天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。
ちなみに、日本一大きい村である留別村は択捉島にあり、面積は1442.82 km²で、十津川村の倍以上の広さである。
十津川村は、奈良県の南西部を流れる熊野川の上流である十津川とその支流の流域をかつて十津川郷と呼び、峻険な山々に囲まれた山岳地帯にある。農耕に適さない場所であり、地域の人々は権力者に協力することで租税減免を勝ち取ってきた歴史がある。
Wikipediaにはこう解説されている。
「古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。
南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。
以上のような経緯があり、十津川郷士は純粋な勤皇であり、討幕の意識は薄かったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB
3年前に天誅組の足跡を追って奈良県の五條市から東吉野を旅行したことを書いた際に、天誅組が五條で挙兵してから東吉野で討ち取られるまでの経緯を記したのが、今回は天誅組が天辻峠に本陣を移したのち、多数の十津川郷士を集めたことを中心書くことにする。

文久3年(1863)8月13日に孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられて大和御幸が決定し、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の中山忠光を主将に迎えて天誅組を組織し京都を出発した。出発時の同志の人数は38人で、18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であったという。

天誅組は8月17日に大和の五條代官所を襲撃し、桜井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨を宣言したが、その翌日の8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も急遽中止となってしまった。
19日には五條にその知らせが伝わり、わずか1日で天誅組は挙兵の大義名分を失い、「暴徒」とされて追討を受ける立場となってしまう。
天誅組は追討の兵を警戒して、要害堅固の天辻峠に本陣を移しそこで十津川郷士を募ることに決したのである。
十津川郷は、神武天皇東征軍の先鋒を勤め、皇軍を案内した八咫烏が十津川の祖先とされているほか、壬申の乱の時には大海人皇子(天武天皇)を助け、南北朝時代には、大塔宮護良親王の十津川御潜居をお守りしたという勤王の歴史を持つ土地柄である。
吉村寅太郎が22日に十津川郷川津村の野崎主計と対面し十津川郷士の協力を要請して了解を得、23日に十津川郷で檄文を発すると、25日朝までに天辻峠の本陣に1100人が集結したという。

舟久保藍氏の『実録 天誅組の変』に吉村寅太郎の檄文が引用されているが、檄文というよりは脅迫に近いものがある。
「昨廿二日申渡し候上は、早刻出張有るべく候得共、火急の御用に付十五歳より五十歳迄残らず明廿四日御本陣へ出張これ有るべく、若し故なく遅滞に及び候者は、御由緒召放され、品(法の意。ここでは軍令をさす)により厳科に処されるべく候條、其心得を以て早々出張これ有るべく候、以上」(『実録 天誅組の変』p.106)

道の駅『吉野路大塔』の手前を急な角度で左折する道があり、その急坂を1kmほど登って行くと『天誅組本陣跡』の碑がある。
この場所はこの地方きっての富豪であり有力者であった鶴谷治兵衛の屋敷があった場所で、治兵衛をはじめ村人たちは天誅組に協力を惜しまなかったというのだが、この時点では十津川郷士たちは、8月18日に宮中でクーデターがあって、孝明天皇の大和行幸が中止となったことを知らなかったことは重要なポイントである。
本陣に集まった郷士たちは、天誅組は勅命により組織された御親兵でありこれから幕府を迎え撃つことの説明を受けたのだが、その時に玉堀為之進と上田主殿の二人が勅命の真偽を問い質し、京都に使いを出して事実確認をしたうえで十津川郷士の行動を決めるべきだと主張したのだそうだ。
もともと「勅命」というのは徴兵のための方便であったため、吉村寅太郎は他への影響を恐れてこの二人を斬首したという。
天誅組は高取城の攻撃に向かうが、高取藩兵の銃砲撃を受けて敗走。その後も討伐軍との戦いで敗北を繰り返し、また朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が天誅組の十津川郷士たちに届き、天誅組の主戦力であった十津川郷士が9月15日に天誅組から離反してしまう。主将の中山忠光は9月19日に天誅組の解散を命じて残党は伊勢方面に脱出を図るも、東吉野の鷲家口で幕府軍に捕えられ、天誅組は壊滅するという流れである。

『天誅組本陣跡』から道の駅『吉野路大塔』(0747-35-0311)の駐車場に車をとめて、国道の東側にある『大塔郷土館』に入る。上の画像の茅葺の建物が16品の郷土料理を食することのできる施設で、白壁の建物が旧大塔村の歴史・文化・伝統技術の展示館になっている。
次のURLに郷土料理のメニューが出ているが、タイミングが合えばここで食事するのも良さそうだ。
http://www.pref.nara.jp/norinbu/umaimono/kt-omise/ootou-kyodokan.html
展示館には南北朝時代の護良親王や幕末の天誅組に関する展示と、「木地師(きじし)」と呼ばれ、トチやブナやクリの木を加工して椀や盆をつって生業とした技術者集団の展示物があった。大塔村では壺杓子が特産品になっているそうだが、残念ながらこの伝統技術を受け継ぐ人は少なくなってきているという。また1階で大塔町と天誅組と護良親王との歴史についてわかりやすい映像を観ることが出来る。

この『大塔郷土館』の近くに大塔宮と呼ばれた護良親王の銅像がある。
護良親王は後醍醐天皇の皇子で、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が幕府討幕運動(元弘の変)を起こすと戦いに加わり、令旨を発して反幕勢力を募り十津川・吉野・熊野等を転々として2年間にわたり幕府勢力と戦った。「大塔」という地名は、護良親王がこの地の豪族である戸野兵衛・竹原八郎らに匿われたことに由来するという。

鎌倉幕府討幕後、建武の新政で征夷大将軍に任ぜられたが足利尊氏と対立し、尊氏の弟・直義が差し向けた刺客に襲われ最期を遂げたのだが、南朝のことはいずれ調べて書くことになるだろう。
大塔町はまだ五條市で、十津川町との境界線のある城門トンネルまではあと12km以上あり、目的地の温泉地(とうせんじ)温泉に行くにはさらに30km程度走る必要がある。カーブが多くまた道幅が細いところもあって、山道のドライブは思った以上に時間がかかった。

温泉地温泉は十津川村のほぼ中央に位置し、十津川の温泉の中でも最も古い歴史がある。
「温泉地(とうせんじ) 」温泉という名に違和感を覚えて調べてみると、昔は薬師如来を本尊とする「東泉寺(とうせんじ)」という寺がこの近くにあったという。
Wikipediaによると『東泉寺縁起』という書物が現存し、それによると、役行者(えんのぎょうじゃ)が十津川の流れを分け入ったところにある霊窟で加持祈祷を行ったところ湯薬が湧出し、弘法大師が大峯修行の際に湯谷の深谷に先蹤をたずね薬師如来を造顕したと伝えられているのだそうだが、この話は嘘っぽくてそのまま鵜呑みにはできないものの古くからこの地に湯が沸き出ていたことは想像できる。その後宝徳2年(1450)の地震で湯脈が変わって武蔵の里に湧出するようになり、いつしか十津川沿いの現地に移ったと記されている。
『東泉寺縁起』以外の文献にこの温泉が記されているのは、天文22年(1552)に本願寺寺僧の湯治(『私心記』)という記録があり、その後も天正9年(1581年)に佐久間信盛(『多聞院日記』)、天正14年(1586)に顕如上人(『宇野主水記』)に、訪れた記録が残されているようだ。

寛政3年(1791)刊の『大和名所図会』にこの温泉のことが書かれているが、この当時は湯原(ゆはらの)温泉と呼ばれていたようだ。
「湯原温泉 二所あり。一所は十津川荘湯原村にあり。一所は同荘武蔵村の東泉寺にあり。浴(ゆあみ)する時は則(すなわ)ち痼疾は治す。湯原は[類字名所]に大和国にあり。十津川の温泉(いでゆ)にこそ侍(はべ)らめ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959906/364
地図で確認すると、「湯原」という地名は今はなく「湯之原」という地名が今の温泉地温泉のある武蔵、小原地区の少し北にある。
温泉地温泉には十津川村役場の周辺に、3軒の旅館と1軒のホテルと2軒の民宿があり、さらに10km以上南にある十津川温泉・上湯温泉とともに「十津川温泉郷」として、国民保養温泉地、日本名湯100選に指定されているのだが、「十津川温泉郷」というと「十津川温泉」をまず連想してしまって、そちらに予約する観光客が多いことと思われる。しかしながら江戸時代から続く名泉は十津川温泉ではなく温泉地温泉なのであり、湯質もそれぞれ異なり十津川温泉・上湯温泉がナトリウム炭酸水素塩泉であるのに対し温泉地温泉は単純硫黄泉だ。
http://www.gensen-kakenagashi.jp/cgi/spa.cgi?totsukawa

交通不便な場所にあるために宿探しに迷った末、私は「かたやま」という民宿を選んだが、食事は地元のものを自然に料理してあり美味しくて、風呂は源泉かけ流しの硫黄泉で体の芯から温まった。これで1泊2食付7千円台の価格は随分リーゾナブルだった。
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【ご参考】天誅組と南朝の歴史を辿って、3年前にこんな旅行をしてみました。良かったら覗いてみてください。
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html
吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html
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