西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い
西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。
「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほとんど木偶人と一般であった。彼は本来家康とともに天下を争わんとする意気込みなく、ただ安国寺恵瓊に勧誘せられて、得々として大兵を率い、大坂に出掛けたのであった。而して彼は爾来、恵瓊の反対派とも言うべき、吉川(きっかわ)廣家、福原廣俊のために説破せられ、西軍の主将でありつつ、かえって局外中立の姿をなしていた。
されば家康は、一兵を損せず、一発の銃弾を放たず、手に唾して大坂城を収め得た。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/273

【毛利輝元】
毛利輝元は全く戦わなかったのであるが、前掲書に大坂城に家康が入城するまでの動きが纏められている。
「家康は9月20日、西軍諸将の邸の伏見にあるを焼かしめた。22日福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、有馬豊氏らをして、葛葉(くずは)に至らしめた。毛利輝元は、誓書を井伊直政、本多忠勝、及び福島正則、黒田長政に遣(おく)り、西の丸を退き、二心なきを表せんと請うた。家康は23日、正則、輝政、幸長、長政、高虎に、西の丸を収むべきを命じた。25日5人連署して、書を輝元に遣り、直政、忠勝の9月14日の誓書の虚偽なく、かつ家康の輝元における、毫も心に介するなきを告げた。ここに於いて輝元は西の丸を退き、木津の邸に移った。増田長盛もまた本領の郡山に屏居した。正則らは葛葉より大坂に至り、西の丸を収め、本丸に赴き、秀頼に謁した。26日家康大津を発し、淀に宿し、27日大坂城に入り、秀頼に謁し、自ら西の丸に居り、秀忠を二の丸に置いた。
かくの如く9月1日に江戸城を出発し、同27日に大坂城に入った。如何に平昔(へいせき)よりして、潜勢力を養うていたとはいえ、未だ1箇月を経ざるに、天下の局面を一変したのは、実に異常の出来事だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/274
江戸城から大坂城まで徒歩で移動するだけでも2週間以上はかかる距離なのだが、さらに天下分け目の関ヶ原の戦いがあり、さらにその掃討戦が続き、それらに勝利するために情報を収集し、諸将に的確な指示命令を出し、西軍の内応者にも多数の文書を出してそれが功を奏している。
関ヶ原の前哨戦から掃討戦に至る家康の采配は、非常に緻密であり無駄がない。
西軍の大将・毛利輝元相手に戦わずして大坂城を開城せしめたのも、どういう手順を踏めばうまくことが運ぶかが良く練られた上で行動していることが見て取れる。

【戸田氏鉄】
徳川家康に仕えた戸田氏鉄(うじかね)が著した『戸田左門覚書』には、家康が大阪城に入った状況についてこう表現されている。
「大坂に於いて西の丸に御座なされ候。その節天下の大名、内府*公へ出仕すること、あたかも太閤の如し。」
*内府:徳川家康のこと
しかしながらよくよく考えると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとはいえ、表向きの天下人は豊臣秀頼であり徳川家康はその大老という立場である。もし西軍の主将・毛利輝元が、秀頼を擁して大坂城に居座り続けるという選択肢もあったと思うのだが輝元は無抵抗で大坂城を開城し、輝元が抜けたあとに家康が西の丸に入ったことで、大坂城に於いて家康は、太閤秀吉のような存在になったのである。

【大坂城】
冒頭で、毛利輝元が家康に誓約書を出して西の丸を退いたことを書いたのだが、どういう経緯があって輝元は無抵抗で大阪城を退いたのだろうか。
輝元は、家康に毛利家の領地安堵の意向があることを保障する本多忠勝と井伊直政の誓紙を得たので、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切って、無条件で大坂城を出たのであるが、その後家康は、輝元の所領安堵の約束をいきなり反故にして、毛利氏を改易し、領地を総て没収とすると通告し、一方で毛利家の家臣で関ヶ原では東軍に内応していた吉川広家に対しては、毛利の領地の一部である周防・長門の2ヶ国を与えると沙汰したのである。
徳富蘇峰は同上書で、こう解説している。
「…平たく言えば、家康は立派に毛利を欺いた。かかる場合に欺いた家康が不徳であるか、欺かれた毛利が不明であるか。いずれにしても毛利は、家康から一杯食わされた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/276
この話は、吉川広家が家康に対して自分自身に加増予定の周防・長門を毛利輝元に与えるよう嘆願し、家康がそれを受けいれて10月10日に決着したのだが、そのために毛利領は現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県(36万石)と一気に7割もカットされてしまったのである。

【関ヶ原陣形図】
関ヶ原本戦では、毛利輝元は西軍の総大将でありながら大坂城に止まり、毛利秀元(輝元の養子)、安国寺恵瓊、吉川広家の3名が関ヶ原に向かって南宮山に陣を構えたのだが、東軍と密かに内通していた吉川広家が、秀元、恵瓊の出陣を阻害したために、毛利家は戦わずして関ヶ原を去ったのである。にもかかわらず徳川家康は、毛利家の所領を大幅に減封し、安国寺恵瓊を死罪としたのである。
Wikipediaに関ヶ原の戦後処理の詳細がまとめられているが、小早川秀秋らとともに西軍から東軍に寝返った赤座吉家(越前今庄)、小川祐忠(伊予今治)が改易されているのをみると、戦況を見てから東軍についたような者には結構厳しい処分を断行しているようだ。
また大坂城にいて何もしていなかった豊臣秀頼についても、豊臣氏の直轄地である蔵入地の多くが没収され、領地が222万石から65万石に減らされているのだが、豊臣秀頼は天下人であったにもかかわらず、大老の徳川家康によってかなりの領土を奪い取られたことを知るべきである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86
毛利氏の徳川氏との交渉は、まるでどこかの国の外交のように性善説で臨んで円く収めようとしたのだが、結局のところ家康から好きなだけ毟り取られて終わってしまったのである。しかし、九州の島津氏は、家康に対してもっとまともな交渉をしているので紹介したい。

【島津義弘】
関ヶ原本戦の最後に東軍に包囲され、敵中突破を敢行して敗走した島津義弘は、伊賀路を経て9月18日に住吉に至り、22日に堺より乗船して29日に日向細島に到着し、10月2日に富隈にて兄・義久に関ヶ原の顛末を報告した後は、桜島で自ら謹慎したという。
当主である兄の島津義久は、関ヶ原に参加はしなかったが、西軍・小西行長の留守居よりの救援の要請を受けて肥後に兵を出し、また九州における関ヶ原掃討戦において西軍方を支援した経緯にあった。

【徳川家康】
家康は立花宗茂を降伏させたのち、九州の全大名に島津義久討伐を命じ肥後水俣に進軍させ、一方、島津義久は兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めている。
ところが家康は、冬季を口実に、翌年まで軍事行動を中止させている。それはなぜなのか。
徳富蘇峰はこう解説している。
「家康は島津氏の武力を認識していた。…今や島津氏は、自ら死地に陥りたるを悟り、薩隅の二州に、虎の嵎を負う如く、その必死必生の勢力を以て、その討伐軍を迎えんとす。是れ決して尋常一様の敵ではない。家康にして力取せんとするは決して容易の業ではない。強いて之を行なわんとせば、多大の犠牲を払わねばならぬ。家康が中止を命じたのは、洵(まこと)に知慮ある仕業と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/296

【島津義久】
家康は、島津義久の態度を見ながら懐柔しようとしたのだが、島津義久も駈引きでは負けていなかった。百姓に課役を与えて方々で築城を開始して、いざという時は全力で戦う姿勢を示したのである。家康は何度か義久に謝罪に来させようとしたのだが、義久は決して動かず、慶長6年(1601)年8月7日には一種の戒厳令とも言える15か条の『御先代軍法掟の事』を布令している。
最初の3か条を紹介すると、
「一 諸士何遍申付けの儀、相応の儀においては、難渋致すべからず。もし異儀及ぶものは、その沙汰すべきこと
一 武具油断なく調うべきこと
一 出陣の時、二十五石取の衆は、自分で賄うべきこと…」
最初の条は、(生活に)難渋した場合はいつでも申し出でよと言うことを裏から述べたものと解釈されているようだ。金で敵方に内応するようなことが無いようにと配慮したのだろう。
このように島津義久が闘う意志を示し、「自分の国は命懸けで守る」という姿勢を貫いたことが、家康の態度をどう変化させたのか。徳富蘇峰は前掲書でこう解説している。
「島津氏の家康に対する、我より進んで降参を求めず、却って家康をして、妥協を促がさしむるに至った。言わば、家康の秀吉に対する態度を、そのまま家康に向かって応用した。これは島津氏の深謀遠慮のためか。はた辺鄙の地にありて上国の形勢に通ぜず、徒に疑倶を懐きて、躊躇したるためか。それはいずれにしても、島津氏は、毛利氏の如く、容易に家康の命令通りに、唯命是従的には動かなかった。彼は徳川氏に向かって叩頭した。しかもその叩頭振りは、島津氏の自発的にして、決して徳川氏の注文通りには参らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/301

【島津忠恒】
島津義久は、家康からの直接の本領安堵の確約がない限りは上洛に応じられないとして粘り続けたことから、とうとう家康が折れるかたちで慶長7年(1602)3月に直筆で起請文を書き、薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定され、その後義久の名代として甥の島津忠恒*が12月に上洛して謝罪と本領安堵のお礼を家康に伝えて、島津氏も徳川氏の統制下に入ったのである。
*島津忠恒:島津義弘(島津義久の弟)の三男。のち島津家久に改名。
島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し、終始西軍として戦ったにもかかわらず、関ヶ原以前の状態を存続した。西軍に加担しながら本領安堵された武将は他にもいるが、東軍に内応し寝返った連中などそれなりの理由がある者ばかりである。
関ヶ原の戦いの敗者でありながら、徳川家康から本領安堵を勝ち取った島津家の交渉力のすごさを知るべきである。
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