間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した
この手紙がロシア側に届けば別の展開になっていたのだろうが、届かなかったので幕府はますますロシア船を厳戒せざるを得なくなっていく。とはいえ、幕府は蝦夷地を直轄領にしたばかりであり、樺太や千島列島の状況についても良く分かっておらず、そもそも樺太が島であるのか大陸と繋がっているのかを知る国は世界中でどこにもなかったのである。
そこで江戸幕府は近藤重蔵や間宮林蔵に千島や樺太を探索させるのだが、この件に関しては、一般的な教科書である『もういちど読む山川の日本史』では、こう記されている。

【レザノフ一行】
「1804(文化元)にはレザノフが長崎に来航して日本との通商をもとめた。このロシアの接近におどろいた幕府は、近藤重蔵や間宮林蔵を派遣して千島や樺太の探検をおこない、蝦夷地を幕府の直轄領にして、北方の警備を厳しくした。」(p.193)
この文章を普通に読むと、江戸幕府がレザノフの来航に脅威を覚えたような印象を受けるのだが、幕府が間宮林蔵らに蝦夷地の探検を命じたのは、レザノフがわが国から交渉を拒絶されて帰国した1805年から3年も後の話である。

【ラクスマン一行】
レザノフの使節のみならず、1789年に来航したラクスマンも、ロシアに漂流してきた日本人漂流民を引き渡した上で通商を求めてきたのだが、いずれの使節もわが国に対しては、決して威圧的なものではなかったのである。
江戸幕府がロシアという国に脅威を覚え、海防の重要性を認識したのは、わが国を武力で開国させようとしたフヴォストフが樺太や択捉島など北方における日本側の拠点を攻撃した文化露寇(1806~1807)以降のことであり、幕府が蝦夷地の探検を命じたのはその翌年の文化5年(1808)であることを知るべきである。

【間宮林蔵】
そして、この文化露寇に択捉島で間宮林蔵自身が巻き込まれている。Wikipediaにはこう記されている。
「…寛政11年(1799)、国後場所(当時の範囲は国後島、択捉島、得撫島)に派遣され、同地に来ていた伊能忠敬に測量技術を学び享和3年(1803年)、西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島までの地図を作製した。
文化4年4月25日(1807年6月1日)、択捉場所(寛政12年(1800年)クナシリ場所から分立。択捉島)の紗那会所元に勤務していた際、幕府から通商の要求を断られたニコライ・レザノフが復讐のため部下のニコライ・フヴォストフたちに行わせた同島襲撃(文化露寇)に巻き込まれた。この際、林蔵は徹底抗戦を主張するが受け入れられず、撤退。後に他の幕吏らが撤退の責任を追及され処罰される中、林蔵は抗戦を主張したことが認められて不問に付された。
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索することとなり、樺太南端のシラヌシ(本斗郡好仁村白主)でアイヌの従者を雇い、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5
文化4年(1807)フヴォストフによる択捉島シャナ襲撃では、4月23日にロシア兵によって米塩什器衣服を略奪され、南部藩の番屋に火を放たれ、5名が拉致され、さらに4月29日には幕府方は対話の機会を探るために白旗を振ったのだが、ロシア兵はそれを無視して幕府軍に銃撃を仕掛けたために、幕府軍は圧倒的な戦力差で戦意を失いシャナを捨てて撤退し、5月1日にもロシア兵が再び上陸し、倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風その他を略奪した後放火して去っていったという。
その後で間宮林蔵は樺太踏査を命じられたのだが、この危険な仕事を受けたことを喜んだという。津軽藩士山崎半蔵の日記に、林蔵についてこう記されているのだそうだ。
「エトロフでの戦い*で死ななかった事を悔やみ夜も眠れない日々を送っていたが、樺太調査を命じられ死に場所を得たようである」
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/rinzo02.htm
*エトロフでの戦い:文化4年(1807)フヴォストフによる択捉島シャナ襲撃

茨木市のつくばみらい市上柳にある専称寺という寺に、林蔵が蝦夷地探査に先立って決死の覚悟を持って建てたとされる墓があるという。「間宮林蔵墓」と記された文字は林蔵の自筆であると伝わっていて、この墓石は昭和30年に茨城県文化財に指定されたのだそうだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~XC8M-MMY/psetumei.htm
間宮林蔵は2度にわたり樺太を探検して、樺太が島であることを確認したのだが、風波を凌ぎ、寒さと戦いながら、小さな船に乗って命懸けで未開地を進んでわが国に貴重な情報をもたらしたことは、もっと顕彰されてしかるべきではないかと思う。
戦前は『尋常小學國語讀本. 卷12』でかなり詳しく間宮林蔵のことが記されており、全国民が学校でこの人物の事績を学んでいたのだが、今では樺太を探検した人物として名前が知られている程度に過ぎない。『尋常小學國語讀本』は『近代デジタルライブラリー』で誰でもネットで読むことが出来るので、興味のある方は覗いて頂きたいと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874198/43
間宮林蔵は1回目の樺太探検ではノテトで松田伝十郎と合流後北樺太に向かい、西岸のラッカという地に「大日本国国境」の標柱を建てて文化6年(1809)6月に宗谷に帰着したのだが、報告書を提出したのち更に奥地の探索を願い出てこれが許されると、単身で樺太に向かっている。
この2度目の樺太探検について記された間宮林蔵の『東韃(とうたつ)紀行』も『近代デジタルライブラリー』で読むことが出来るのだが、これが非常に面白い。
原文 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991473/13
抄訳 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/15

【北夷分界余話】
この最初の部分はこう書かれている。
「文化5年、間宮林蔵一人、カラフト奥地探検の命を受け、その年の7月13日、蝦夷ソウヤを土人の船に乗って出帆し、その日シラヌシに到着した。
このシラヌシには、土人が多く住んでいないので、従者として連れて行こうと思うものを雇うことができなかった。余儀なくそこから奥地に行くアイヌ船を待つため3日間同地に滞在し、7月17日、その船に乗ってそこを出帆し、5日間航海して、7月23日にトンナイというところに到着した。」

【北夷分界余話】
間宮林蔵は、西洋列強のように巨大な船に大量の食糧と武器を積んで探検したのではなく、原住民と交流しながら原住民の小舟を乗り継いで前人未到の地を進んでいったのである。
トンナイは戦前には真岡(まおか)と呼んだ地で、以前このブログで太平洋戦争の終戦直前にソ連が対日参戦し8月15日の玉音放送の後も樺太でソ連軍の侵攻が続き、8月20日にソ連軍が真岡に上陸したことを書いた。郵便局で勤務していた女性電話交換手12名の内10名が局内で自決した事件がこの地で起きた(真岡郵便局事件)のだが、この事件のあった場所が「トンナイ」である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

【北夷分界余話】
林蔵は9月に北樺太の境界を越えたのだが、樺太の地は9月(旧暦)でもすでに寒かったようだ。寒さがつのり食糧も乏しくなってきたので、結局トンナイまで引き返して年を越している。
そして翌文化6年(1809)1月29日に再び北に向かって出発し、4月9日には第1回目の樺太探検で訪れたノテトに着き、更に進んで5月12日には、樺太の北端近いナニヲーに達している。
『東韃紀行』にはこう記されている。
「ノテト崎からこのナニヲに至る間は、カラフトと東韃大陸とが向かい合った狭い水路で、海水は悉く南に流れ、その間には潮の頗る速いところもあったけれども、折よく波も高からず小さな木船ではあったが、進退にはさほど難儀はしなかった。しかしそれから北方の海面は渺茫として果てしなく広がり、潮も悉く北方へ流れ、加うるに怒涛逆巻くという有様なので、とてもこのような粗末な船では進むことはできなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/18
この光景を見て林蔵は樺太が島であることを確信し、そしてなおも北進して樺太の北端を目指そうとしたが、ここから北は波が荒れてどうしても小さい木船では進むことが出来ず、あきらめてノテトに引き返している。
林蔵はノテトの酋長コーニーの家に滞在して、その家の稼業の手伝いをしながら、原住民からも親しまれるようになった。彼らに、カラフトの地理やロシアとの国境などについて尋ねると、彼らは一様にカラフトが島であり大陸には繋がっていないと答えたという。それを確認するには、海峡を渡るのが手っ取り早いとのアドバイスを受けている。
官命なしにみだりに異国の地に渡ることは国禁を犯すことになりかねないのだが、林蔵の使命はカラフトに関する全ての調査であり、海峡を渡って確認をしなければ不十分な調査で終ってしまうと考え、ノテトの人々が大陸に向かう際に同行させてもらうことを決意したのである。

【北夷分界余話】
6月26日に長さおよそ五尋*、幅四尺ばかりの山旦船一艘に乗組んでノテト崎を出発し、対岸の大陸に渡り、黒竜江のキチ湖に出て、ここで一夜泊まった時に林蔵は夷人の家へ連れ込まれてとんでもない目に遭っている。
尋(ひろ): 1尋は6尺(約1.8m)。長さ五尋は約9m、幅四尺は約1.2m。
『東韃紀行』にはこう記されている。
「…こうして家の中に連れて行かれた。家の中はもう真っ暗で様子も解らなかったが、なんでも毛氈のような物の上にしゃがませられた。すると多勢のものがまたどやどやとやって来て林蔵を抱くやら、頬ずりをするやら、唇をなめるものもあれば、着衣を引っ張る者もあり、懐中を探るものもあれば、手足をいぢくる者もあり、あるいは頭髪を握るもの、あるいは頭をポンポン叩くものもあり、散散に揶揄嘲弄されながらしばらく時を移した。そうこうするうちに酒肴など取出して、林蔵にしきりとそれを勧めるのであった。
その意味は携行した物資を貰おうという下心であったものらしい。この間、まるで夢のような心地でいたが、とかくするうちに、ラルノという同船のものがやって来て、土人どもを厳めしく叱り飛ばして林蔵を連れ出して河岸に行った。ラルノの話にこの地の土人がニシバ(林蔵)を殺そうとたくらんでいるところであったという。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/24

【北夷分界余話】
7月11日に林蔵はデレンの満州仮府へ着いている。この場所に清国の官人が夏期2ヶ月ほど出張して仮府を設け、黒龍江下流域はもとより、カラフトや沿海州方面から清への進貢にやってくる土着酋長より貢物として黒豹の皮を受け取り、これに賞賜の品が施される。また建物の中に交易所が設けられており、さまざまな人々が交易することが許されていたのだが、取引につきものの喧嘩があちこちで起こったさまが記されている。

【北夷分界余話】
林蔵が口述した『北夷分界余話』の挿絵には、デレン仮府の様子が何枚か描かれているが、喧嘩をしている絵などが活き活きと描かれていて実に面白いのである。

【北夷分界余話】
また林蔵は清の官吏とも筆談で話をしたことを記している。以下は林蔵が清の官吏のことを評している部分である。
「いったい彼らは中国以外は万国ことごとく『無政の夷』であると思い、すべて異邦人と蔑視しているものの如くで、林蔵が文章を書くのを見て、大いにこれを怪しみ、恐らくこの人は中国人であろうなどと言い、あるいは『ロシアは中国の属国』であるなどといってその境界を語らず、また『日本は中国に入貢の事があるか』など質問したりして、その驕傲なること言語に絶するものがあった。このような有様であるから各土人に対しては物の数とも思わぬいかにも尊大な態度を持していたのであった。
(註:他本には『中国の人なるべし』の下に、日本は中国に入貢のことがあるか否かを問うたに対し、林蔵は日本は支那と長崎あたりで通商貿易のことはあるが、入港のことなどないと答えた。すると彼らは『天地の間に中国に対して入貢せざる国はわずかに三国を余すのみ』などと言ったとある)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877865/35
一行がノテトに帰りついたのは8月8日で、林蔵はこの探検で樺太が島であることを身をもって知り、黒龍江沿岸や樺太の人々が清国の官吏に朝貢する実態を見てこの地にロシアの勢力が及んでいないことを確認し、9月に宗谷に戻って11月に松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。そして松前で探索の結果報告の作成に取り掛かり、『東韃紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、文化8年1月、江戸に赴いて地図と共に幕府に提出している。
林蔵の残した冒険の記録は、樺太や黒龍江周辺の人々の生活や文化がわかりやすく描かれて読んでいて引き込まれるのだが、西洋列強よりも早く樺太が島であることを実証したこの人物のことは、戦前のようにもっと広く今の日本人に知られるべきだと思う。
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【ご参考】
間宮林蔵が命がけで探索して制作した樺太の地図がのちにシーボルトにより持ち帰られ、現在オランダのライデン大学の図書館に保管されています。この貴重な樺太地図がどういう経緯でシーボルトの手に渡ったのかをこのブログで書きました。
押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html
シーボルトについてはこんな記事も書いています。良かったら覗いてみてください。
シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html
シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html
シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html
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