ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵
一方長崎では、文化5年(1808)8月にイギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港に入港し、出迎えのため船に向かったオランダ商館員2名を拉致すると、オランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げた事件が起きている。
翌日、フェートン号のペリュー艦長は人質1人を釈放して、薪、水、食料の提供を要求し、供給がない場合は、港内の船を焼き払うと脅迫してきたのだが、長崎奉行の松平康英は人質を取られていただけでなくフェートン号を追い払うだけの充分な兵力がなかったために、ペリュー艦長の要求に応じざるを得なかった。ただし水については少量の提供にとどめて明日以降充分な量を提供するとして応援兵力の到着を待つこととしたのだが、フェートン号は碇を上げて早々と長崎港外に去ってしまったという。
このフェートン号事件でわが国には人的・物的な被害はなかったとはいえ、江戸幕府の警戒体制の不備が明らかとなり、松平康英は国威を辱しめたとして自ら切腹し、本来配置すべき兵力を無断で大幅に減らしていた鍋島藩家老など数人も責任をとって切腹したという。
この事件を機に幕府の対外姿勢が硬化したことは言うまでもないが、その3年後の文化8年(1811)にはまたロシアの船がやってきた。

【ディアナ号】
軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニンは千島列島南部の測量任務を命じられていて、5月に択捉島の北端に上陸したのち国後島の南部に向かい、泊湾に入港すると補給を受けたい旨のメッセージを樽に入れて送って海岸で日本側の役人と面会することとなり、陣屋に赴くことを要請されてそこで松前奉行配下の役人に食事の接待を受けたのち、補給して良いかどうかは松前奉行の裁可が必要であり、それまで人質をここに残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛されてしまう。

【俄羅斯(おろしや)人生捕之図 先頭がゴロウニン】
ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴロウニンが戻ってこないことを心配し、救出のための遠征隊派遣を要請しようとペテルスブルグに向かったのだが、滞在先のイルクーツクで日本への遠征隊派遣が却下されたとの結論を聞き、リコルドは、通訳として文化露寇で捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門という人物を連れてオホーツクに戻っている。

文化9年(1812)の夏にリコルドは、他の漂流民を加えて国後島に向かいゴロウニンとの交換を求めたが、松前奉行の役人は漂流民は受け取ったが、ゴロウニンらは処刑されたと偽りを言って拒絶したという。
仲間達が生存していることを信じて疑わないリコルドは、さらなる情報を収集するために、たまたま択捉島から函館に向かう途中で泊に寄港しようとしていた官船・観世丸を拿捕したのだが、この船に乗っていた船主の高田屋嘉兵衛はゴロウニンが生きていることを知っていたのである。

【リコルド】
副艦長のリコルドの手記が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第25』に引用されているが、彼は嘉兵衛という人物をこう記している。
「この船長(高田屋嘉兵衛)なる者は、絹布の美服を着し帯剣をなし、一目して凡庸たらざるを知る。予ただちにこの者を艦長室に誘うたれば、彼は泰然として、毫も憂懼の態なく、日本風にて丁寧に敬礼をした。…
この時から日本人を襲撃し、復讐するの企てを一時停止し、天帝の賜たる高田屋嘉兵衛を率い、カムチャッカに至り、冬籠りをなし、彼よりゴロウニン等の現状を詳に聞質し、なお日本政府の露人に対する政策を聞かんと決定した。そもそもこの嘉兵衛は、これまで捕えたる愚昧卑野の蛮民ではなく、よく事理を弁えたる天晴(あっぱれ)の勇士だ。予嘉兵衛に、露国に汝を伴い往かんと言いたれば、彼は更に憂慮する色なく、勇気凛然として『よろし』予は差支えなし、同伴すべし。ただねがわくは露国に帰りたるのち、貴下予と相別るるなかれと言うた。予は誓いて然せじと答え、かつ明年に至らば、汝を送還せんと慰めた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920574/180
リコルドが高田屋嘉兵衛の乗る船を拿捕した1812年のロシアは、フランスのナポレオンが69万人の兵を率いてロシアを侵攻した戦争の真最中であった。ナポレオンは当時産業革命中のイギリスを封じ込めるために1806年に「大陸封鎖令」を同盟国に発令してイギリスとの通商を禁じ、フランスがヨーロッパの経済の中心となることを狙ったのだが、ロシアがその命令を守らないためにナポレオンのロシア戦役が始まったのである。
この時代に相次いでわが国の近海にロシアやイギリスの船が現われるようになったのは、ナポレオンの「大陸封鎖令」と無関係ではないのだが、その話をするとまた長くなるで、話題を高田屋嘉兵衛に戻そう。

嘉兵衛にはゴロウニン事件を解決するアイデアがあった。リコルドの『対日折衝記』によると、嘉兵衛は幕府への報告書を書き上げることに没頭していたという。その報告書の内容について、リコルドはこのように記している。
「…報告書で嘉兵衛が意図したのは、ロシア人についてかつて日本の誰からも示されたことのない、全く異なった説明を与えようとするものだった。…彼自身、憂国の情なく考えることのできなかった祖国の前途のために、両政府が関与していない、不測の事態より生じた事件に関する日露両政府の敵意を、平和的に解決することが必要であると明確に認識していた。嘉兵衛はこの敵意が埋められないままでいると、それは日本に致命的な損失を与えるであろうことを確信していた。…日本人は決して隣国の列強達と無益な争いをしようという意図はないこと、幾人かのわが同国人が犯した罪によって、ロシアが自分達に敵意を抱いているという考えを持つように至り、やむなく防衛のため武器を手に取った。他の列強同様、日本が隣国との間で情報をやり取りしていれば、このような誤った考えは簡単に改められたであろう。しかしながら、他国との交流は日本の法律が禁じるところであった。結果的にこれらの極悪な行為が、我が政府の命令であるかどうかを確かめることは不可能であった。日本全土にわたって戦争への準備が進められた。しかし日本人の目的は、単にロシア政府の釈明を得ることだけであったのだ。『私は信じます』嘉兵衛は言った。『もしイルクーツクの長官様から、フヴォストフの蛮行には全く政府が関与してない旨の証言があれば、皆さんのお仲間を解放するのに充分でしょう。』」(リコルド『対日折衝記』p.56)

文化10年(1813)に嘉兵衛の懇請によりディアナ号はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクを出航し国後島に向かった。嘉兵衛は泊に着くとリコルドが記した謝罪文を携えて国後陣屋に赴き、事の経緯を説明したという。
数日後嘉兵衛がロシア語の手紙を持ち帰った。リコルドはこう記している。
「私の喜びはどのようなものであったか。わが友嘉兵衛の手から手紙を引ったくって、ゴロウニンの筆跡を認めた。手紙の大きさから、それには彼の抑留中の出来事が説明されているのだと思ったが、手紙を広げるとただ次のように書かれているだけであった。
『士官も水夫も千島人アレクセイも、私たちは皆生きて松前にいる。』…
この喜ばしい数行によって、同胞の生存へのあらゆる疑いは解け去った。そして甲板で乗組員たちにこの文章を読み上げた。多くの者が敬愛する艦長の筆跡を覚えていたので、手紙に目を凝らし、高田屋嘉兵衛に感謝を捧げた。…」(同上書 p.71)
数日後に松前奉行の高橋重賢を載せた船が国後に到着し、ロシアとの交渉が始まった。奉行所はリコルドとの交渉相手として、双方の意思疎通が可能な高田屋嘉兵衛を指名したという。
また、その船にはゴロウニンと同様に幽囚の身となっていたディアナ号の水夫一人が乗っていた。その仲間が、日本人官吏の目を盗んでゴロウニンが記した仲間宛の手紙を持ち出すことに成功している。

少し長い手紙だが、最初の部分だけ引用させていただく。
「敬愛する友よ!
日本人は、ロシアの平和的意図とフヴォストフの不法行為に関する私達の主張の真実を確信したようだ。しかし彼等は公印のあるわが政府長官からの謝罪状を要求している。ロシアの友好的意図を充分に認識させれば、通商関係に入る望みがある。彼等は、既にオランダ人の狡猾な意図に気付いているようだ。私達は、イギリス人の手に渡った手紙の中で、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させてやったと自慢しているのを彼等に教えてやった。それでも君が彼等となんらかの交渉を持つ時は、とにかく注意をしろよ。…彼等の交渉が遅いと苛立ってはいけない。ヨーロッパでは1日2日で済むことでも、日本人は数ヶ月をかけて議論するのだ。彼等と交渉するにあたって、4つの留意点を薦める。慎重と忍耐と礼節と、そして公明正大に振舞うことだ。私達の解放のみならず国益は、君の思慮分別にかかっている。…」(同上書 p.78~79)
高田屋嘉兵衛は幕府をどう説得すればゴロウニンの解放が可能となるかが良く分かっていた。フヴォストフの乱暴狼藉はわが国の人々にロシアに対する恐怖感を植え付けてしまったが、彼のとった勝手な行動はロシア皇帝の不興を買い処罰されて、今はオホーツクの獄に繋がれている。ならば、フヴォストフの蛮行についてロシア政府は関知していないことを公文書で幕府に提出し、その上でこの男が掠奪した物品をわが国に返すべきである。そうすれば、両国の囚人の交換が可能となる…。
前々回の記事で、文化5年(1808)2月に、後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章が老中の諮問を受けて提出した意見書に、もしロシアが文化3年度、4年度の暴行を謝罪するならば交易を許して良いと主張し、その意見書に基づいて幕府でフヴォストフの再来時に手渡そうと準備した手紙があったことを書いた。その内容を繰り返すと、「狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。戦をする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ」というもので、奇しくも高田屋嘉兵衛の考えに近いものがある。
さらに注目すべきは、ゴロウニンの手紙の中で、彼が文化元年(1804)にレザノフの使節が長崎出島に来航した際の長崎のオランダ人通訳を疑っている点である。わが国の記録では、老中土井利厚から意見を求められた林述斎が、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきだと主張したことになっているが、オランダ側に日露との交易が始まることを阻止したいとする動機は間違いなく存在した。
以前、このブログで記したとおり、日本の良質な銅が西洋では高く取引され、オランダはわが国との貿易を独占して莫大な利益を獲得していたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html
そんなに日本との交易が儲かるのならば、普通に考えれば、ロシアが日本との交易を開始する交渉にオランダがロシアに協力することは考えにくい。ゴロウニンが、長崎のオランダ人通訳がレザノフと日本人との間を決裂させたと書いていることはおそらく史実なのだと思う。
高田屋嘉兵衛が呈示した解決策は、松前奉行もロシア側も満足のいくものであり、文化10年(1813)9月に松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、2年3か月ぶりにゴロウニンは解放されることとなる。
ロシア側は国境画定と国交樹立も希求していたのだが幕府は国境画定のみ交渉に応ずることとし、1814年春に高橋重賢を択捉島に送り6月8日に到着した時にはロシア船は去った後だったのだそうだ。ゴロウニンもリコルドも長い交渉で疲れて、まずは帰国したかったのであろうが、そのために国境画定は幕末のプチャーチンまで持ち越されることとなってしまった。

江戸幕府がロシアとの国交樹立を先送りにしたのは松前奉行にそこまでの権限がなかったのだろうが、ロシアがもう少し粘れば、意外と早く決着したのではないだろうか。
というのはゴロウニンもリコルドも、日本との交渉の過程でわが国に対して好意的になっており、この事件の解決に関わった日本人もロシアに対して好意的であったからである。

最後にゴロウニンの日本人に関する記述を紹介して、この記事を終えることに致したい。
「日本人が聡明で洞察力に富む国民であることは、外国人に対する態度や内政での取り計らいによっても証明される。この国民が自分達の同胞の不幸に接する時となんら変わらない思いやりのある態度を示してくれるのを、私達は幾度となく経験した。」(ゴロウニン『日本幽囚記Ⅲ』p.18)
「日本人はあらゆる階層を通して、人への接し方が極めて丁寧である。互いの礼儀正しい態度と洗練された振る舞いは、この国民が真に文明の民であることを証明するものである。幽囚の全期間を通じて、私達と時を過ごした日本人達はさほど高位の階級ではなかったが、彼等が喧嘩したり互いに口汚く悪罵し合ったりするのを聞いたことは一度もなかった。時には彼等の間で、議論が戦わされることもあったが、すべては節度と平静さの中で行われた。わが国の上流階級の集まりの中においてさえ、常にこのようにはいかない。」(同上 p.28)
ゴロウニンは2年3ヵ月もわが国で捕えられながら、最後は日本人に好意を抱くようになったことはこの文章を読めば明らかである。その点についてはリコルドも同様で、後に海軍大将となった彼の墓碑には「日本」という文字が刻まれていたことが『対日折衝記』の解説に書かれている。
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【ご参考】ゴロウニン『日本幽囚記(全三巻)』とリコルド『対日折衝記』は、淡路島の洲本市五色町にある高田屋顕彰館・歴史文化資料館で販売しています。以前淡路島の日帰り旅行でこの資料館に立ち寄りました。
淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~淡路島文化探訪の旅3
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