走申さず候ては、叶わざる両人に候間、かくの如く候。早々返事示し待ち候。くわしくは口上に御意得べく候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/220
このように浅野と黒田の御両人が、秀秋に対して「早く、どちらに着くか態度を決めよ」と催促したのだが、思うに浅野と黒田は家康の指示によりこの手紙を書いたのではないだろうか。しかしながら、この時点では秀秋はどちらに着くかついてまだ決めていなかったようである。
西軍の宇喜多秀家や大谷吉継も、秀秋が東軍と内応しているのではないかと直前まで疑って監視していたようなのだが、小早川秀秋には西軍では3番目に多い8千(一説では15千)の兵を擁しており、彼が味方であるのか敵であるのかは両軍にとって重大事であったことは当然である。
一般的な歴史の概説書では、小早川秀秋の裏切りは書かれても他の武将のことはあまり書かれていないのだが、土壇場で石田三成を裏切ったのは秀秋ばかりではなかったのだ。
前回の記事で関ケ原前後に家康が大量の書状を各方面に送っていることを書いた。Wikipediaにそのリストがあり、書状の中身までは紹介されていないが、備考欄のコメントから判断して、西軍の取り崩しを狙ったものと思われる書状を列記しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

【家康が関ケ原の戦い直前に西軍の取り崩しのために出状したリスト】
書状は多くの場合は使者を伴い、家康や東軍の武将の使者が書状を持参したともなれば内通しているのではないかとの噂が拡がることは必定だ。また西軍の武将にとってみれば、裏で東軍と繫がっていれば、西軍が敗れた場合にも所領没収などの最悪の事態を防げる可能性がある。実際に、言葉では「西軍に味方する」とは言いながら、東軍と両天秤にかけるような武将が少なからずいたようである。

【石田三成】
石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書簡が残されているが、これを読むと三成の悩みや不満が吐露されていて興味深い。

たとえば、長束正家や安国寺恵瓊が南宮山に陣を取ったことに関してこうコメントしている。
「…ことのほか敵を大事に懸けられ候て、よし敵はいぐん候とも、なかなかあい果たすべきてだてもこれなく、とかく身の取りまわし積りばかりにて候。陣所は垂井の上の高山に、山取りの用意に候。彼の山は、人馬の水もこれあるまじきほどの高山にて、自然の時は、掛合にも、人数の上り下りもならざる程の山にて候。味方中も不審つかまつるべく候。敵も其の分たるべく候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/223
要するに石田三成は、長束正家や安国寺恵瓊が高い山に陣を取ったのは、戦うためではなく身の安全を保つためだと評しているのだが、この二人を戦う姿勢に変えることこそが三成の役目であるはずではなかったか。大した武功のないたかだか20万石足らずの三成にはそれが不可能であったようなのだ。
「…敵方へ人を付置き聞き申し候。佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち、敵へ申し談ぜらるる子細候とて、この中相い尋ね候。それ故に勢州へ出陣せられる者も申し留め、各々面々在所在所に相待たれ候ようにと、申し談ずなどと申し。この二三日は頻りにかげの口これあり、敵方いさみ候いつる。しかるに江州の衆、悉く山中へ出だされ候とて、かげの口違い候ように、敵を申し候とて、ただ今申しきたり候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/225
名前を伏せているのでわかりにくいところだが、「佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち」というのは、小早川秀秋のことだと思われる。ほかにもいろんな武将が東軍と繫がっていたとの噂がたっていたようだ。
「…何とぞ諸侍心揃い候わば、敵陣は二十日のうちに破り候わん儀は、いずれの道にも多安かるべき儀に候えども。この分にては結句味方に不慮出来(しゅったい)候わん体眼前に候。よくよく御分別肝要に候。羽兵人(島津義弘)小摂(小西行長)なども、その申さるる様に候えども、適慮これありとみえ申し候。拙子儀は存知のたけ残らず申し候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226
みんなが同じ心で戦えば20日もすれば勝てる戦いなのだが、味方同士が猜疑しあっていて、この分だと味方で何があってもおかしくないと三成自身が書いていることは注目して良いだろう。
また、三成は長盛に対してこんなことも書いている。
「度々申し入れし如く、金銀米銭遣わさるべき儀も、此の節に候。拙子なども似合いに、早手の内有たけ、この中出し申し候。人をも求め候ゆえ、手前の逼塞ご推量あるべく候。しかれば此の節に極り候と存じ候あいだ、其の元も心得あるべき事。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/227
この際、持てるものすべてを振りまいて、人心を収攬せよと長盛に忠告しているのだが、天下分け目の大勝負にはそれが不可欠であろう。少なくとも豊臣秀吉が生きていたら、大盤振る舞いをする局面ではある。
石田三成が増田長盛に宛てた書状の全文は、蘇峰の『近世日本国民史』に解説付きで紹介されているのだが、これを読むと三成が西軍の武将をよく観察し、敵と内通している武将や二股をかけようとしている武将が少なからずいて、形勢が厳しいことを認識していたことがわかる。
しかしながら、三成にはそのことを洞察することはできても、局面を挽回する力がなかった。

【徳川家康】
味方の人心を収攬し、敵方を疑心暗鬼に陥れる能力においては、はるかに徳川家康が優っていた。
戦いで勝利するためには、兵力や戦略で優位であることが必要であることは言うまでもないが、家康は調略と情報戦によって、西軍有利な状況を覆したのである。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
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徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
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家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
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江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
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