石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと

【慶長年中卜斎記】
最初に発見されたのは小西行長だが、家康の侍医であった板坂卜斎が記した『慶長年中卜斎記』に行長が発見された経緯などが記録されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されている。
小西行長は、関ヶ原本戦から4日後の9月19日に伊吹山の東にある糟賀部村で関ヶ原の庄屋・林蔵主に発見され、林は行長から次のように声を掛けられたという。
「…必ず近く来たり候え、頼み候わんと御申し候。近くへ参りて何の御用と申しければ、吾は小西摂津守なり。内府*へ連れて行き、褒美を取れと御申し候。…我らは自害するも易けれども、根本吉利支丹(キリシタン)なり。吉利支丹の法に自害はせずと様々仰せられ候。在所の百姓も聞き候まま、さらば御供申すべしとて、我が宿へ御供申し、家康公様御本陣へ、小西殿を御供申すに、自然道にて、人に奪われ候ては如何あるべきと存じ、竹中丹後守殿家老を呼び…」
*内府:朝廷の官名「内大臣」の漢名で、徳川家康を指す。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/271
キリシタン大名の行長は、キリスト教の教義では自殺を禁じられているために、切腹したくてもすることができない。そこで行長は庄屋の林蔵主に、自分を捕まえて家康に差し出して褒美をもらうようにと述べたという。
林は竹中重門(たけなかしげかど:竹中半兵衛の嫡男)の家老に事情を話し、ともども行長を護衛して、草津にいた東軍の村越直吉に引き渡し、ご褒美として金貨10枚を賜ったことが記されている。

次に捕縛されたのは石田三成だが、日本史学者渡辺世祐著が著し明治40年(1907)に上梓された『稿本 石田三成』にはこう記されている。
「初め三成の伊吹山に逃れし時は、近臣なお多く従いたりしかば、三成は、これ等を諭して皆立ち去らしめたり。然るに、渡邊勘平・磯野平三郎・藍野清介の三人は最後までもと強いて従いしが、三成はこれ等とともに江州浅井郡の草野谷に出て大谷山に遁れ暫く潜伏せるが、やがて三士をも諭して運よくば、再び、大坂にて会合せんと約して、去らしめたり。これより、単身山路を分けつつ伊香郡に入りて高野村に出で古橋村の法華寺の三殊院に逃れ善説に身を投ぜり。善説は三成が幼時の手習師匠なり。かく一時三殊院に匿れしも村民等の知る所となり、身を措くに困却せしが、この地三成の旧領地にして平素情をかけし百姓・与次郎太夫という者あり。志篤きものなりしかば、密に三成を請じて、その近傍成る山中の岩窟に潜ましめ、毎日食事を運べり。…しかるに、三成が与次郎太夫に頼れること、この村の名主に聞こえしかば、直ちに与次郎太夫を召し出して三成を捕え、(田中)吉政の陣所に致さんことを諮り。与次郎太夫大いに驚き、直ちに帰りて、この趣を三成に報ぜり。三成、病気にて起居。意に任せざりしかば与次郎太夫のこれまでの厚誼を謝し、天運尽きぬと覚悟し、吉政の家臣に報ぜしめたり。ここにおいて吉政の家臣、田中長吉訴に従い、来たりて三成を捕え、乗り物に乗せて同郡井ノ口に送りぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/181
少し補足すると、古橋村の法華寺という寺は石田三成の母の菩提寺であり、三成が手厚い保護を与えていた寺だという。
また、田中吉政は石田三成とは旧知の仲で、豊臣秀次の失脚後秀吉に仕えて三河国岡崎城主となっているのだが、秀吉の死後は徳川家康に接近して関ヶ原の戦いでは東軍に所属し、前回の記事で記したとおり、石田三成の居城・佐和山城を搦手(からめて)から突入して落城させた人物でもある。
三成を捕まえたのは田中吉政の家人の田中長吉(伝左衛門)だったのだが、三成はよほど佐和山城の家族のことが気になったのだろう、長吉に三成の兄・石田正澄のことを訊ねている。長吉が、正澄は妻子を刺して自身も自殺したことを話すと、三成は「それですべてが終わった」「なんとかして大坂城に入り、もう一度挙兵がしたい」と述べたという。(『武功雑記』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/110
三成は捕縛されて22日に大津に送られて家康と面談した後に本多正純に預けられ、三成は正純に対して挙兵した理由と西軍の敗因についてこのように語ったという。
「吾れ世のさまを見るに、徳川殿を打ち亡ぼさずば、終に豊臣家のためによからじと思いて、宇喜多秀家・毛利輝元をはじめ同心なかりし者をしいて、かたらいて遂に軍をば起こしたりき。戦いに臨んで二心ある輩ありて、辺撃せしかば、勝つべき軍に打ち負けぬるこそ口惜しけれ。吾れ打ち負けしは、全く天命なりと答えて嘆息せり。正純、また、智将は人情を計り、時勢を知るとこそ申せ、諸将の同心せざるもしらず、軽々しく軍を起こされ、軍敗れて自害もせで、からめられしは、公にも似合わざる事なりというに、三成忿(いか)りて、汝は武略は露もしらざるなり。大将の道は、かたるとも耳には入るまじとて物もいわざりしと。(常山紀談、校合雑記、板坂卜斎覚書)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/184
本多正純に痛いところを衝かれて黙ってしまったのだが、三成からすれば小早川秀秋らの裏切りが無ければ、関ヶ原の本戦で充分に勝利できたと言いたかったのであろう。
話は前後するがこんなエピソードもある。家康は会見する前に大津の陣の門外に畳を敷いて三成を座らせて生き曝しにしたという。するとその前を、三成を良く知る諸将が通って行く。諸将の反応は様々だ。

【福島正則】
「福島正則、打過ぎけるが、馬上に三成を見て、汝無益の乱を起こし、今その有様は何事成るぞと、大声叱咤せしかば、三成毅然として、吾れ運拙く、汝を生捕りて、かくなさざりしを憾とすと答えぬ。
黒田長政、正則に続いて、その前を打通りしが三成を見て、徐(おもむろ)に馬より下り、子、不幸にも、かくなられしこそ本意なくあらめと言い、三成の服装の穢れたりしを見て、己が着用せし羽織を脱ぎて、これを着せしめ、よく労りたりという。」
次に西軍敗北の原因を作った小早川秀秋が前を通ったという。さすがに、三成は黙ってはいられなかったようだ。
「三成、秀秋の来るを見るや、吾れ、汝が二心あるを知らざりしは、愚かなり。されども、太閤の恩を忘れ、義を棄てて約に違い、裏切りしたる汝は、武将として恥ずる心なきかと。声を励まして秀秋を罵りしかば、秀秋、赤面して退けりと言う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/185
9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌(京都所司代)の兵によって捕らえられ、大津に護送されている。
そして小西行長、石田三成、安国寺恵瓊の3名は、その後大坂・堺を引き回されることになるのだが、三人の着ている服が破れて醜かったので、家康が3人に小袖を与えたという。その3人の反応が対照的だ。
「今その儘の姿にて、京・大坂を引き廻すは吾等同様に武士の翻意とせざる所なればとて、小袖を三人に与えたり。行長と恵瓊とは、これを喜び、家康の恩に感ぜしが、三成はこれを誰の与ふるところぞと問う。傍らにありし人、これは江戸の上様よりと答う。三成、それは誰の事ぞというに、徳川殿なりと答えしかば、三成、何に徳川殿を上様というべきや、上様は秀頼様の外にはなき筈なりと言いあざ笑いしたりと伝う。三成のあくまでも、秀頼に奉事することを念とし、家康に屈せざる状、その一挙一動に現われたり。(イツマデ草抜粋・常山紀談・関ヶ原合戦記)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/186
10月1日に3人は京都六条河原にて斬首されたのだが、三成は次のような辞世の句を残したと言われている。
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江というのは三成の故郷・近江にある入江で、そこで漁師が芦の間で点す篝火のようにはかなく消えていく自分の命を詠っている。

【石田三成】
いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。
石田三成は徳川家に正面から敵対したがために、悪し様に描かれることが多い人物なのだが、「勝者にとって都合の良い歴史」では、勝者に敵対した人物をそのように描かざるを得ないと考えて良い。その理由は、もし三成を立派な人物だと描けば、処刑したことに正当な理由を失い、処刑した権力者の方が悪者になってしまうからなのである。だから、権力者は敵対する人物を徹底的に悪く描いて、その人物像を世の中に広めようとするのだ。
三成のマイナスイメージの多くは、徳川幕府の意向により創作されて広められたものであり、そのような観点で記された「歴史書」をもとに多くの小説やドラマが創作されて、今も広められ定着しつつあるのだが、実際には石田三成という人物はどのような人物であったのか。
先ほど、三成が関ヶ原から落ちのびて、古橋村の法華寺の三殊院に匿われたことを書いたが、この時には田中吉政がこんなお触れを出していた。
「石田三成、宇喜多秀家、島津義弘を捕らえたものには永久に年貢を免除する。捕らえることかなわず、討ち果たした場合には当座の褒美として金子百枚を与える。
もし、匿う者があれば本人はもとより、一族およびその村の者も厳重に処罰する。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/180
にもかかわらず百姓・与次郎太夫は、日々三成に食事を運び、村の人々はその秘密を守ったのであるが、では古橋村の誰が、三成が匿われていることを訴え出たのか。
『稿本 石田三成』には、こう記されている。
「…今日古橋村に伝うるところによれば、三成のことをば与次郎太夫の養子が名主に訴え出でしかば、終に三成を捕うるに至れり。されば、この時よりして現今に至りても、一村養子を忌むの風あり。また、如何なる故か知らざるも、4月に三成の捕われしことを追想し一日は村民、すべて畏縮し、頗る敬意を表するという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/182
隣村の出身であった与次郎太夫の養子が、名主に三成が隠れていることを密告したために三成が捕縛され処刑されたことから、それ以降古橋村では他村からの養子縁組をしない慣習ができたというのである。これはすごい話である。
古橋村は三成の領地であったのだが、以前この地が飢饉に襲われた時に三成は年貢を免訴したばかりか、村人たちの為に米百石を分け与えたとの話があるという。
ネットでいろいろ調べると、三成が領民から慕われていたことを示す確かなものが、佐和山城址の法華口に残されているようだ。

【石田地蔵】
上の画像は「石田地蔵」と呼ばれるものだが、三成の死後、領民たちが三成とその一族・家臣の霊を慰めるためにひそかに地蔵を作り、入山を禁止されていた佐和山のあちこちに置いたのだそうだ。
江戸時代に井伊藩がこれらの地蔵の一部をここに集めたというが、昔は5百体近くの地蔵があったというから驚きである。
http://94979272.at.webry.info/200810/article_15.html
仙琳寺という寺の境内にも多くの「石田地蔵」が残されているようだ。次のブログが参考になる。
http://blog.livedoor.jp/nozomunozomi/archives/65908198.html

【井伊直政】
関ヶ原の戦いに勝利し石田三成の領地を引き継いだのは井伊直政だが、佐和山城に入城してからわずか2年後の慶長7年(1602)に、関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま破傷風がもとで世を去ったという。
井伊直政が亡くなった当初、領民たちの間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まり、このことが家康の耳に入って佐和山城は徹底的に破壊され、代わりに彦根城が建築されたのだが、逆に領民たちは三成らの霊を慰めようとして、入山が禁止されていた佐和山に多くの地蔵を造って祈ったということのようだ。
石田三成が死んで415年以上の年月が過ぎたのだが、「石田地蔵」は今も地元の人々によって、美しく着飾り、花が供えられていることに驚くのは私ばかりではないだろう。
また長浜市石田町では、石田三成の法要が400年以上続けられていることもまたすごいことである。
石田三成は敗者でありながら、今も地元の人々に敬愛され続けている人物であることを知るべきである。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




ツイート
【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
蘇我氏は本当に大悪人であったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-122.html
謎に包まれた源頼朝の死を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-61.html
慈眼堂、滋賀院門跡から明智光秀の墓のある西教寺を訪ねて考えたこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html
シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html
静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html
- 関連記事
-
-
豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか 2015/12/20
-
徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯 2015/12/26
-
石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか 2016/01/03
-
天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか 2016/01/09
-
関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き 2016/01/16
-
関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか 2016/01/23
-
関ヶ原の戦いの後の佐和山城と大垣城の落城 2016/01/30
-
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと 2016/02/06
-
西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い 2016/02/13
-