関ヶ原の戦いの後の佐和山城と大垣城の落城
しかしながら、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、次のように記されている。
「石田三成は、小西行長らとはかつて家康をしりぞけようとしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。三成方に付いた大名は処刑されたり領地を没収され、また秀頼も領土を減らされて一大名となった」(同上書p.150)
と、まるで関ヶ原の戦いで全てが決着したかのように書かれているのだが、西軍がさしたる抵抗もせず、簡単に東軍に降伏するぐらいなら初めから戦わない方がましではないか。
実際には激しい西軍の抵抗があったのだが、今回は、佐和山城や大垣城がどのようにして東軍の手に落ちたかについて書くこととしたい。
9月16日に徳川家康は、前日の関ヶ原の本戦で西軍に属しながら東軍に寝返った小早川、脇坂、朽木、赤座、小川を呼んで、石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じたという。さらに東軍の田中吉政、井伊直政を加えて、合計約1万5千の大軍で近江に向かわせている。
では、関ヶ原の戦い当時の佐和山城の守りについてはどのような状態であったのか。

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、中日新聞の前身である新愛知新聞社の編集局長であった尾池義雄氏が昭和2年(1926)に著した『石田三成を中心に:関ケ原大戦の真相』という本が公開されている。その本には、関ヶ原の戦いの後、佐和山城を守っていた石田一族のことについてこのように記されている。
「留守の将士はみなこれ石田一門である。勝てば勝ち、敗くれば死は免れぬところである。これ位の覚悟は彼等にはあった。三成出征後の戦況や如何にと日夜鶴首してその報道を待っていたが、関ヶ原の大敗を聞くや、中にも正継(まさつぐ:三成の父)、正澄(まさずみ:三成の兄)は早くも決意した。この上は城を支持したとてそれは単に幾許かの日を延ばすに過ぎない。帰するところは落城あるのみ。いたずらに支持して多年忠勤の士卒を殺すは情として忍びざるところである。むしろこれを放還して我等数輩のみで死守して以て潔く死するに如くはないというが銘々の同一意向であった。ここに於いて凝議の結果、士卒を集めてその旨を諭し、死を共にしたき者のみを留まらしめて嬰守することとなった。それでも留まって死を冀(こいねがっ)た者はおよそ2千8百人であった。
味方が関ヶ原に大敗した以上、敵は洪水の如く押し寄せて来るは必定である。正継等は直に部署して城を固めたが、果たして17日には数万の大軍が山下に押し寄せた。小早川秀秋・朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠らは篝(かがり)尾口より責めかかった。
正午の頃秀秋の先鋒平岡頼勝らは切通しより城壁に迫って戦ったが、ここを守る者は津田清幽*父子であったので、拒戦防闘大いに敵を悩まして敗走させた。…」
*津田清幽:石田三成の重臣。佐和山城の戦いでは、子の重氏とともに奮戦し、小早川隊を退けた。以前家康に仕えたことがあり、東軍方の使者と交渉の任に当たった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174160/210

しかしながら篝尾口を守っていた山田上野は支えきれず、本丸に援兵を請うのだが、その時に本丸から派遣された弓・鉄砲頭の中に長谷川守知という人物がいた。
前掲書で尾池氏はこう記している。
「…長谷川守知が裏切ったのである。しかも秀秋の隊に向かって内応の矢文を発した。…けだし守知の叛意は当日俄に萌したのではない。彼は実にさきに京極高次と約するところあって大阪らの援兵と称して佐和山に入っていたのであった。」
石田正継は長谷川守知を討とうとしたが、水道から脱出して秀秋の隊に逃げていったという。城内の2千8百人の中には、東軍に内通していた者が何人か紛れ込んでいたようなのである。
そしてその日の夕刻に、家康よりの使者・船越景尚が田中吉政とともに佐和山城を訪れて、「関ヶ原の戦いで西軍は敗れた。速やかに降参せよ。」という家康の命を津田清幽に伝えている。
石田正澄は「某(それがし)一人の死を以て士卒の生命に換えたまわることなら明日にでも城を渡すべし、村越直吉殿を城中に遣わされよ」と答えて、家康もそれに快諾したというのだが、その翌日に、正澄と家康との約束があるのを知っていたか知らなかったのかはよく分からないが、田中吉政の兵が佐和山城内に突入している。再び尾池氏の著書を引用する。
「翌18日の朝に至って、吉政の兵は天守閣の門を破り、内城に突入する。清幽の子の重氏らは奮戦激闘してこれを退治して門を鎖す。そうこうするうちにまたもや裏切りする者があって、火を本丸に放ったので、正澄・正継らは如何ともせむ術なく、天守閣に駆け登り銘々に妻子を殺して自盡した。ともかくも一死を以て女童士卒の生命を救うことになっていた折柄のできごとであるから正澄の無念はけだし非常であったろう。それよりは罪なき女童があったら一命を棄つる当座の光景はどんなであったろう。佐和山城内のこの瞬時の光景はまた一大悲劇であった。三成の夫人宇多氏もまた正澄らの妻子と共に最期を遂げたのである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174160/211
この佐和山城の悲劇は、『信長公記』を著した太田牛一が『慶長記』に記している。徳富蘇峰の著書『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されている。
「佐和山には、石田隠岐守(三成の父正継)、宇田下野守(三成の岳父)、石田木工頭(三成の兄正澄)、子息右近太夫、たて籠もり抱え難く見及び、上臈、子供呼び並べ、是にて腹を伐るべき也。思い定めて恨みとも思うべからずとて、心づよくも一々妻子さし殺し、算を乱すあり様、目も当てられぬ様体也。これを見て、女の墓なき者、瞳(どう)と悲しみ叫ぶ声、佐和山もくづるる程と覚えたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/265
かくして東軍の違約により石田三成の居城・佐和山城は落城し、助かるはずであった多くの命が失われたのだが、敗者の城ゆえにその後徹底的に破壊されて、城址には今はほとんど何も残されていないという。
次に、関ヶ原本戦直前まで西軍の前線司令部であった大垣城はどうなったのか。

大垣城は9月14日に石田三成らが退去して関ヶ原に向かった後は、本丸に福原長堯*、熊谷直盛、二之丸に垣見一直、木村勝正、三之丸に相良頼房、秋月種長ら約7千5百の兵が城を守っていた。
*福原長堯(ふくはらながたか):豊臣秀吉に仕えた武将。妻は石田三成の妹。官位=右馬助
では東軍は、この大垣城に対してどう布陣していたのだろうか。
昭和5年に出版された『大垣市史 上巻』にはこう記されていいる。
「…この城に対する守備として、曾根の砦に水野勝成・西尾光教を、長松の砦に一柳直盛りを置きしが…
水野勝成はこの役(関ヶ原の戦い)西軍と激戦せんと欲し、分に過ぎたる兵員を率いたれば、本軍の西上に従属せんことを請いしが、許されず。空しく曾根の一城を守らしめられたるを以て、意甚だ満たざりき。たまたま領家村の郷士久世助兵衛、9月14日夜、西尾光教の陣に来たり、『今宵石田・宇喜多らの諸将は皆大垣城を出でて関ヶ原へ赴き、福原右馬助をはじめ僅少の勢にて留守せる由』を報じければ、光教大いに喜び、直ちに勝成らと大垣城攻撃の事を議し、その夜未明に光教・勝成ら助兵衛を嚮導としてまず兵を発せり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/163
水野勝成の実父の水野忠重は、徳川家康の叔父に当たる人物で関ヶ原本戦の2か月前に西軍方の加賀井重望に暗殺された経緯から、勝成は父の仇を討ちたくて多くの兵を引き連れて来たのだが、家康に命じられて大垣城の備えに配置されたことが不満だったようだ。
ところが、西軍の将兵の大半が関ヶ原に向かって大垣城の守りが手薄との情報が入り、水野勝成は西尾光教らとともに大垣城を攻撃して戦功を挙げようとしたのである。

【水野勝成】
14日の夜中に勝成らは大垣城に迫り、銃撃戦ののち三之丸を破って二之丸に迫ったが、西軍の頑強な抵抗に遭い、15日未明に城下に放火し、城北にある林村に一旦退き、使いを送って戦況を家康に報告させている。
しばらくして関ヶ原で東軍が大勝した情報が入り、それが大垣城内にも伝えられて城内の西軍の士気が沮喪していくことになる。
そして16日に水野勝成は、大垣城の三之丸を守っていた秋月種長の家老・秋月三郎左衛門にこのような書状を送っている。
「…曰く『昨日の軍に三成討死、諸大将達大方討死候なり。然れば此城計にて本意を遂げらるべきことに非ず。今此の時に候間、よくよく秋月殿へ申され候え』と。三郎左衛門はもとより望むところなれば、即ちこの由を種長に告げ、再三これを諌めければ、種長終に同心し、さらばとて相良・高橋にこの事一味あるべきやと言えば、頼房は大坂にありしときより心を家康に帰し、陳情書を井伊直政に送りし程にて、大いに悦びて之を賛したれば、高橋元種もまた相違なく同意せり。
この夜相良頼房、秋月種長、高橋元種*連署して、密書を勝成に送りて曰く『もし、罪を宥され領有を全くするを得ば、城将数名を誘致し、以て帰順の意を表せん。請うこの意を井伊兵部**に致せ』と、勝成すなわち之を本営に稟議し、密かに答書を送りてこれを許す。」
*相良頼房(肥後の戦国大名・相良義陽の次男)、秋月種長(筑前の戦国大名・秋月種実の長男で相良頼房の妹の婿)、高橋元種(秋月種長の弟)はいずれも大垣城の三之丸を守備していた。
**井伊兵部(井伊直正):徳川家康の重臣。関ヶ原の戦いでは東軍指揮の中心的存在。直政の工作により京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/164
水野松成は石田三成が討死したと嘘を伝えたのだが、大垣城を守る西軍にはそもそも確認するすべはない。
西軍敗北の報を受け、相良頼房は重臣の犬童頼兄の助言もあり、秋月種長及び高橋元種と相談の上、かねてより音信を取っていた井伊直政を通じ、家康への内応を密かに連絡したのである。連絡を受けた直政は家康に報告し、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じたのだが、大垣城本丸・二の丸に陣取る福原長尭らの戦意は高かった。
そこで頼房・種長・元種の三将は、9月17日頃軍議と偽って籠城中の諸将を集め、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を暗殺し二の丸を制圧している。

ところで、大垣城で家族とともに籠城した武将のなかに山田去暦という人物がいたのだが、東軍から「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届いて、家族とともに城を脱出したという。その娘が、後にこの籠城生活のできごとを語ったのを書きとめた『おあむ物語』という書物が残されていて、大垣城に複製が展示されていた。
次のURLにその全文があるが、初めて読んだときには驚きを禁じ得なかった。
http://www.j-texts.com/kinsei/oan.html
たとえば、こんなくだりがある。

「味かたへ、とった首を天守へあつめられて、それぞれに札をつけて覚えおき、さいさい くびにおはぐろを付ておじゃる。それはなぜなりや。むかしは、おはぐろ首は、よき人とて賞玩した。それ故、しら歯の首は、おはぐろつけて給われと、たのまれておじゃったが くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。」
戦後の恩賞のために、少しでも身分の高い武将に見えるようにお歯黒を塗るという役割が女性や子供たちに与えられていたことは大垣城を訪れた時に初めて知ったが、この『おあむ物語』には、天守に集まっては鉄砲玉を鋳造した話や、味方が取ってきた敵兵の首を並べて、目の前で弟が射殺されて冷たくなっていく話などが描かれていて、小説や映画やテレビドラマ等では絶対にわからない戦国時代の武士の世界を垣間見ることが出来る。
話を大垣城の攻防戦に戻そう。
東軍に内応した味方の裏切りにより二ノ丸を制圧された後、福原長尭は本丸で頼房らを迎撃したのだが、再び『大垣市史』を引用する。
「…(福原)長尭の士250人、四方へ5人ずつ配置し、自ら50人を率いて駈り出し、防戦甚だ力めたれば、寄手大勢なれど鉄門を破る能わず。…よってその後は仕寄り*を付けて攻撃せしに、城兵火箭を発してまた之を焼く。勝成・頼房ら交互して蕞爾たる一本丸を攻むること2日3夜に亘るも、長尭死守して屈せず。
既にして家康の命あり。曰く『戦いを止め説き降すべし。』と。勝成すなわち22日、近辺の禅僧2人を遣わして長尭を諭す。長尭曰く『苟(いやしく)も士卒の死を宥(ゆる)されなば、謹んで城を致さん。請うその証として人質を遣わされよ』と。勝成、光教と議してこれを許し、光教の臣・谷清兵衛を遣わせり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/165
そして23日に福原長尭は約束通り兵器を東軍に交付して城を明け渡し、名を道蘊と改めて伊勢の朝熊山に蟄居したのであるが、その報告を受けた家康の反応を書かざるを得ない。
「長尭の城を致すや、勝成・光教らこれを家康に報告し、長尭を赦すを請う。聴かれず。すなわち使を発し(28日)旨を諭して自裁せしむ。長尭使者に対面し、『某(それがし)ことは三成縁者のことなれば、公の御遠慮至極なり。』とて、少しも騒がず。朝熊山の麓、永松庵という禅寺にて切腹す。此処に墓所ありて、順道蘊禅定門、慶長5年10月2日とありと言う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/165
家康は決して福原長尭の出家を赦さなかった。そして長尭は、三成の親族として、従容として切腹して果てたのである。
関ヶ原の本戦もそうなのだが、関ヶ原の後の掃討戦においても、東軍は決して実力で勝利したのではない。表現が難しいところだが、東軍は勝つために手段を選ばなかったから勝利したという側面が少なからずあるのだ。
西軍は敗れはしたものの、少なからずの武将が命を懸けて、東軍に正面から戦い挑んだことは、記憶にとどめておきたいものである。
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