レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
たまたまこの時代はわが国に優良な武器が大量に存在し、またわが国の為政者がキリスト教の宣教師が侵略の手先であることを看破して布教を警戒したので、この時代にわが国はインドやフィリピンのように植民地にならずに済み、それから長い期間にわたりわが国に平和な時代が続くのだが、その間に世界の情勢が大きく変わってスペイン、ポルトガル、オランダが凋落し、代わってイギリス、フランス、ロシアが海外に版図を拡げていくことになる。
鎖国以降のわが国に、最初に接近してきたのはロシアなのだが、高校の標準的な教科書にはロシアの接近についてどう書かれていたかを確認したくなった。
山川の教科書にはこのように記されている。
「ロシアは東方への進出に力を入れ、18世紀初めころにはシベリアをへて日本の近海にあらわれ、オットセイなどの毛皮をとるようになった。ラクスマン来航のあと、1804(文化元)にはレザノフが長崎に来航して日本との通商をもとめた。このロシアの接近におどろいた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検をおこない、蝦夷地を幕府の直轄地にして、北方の警備をきびしくした。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.192~193)
この文章を普通に読めば、ロシアは交易のためにわが国に接近したのであって、わが国を侵略する意思はなかったかのような印象を受けるのだが、ではなぜ江戸幕府はロシアの接近を警戒したのだろうか。
まず、鎖国以降のわが国とロシアの関係について、Wikipedia等を参考にレザノフ来航までの歴史を簡単に振り返っておこう。

【ピョートル1世】
元禄6年(1696)頃に、大阪出身の商人であった伝兵衛という人物が、江戸に向かう航海の途上で嵐に遭い、カムチャッカ半島に漂着して現地民に捕えられた。この男が翌1697年にロシア人ウラジーミル・アトラソフの探検隊に発見され、その後モスクワに連れて行かれて初代のロシア皇帝・ピョートル1世(在位:1682-1725)に謁見したという。国王は日本という国に大いに関心を持ち、サンクトペテルブルクに日本語学習所を設置して、伝兵衛をその教師としたのだそうだ。下の画像はWikipediaに紹介されている伝兵衛の署名入りの文書である。

1706年にはロシアがカムチャッカ半島を占領し、毛皮などを獲るために千島列島に出没するようになり、1711年にはイワン・コジレフスキーが国後島に上陸している。
1739年にはヴィトウス・ベーリングが派遣したマルティン・シュパンベルク隊が仙台や安房国沖、伊豆下田に接近した旨の記録が残されている。わが国は当初、これ等の船がどこの国のものか判らず、現地住民が船員から入手した銀貨・紙札を長崎出島のオランダ商館に紹介して、ようやくロシアの船であることが判明したという。

【エカチェリーナ2世】
エカチェリーナ2世の治世(在位:1762-1796)となって、1764年に東方のイルクーツクに日本航海学校が、1768年に日本語学校が設置され、日本近海への航海が増加する。
1771年に阿波国徳島藩の日和佐にロシア船が漂着したが徳島藩は上陸を許さず、水と食糧と燃料を与えて追い返した事件があった。この船に乗っていたモーリッ・ベニョフスキーという人物は犯罪者で、脱獄して帆船を奪って「聖ピョートル号」と名付けて日本に向かったのだが、彼を追い返した徳島藩に、高地ドイツ語で書かれたオランダ商館長宛の手紙を手渡したという。オランダ商館長がその手紙を解読したところ、そこにはロシア帝国が松前藩近辺(北海道)を占領するためにクリル諸島(千島列島)に要塞を築いているという出鱈目が書かれていたそうだが、この手紙がきっかけとなってわが国がロシアを警戒するようになったのだという。
また1778年にはロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商を求めたが翌1779年に松前藩はそれを拒否した記録がある。
それから2年後の安永10年(1781)、仙台藩の藩医工藤平助はロシア研究書である『赤蝦夷風説考』を著述し、また林子平は寛政3年(1791)に『海国兵談』を上梓して、ロシアの南下政策に危機感を懐き海防の充実を唱えたが、いずれの書物も1771年にベニョフスキーがオランダ商館長に宛てた手紙に刺激されて書かれたようである。
続いて寛政4年(1792)には、日本人漂流者でロシアに保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のため、アダム・ラクスマンの使節が根室に来航したが、老中松平定信は長崎のオランダ商館と交渉することを求めたため、ラクスマンは長崎に行かずに帰途についている。

【ロシア領アメリカ】
一方江戸幕府は、寛政11年(1799)に松前藩にかわって幕府が東蝦夷地の直轄統治を開始し、最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地探検を行わせているのだが、その年にロシアはアラスカをロシア領アメリカとして領有を宣言している。
ロシアがアラスカを領有すると、その領土維持の為に人の送り込みと、さらには食糧が必要となってくる。ロシアとしては極東に親密な貿易国を持つことを希求していたことから、わが国への開国要求はますます熱を帯びてくる。

【ニコライ・レザノフ】
1804年9月にニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い国書を携えて長崎に来航している。ラクスマンの時は半ば非公式的な使節であったが、レザノフはロシアの全権使節として乗り込んできたのである。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25 幕府分解接近時代』に、レザノフが携えてきた国書の訳文が掲載されている。ポイントとなる部分はこの一節である。
「…朕の商人が、貴国に出入するを許容せらるるのみならず、貴国の隣邦たるクリル諸島*、アレウト諸島*、カヂアク諸島*の住民にも、長崎一港に止まらず、また一艘の船舶のみならず、陛下の意志により、数多の船舶をして、他の諸港にも出入するを得るに至らしめんとするに在り。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/96
*クリル諸島=千島列島、アレウト諸島=アリューシャン列島、カヂアク諸島=アラスカ海岸にあるコディアク島を中心とする列島

船には将軍や重臣への豪華な贈物33品が積み込まれ相当気合が入っていたのだが、日本側はそれを受け取らず、レザノフたちは半年間も監視されたまま出島に留め置かれることとなる。
翌年の3月にようやく幕吏との会見が持たれたのだが、ロシア側の記録によると江戸幕府からの回答は以下のようなものであった。
「日本の政治家は、かつてラクスマンに教示したとおり、ロシア人とはなんらの交渉をも開始すべからざるにより、ロシア使節の到来を、はなはだ訝しく思うこと。…日本君主はロシア使節を接受するあたわざること。また日本は通商をこいねがわず、これを以て、ロシア使節の、日本退去せんことを請求すべきこと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/122
散々待たされたあげくにこのような拒否回答を得て、レザノフが憤慨したことは言うまでもない。レザノフはこのように書いている。
「通詞はかかる拒絶あらんとは、待ち設けて居なかったから、この宣告を聞くや、(使節拒否)全身凝りて石の如く、辛うじてこれを通訳した。予もまた顔色全く変じ、知らず知らずのあいだ、自らかかる侮辱は、ただ驚くより外はない。…我が君主から求むるところは、日本人が博愛的精神よりして、ロシア人の不便を救わんとする好意に外ならぬ。しかるに彼等日本人は、ロシア人と見る、ポルトガル人と擇(えら)ぶなきかと。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/123
レザノフが施設の目的を達することが出来なかった点につき、ロシアでは様々な論評がなされたようだ。レザノフの交渉を問題視する説のなかに、レザノフがオランダ商館の支配人ズーフに対して警戒を怠ったとする説があるという。わが国に接近する際に、ロシアはオランダ商館に協力を要請していたのだが、実はオランダは表向きにはレザノフの為に周旋しつつ、裏にまわってロシアのわが国との交渉を失敗に導かせようとしたのではないかというの説なのだが、オランダからすれば日本との貿易を独占できることの方が国益に資するのであり、充分あり得る話である。
しばらくしてレザノフの部下の中から、武力で日本を開国させようと考える者が出てきた。徳富蘇峰の前掲書にはこのよう記されている。
「…彼の船長クルゼンステルンは、後年その著『奉使日本紀行』中に、樺太侵略について、左の如く意見を陳べている。
『アニワ*を取りて、これに拠らんとは、少しも難事ではない。此処の兵器の用意もなければ、防守の備えもないようだ。またここを他に奪われたとて、日本の為政者は、容易に之を取り返すことは出来ないであろう。そは彼らは、其の必勝の算が立ちかぬるからだ。もし戦端を啓いて、勝利を得ざれば、その国の威光を損し、その国民に危惧の念を生ぜしめ、国内の騒動を惹き起こす虞(おそ)れあれば、為政者はこれがために、全く蝦夷を失うよりも、大なる危険を冒さねばならぬ。
もしまたこれを取返さんとて、大軍を起こすも、軍艦なく、大砲なく、海軍の備えも全くなきことであれば、いかに防備の法なきアイヌにても、之を拒めば一寸の地でも彼は取り得べきではない。いわんやもし、16門の砲を備えたるコッテルズ2艘に、兵卒60人を載せ、風に乗じてこれを伐たしめば、日本大船に一万の兵を乗せ来たるも打ち崩すべしだ。」
*アニワ:サハリン(樺太)南部のアニワ湾に面した町。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/143

少なくともレザノフ一行が日本に来るまでは、ロシアは樺太を侵略する意志を表に出す事はなかったのだが、航海の途上で我が国の守りの脆弱さを確認して、充分に占領できることを認識したようだ。そして、その後のロシアは、わが国の各地で乱暴狼藉を働いていることを知るべきである。
文化3年(1806)にレザノフの部下ニコライ・フヴォストフが樺太の東浦にあるオフィトマリヤに到来し、小児を掠め去ったのちクシュンコタンの波止場で会所番人4人を捕え、倉庫の穀物を奪い、会所そのほか悉く焼き払ったことがわが国の記録に残されているようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/144
また翌文化4年(1807)にはこんな記録もある。異賊とあるのはロシア人のことである。
「…異賊またエトロフ島シャナに上陸して会所に鉄砲を打ちかけ乱暴に及ぶ。よて箱館奉行支配の士、および南部、津軽両氏の人数防戦し、異人を撃取るといえども、防ぎ難くして、同島のルベツの方に逃れ、遂に箱館に退く。かれ5月1日より2日に及び、米酒等を奪い、本船に積み入れ、処々放火して、同3日出帆す。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228542/146
幕府は北方警備の重要性を悟り、西蝦夷地も幕府の直轄領とし、さらに奥羽四藩に北海道の沿岸警備を命じている。
津軽藩士たちは北海道の北端の宗谷に向かい、その内の100名が知床半島の付け根にある斜里に向かったのだが、周辺の山林からトドマツを伐採して建てた急造の施設に本格的な冬が到来し、北からの季節風をまともに浴びて隙間風に悩まされ、海は流氷に閉ざされて新鮮な魚も野菜も口にすることが出来ず、寒さと栄養不足から大量の病死者を出したという。

斎藤文吉という下級武士が書き残した『松前詰合日記』が昭和29年(1954)に偶然発見され、津軽藩士の悲劇が知られるようになったようだが、藩士の大量死は津軽藩の「恥部」として厳重な緘口令が布かれ、藩の公式記録にも載せられなかったのだそうだ。
この『松前詰合日記』については次のURLで一部を解説付きで読むことが出来るのはありがたい。
http://island.geocities.jp/pghpnit1/saitohbunkichi.html

北海道の斜里の地に昭和48年(1973)には72名の津軽藩士殉難慰霊の碑が建立され、毎年7月下旬にこの碑の前で慰霊祭が毎年行われているのだという。
レザノフが来航してから50年後にペリーが来てわが国は開港することになるのだが、もしわが国がこの時にロシアとの交易を開始したとしたら、おそらく不平等条約を押し付けられるようなことはなかったであろうし、幕府としてもロシアとの交易で財政が潤い、少なくとも江戸幕府にとっては結果的に悪い選択ではなかったと思われるのだが、ロシアの使節をさんざん待たせておきながら国是の「鎖国」にこだわって帰してしまった。
一度国是としたことを、世界情勢が変わって柔軟に考え方を見直すべき時代が到来しても、外圧がなければ変えられないことがわが国では今もよくある話だが、行き過ぎるとむしろ外圧を呼び込んで収拾がつかなくなってしまう危険性を孕んでいる。いつの時代においても、何事もあまり頑なになるのではなく、国内で議論を尽くして柔軟に対応できる国であって欲しいものである。
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
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なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか
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日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
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