わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html
そもそも、宗教の自由だとか、信教の権利だとかいう考え方はこの時代のわが国には存在しなかった。
当たり前のことなのだが、わが国においてキリスト教を布教するということは、人々に神仏への信仰を棄てさせなければ始まらないのだが、それは容易なことではなかったことはザビエルの文章を読めばわかる。

【フランシスコ・ザビエル像】
岩波文庫の『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』に、ザビエルがわが国で布教活動した頃のさまざまな記録が残されているが、キリスト教においては亡くなった異教徒の霊は地獄に堕ちて救われないとザビエルが説くと、多くの日本人が嘆き悲しんだという。(同上書p.119-120)
キリスト教に入信するためには祖先との関係を一旦リセットしなければならないために、祖先を大切にする日本人にとっては、神仏への信仰を棄てさせることのハードルはかなり高かったようなのだ。
にもかかわらず、一部の地域でキリスト教が拡がっていったのだが、どのようにしてこの宗教が広まっていったのだろうか。
わが国の戦国大名で、最も早くキリスト教の信者となったのは肥前大村の領主・大村純忠で、洗礼を受けたのは永禄6年(1563)というから、ザビエルが来日してから14年も経過してからのことである。
今回は大村純忠がキリスト教に入信し、領国でのキリスト教がどのようにして布教されたかを記す事としたい。

【戦国時代の九州地図】http://tugami555syou.blog94.fc2.com/blog-entry-384.html
大村純忠は肥前有馬氏の当主・有馬晴純の次男で、天文7年(1538)に大村純前の養子に迎えられ、天文19年(1550)に大村家の家督を継いだのだが、実は大村純前には実子・又八郎がいたのである。又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤家に養子に出されて後藤貴明と名乗ることとなったのだが、自分を追い出して大村家の家督を継いだ純忠に対して、終生敵意を持ちつづけ、また大村家の家臣の中にも後藤貴明に心を寄せる者が少なからずいたという。
普通に考えれば、周囲に敵が多い中で神仏を棄ててキリスト教を信仰することは領民の支持を余計に失うことになりかねない。
日本キリスト教史研究の先駆者・山本秀煌(ひでてる)氏が大正15年に著した『西教史談』には、こう記されている。

「しかるに、かかる困難な境遇にありながら、かりにも新宗教を奉ぜんか、領内の民心を失うは勿論、この機会を利用して如何なる謀計をなす者があるかもわからない。少なくとも、平常純忠に帰服しておらなかった輩に、有力なる反抗の口実を与えることは勿論である。故にかかる困難なる事情の下にある者は、たといキリスト教を信ずるの信仰があったとしても、之を心中に秘して世に公にしないのが賢明な態度である。大友宗麟をはじめ、その他の大名が信仰を告白するのを久しく躊躇しておったのはこれがためである。しかるに純忠は、単に宣教師の意を迎えんために、心にもなき信仰を殊更に標榜して洗礼を受けるが如きことを敢えてなしたとするならば、そは好んで身を難境の中に投ずる者であって、愚の極みと言わなければならない。故に純忠が洗礼を受けたのは、心中深くキリスト教に帰依し、その信念牢固として抜くべからざるものがあったのは知るべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/41
山本秀煌氏は大村純忠が純粋にキリスト教を信奉したことを強調しておられるのだが、当時の記録を読むと、別の意図が見え隠れする。
純忠は永禄5年(1562)に自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)をイエズス会に提供しているのだが、この時に結んだ約定が、同じ山本秀煌氏が大正14年に著した『日本基督教史. 上巻』に引用されている。

「一 キリスト教の寺院を創設し、宣教師を十分に給養し、ポルトガル人のために横瀬浦の一港及びその周囲二里四方の地を開き、諸税を免じ、またキリシタン僧侶の許諾なき異教者は一人も港内に住するを得ざらむべし。
一 ポルトガル人等港内に在住するものへは何人に論なく、諸税を免除し、自今十ヶ年間ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/88
大村純忠がこのような破格の条件を提示した経緯を調べると、その前年である永禄4年(1561)に平戸においてポルトガル商人と日本人との間で暴動事件が起こり(宮ノ前事件)、領主の松浦隆信は日本人への処罰を行なわなかったことから、日本教区長のコスメ・デ・トーレスは、平戸での貿易を拒絶することに決めている。その直後に大村純忠がイエズス会に接近しているのである。
大村純忠の提案を受け、当時隣国の平戸港に集まっていたポルトガル商人たちは、翌永禄5年(1562)に横瀬浦を新貿易港として対日貿易を再開し、商人たちが平戸から次々と移住したことにより横瀬浦は繁栄し、肥前大村は財政的に大いに潤ったという。

そしてその翌年の永禄6年(1563)に純忠は洗礼を受けることを決心し、重臣二十五名とともにコスメ・デ・トーレス神父のもとを訪れている。
イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見したルイス・フロイスが著した『日本史』に大村純忠が洗礼を受けた経緯が記述されているが、これを読めば、純忠はキリスト教徒となるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを神父から求められていたことが分かる。純忠が、自分の思いを神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いがトーレス神父に報告する場面を引用させていただく。
「大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.279)

有馬義貞は13年後の天正3年(1576)年に洗礼を受けてキリスト教徒となっているが、当時は仏教徒であった。弟の大村純忠は、仏教を信奉する兄がいるので、神社仏閣の全てを焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の援助しないことを代わりに司祭に約したのである。援助をしないのであれば、寺も神社はいずれ廃れていくことになる。
この報告を受けて司祭は純忠にこう答えたという。
「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同上書p.279)
この文脈では、司祭が述べた「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、神社仏閣のできる限りを破壊したり、一切支援せずに荒廃させることと解釈するしかないだろう。
大村純忠が洗礼を受けた日に、実兄の有馬義直が龍造寺隆信と開戦したとの報が入ったという。その直後の純忠の行動が『西教史談』にこう記されている。

「翌日出陣の際兵士を率い、軍神摩利支天の社殿に参詣した。兵士は思った。これはいつもの慣例と同じく戦勝をここに祈禱するのであろうと。然るに何ぞはからん。それは軍神を尊敬するにはあらで侮蔑するためであった。即ち純忠は命じて摩利支天の神像を拝殿より引き出さしめ、剣をもってその首を斬り、惨々に打ちたたいてその面部をめちゃめちゃに破毀してしまった。曰く、
『嗚呼、汝軍神よ、汝我を欺くこと幾許なりしぞや、汝は実に偽神なり。我れ汝の偽りに報いること此の如し』と。
よって直ちに火を放ってこの社殿を焼き、その跡に美麗なる十字架を建て、跪いてこれに向かい、恭しく三拝したので、軍兵皆その例にならい、謹んで十字架を拝した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/44
そして純忠はこの戦いに勝ち、この勝利はキリスト教を信奉したことのお蔭であることを確信したことから、ますます排仏施策を推進していくことになる。
ルイス・フロイスは同上書でこう記している。
「(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名とかたるときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。」(同上書 p.281-282)
大村純忠は、このように戦の最中に何名かを派遣して仏像等を焼却させるようなことを繰り返しただけでなく、領内の仏教の禁止を宣言し、天正2年(1575)正月には仏教僧らを引見し、
「予は諸君らが速やかに仏教より転じてキリスト教に帰依さられんことを願う。もしキリスト教に転ずることを肯んじられないならば、一定の時期を画して、我が領内より退去せらるることを願う」
と述べて棄教をせまったという。

【大村純忠像】
山本秀煌氏は大村純忠による仏像等の破壊行為を「排仏毀釈」と表現して、こう纏めておられる。
「かくて仏寺は変じて切支丹寺となり、伝道隊は組織せられて、町々村々に布教せられ、新たに四十個の切支丹寺院は建設せられ、五万人(或いは三万五千人ともいう)の新たなる信者は加えられた。かくの如くにして大村領内には一人の仏教僧徒もなきに至った。まことに偉大なる功績と称すべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/49
キリスト教信者である山本氏にとっては「偉大なる功績」なのであろうが、キリスト教を信奉しない普通の人々にとっては「徹底的な文化破壊」以外の何物でもない。
このブログで何度か紹介してきたのだが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊せよと教唆していたことをイエズス会のルイス・フロイスが具体的に記録している。
フロイスの『日本史』を読み進むと、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に、松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、両軍がミサのために休戦したという信じられない記録がある。そしてその翌年に三好三人衆の軍隊の中にいたキリシタンの武将が東大寺に火を点けたことが記されている。
当時は九州や畿内で多くの寺社が焼かれたのだが、キリスト教の宣教師からすれば、戦国時代で争っている両軍の兵士に教唆すれば、寺社を焼いたり破壊したりすることは容易であったろう。この時代には、それほど多くのキリシタンの武将が、敵方にも味方にも存在したのである。
織田信長が命じたとされる元亀2年(1571)の叡山の焼き討ちも、軍事的に意味のないような多くの寺が焼かれているようなのだが、すべてが宣教師の教唆と無関係に行われたばかりなのだろうか。

フロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。
「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359
文中の「殿下」は伴天連追放令を出した秀吉のことだが、これを大村純忠に置き換えても同じことである。
領主がキリスト教の布教を許したということは、その領地内で、キリスト教にとって異教である仏教の寺や仏像・神社のすべてを破壊することも同時に許したことになると、当時わが国にいたイエズス会のトップがそう考えていた事を知るべきである。
多神教を奉ずる日本人には、こういう考え方は理解しがたいところなのだが、一神教であるキリスト教では異教はすべて根絶すべきものと考え、その破壊を実行することは正しいことであると、単純に考えてしまうところにその怖さがある。そのことは他の一神教においても同様のことだが、このような考え方では、理論的には異教を根絶する日が来るまで徹底して破壊し戦い続けなければならないということになってしまう。
そして一神教を奉ずる国々では、今も世界の各地で、同様な争いが続いているのである。
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【ご参考】
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【電子書籍版】
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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